第9話 期待の梅雨明け



三砂が朝から浮足立っていた。表情も天気とは正反対に晴れ晴れとしている。普段から笑顔の多い人だが、それにしてもずっと笑っていた。というより、にやけている。



「良い事でもあったんですか」



「まあ、時機に分かるから」



 何を聞いてもそんな風に答えるばかりで、しかし仕事はしっかりこなしている。葵は訳が分からないまま仕事を続け、夕方になってもまだ嬉しそうな三砂を残して帰宅した。



「あれ?」



 母の車が、自宅の駐車場に停まっていた。陽も暮れてないこの時間、母は市役所でまだ仕事をしている筈だ。今日は早く帰るとは聞いていないし、連絡がないのだから父が倒れたなどという緊急事態でもないだろう。



「なんだろ?」



 深く考える事なく家に入る。ただいまと言っても返事はない。不審に思いながらリビングに向かうと、母が無言でソファに座っていた。



「……どうしたの?」



「競龍場で、厩務員のバイトをしてるみたいね」



 ついにこの日が来たか。



 自分でも驚くほど、葵は冷静だった。母の静かな声に静かな表情、一時的な感情の高ぶりが収まっているからこそ、娘を説得しようという母の強い思いが伝わってくる。



「……お父さんには許可貰ったよ」



 母が、微かに驚いたような顔をした。それから息を吐き、葵を見つめ直す。



「お母さんね、龍をこの街から追い出す為の市民活動をしてるの。忙しい時間を縫ってそんな事をする理由、分かる?」



 答えない。下手に何かを言うより、言われてきた事だけに言い返すのが無難だ。



「龍はね、危険なの。彼らが狩れないのは海に棲むクジラとかの大型生物ぐらいで、地上の動物は何だって狩れる。陸上で最大の象は勿論、人間だって簡単に攫えるし、殺せるの。それも、ちょっと嘴で突かれたぐらいで人間は死んでしまう」



 葵は競龍の厩務員だ。言われなくても龍の能力は知っている。



「龍は今でこそ絶滅の瀬戸際でなんとか人間に生かされているのが現状だけど、人間が龍と立ち向かえるようになったのは銃が発明されてから。それも今だってちょっと龍が機嫌を損ねれば、人間なんて一瞬で殺されてしまう。これ、ちょっと前のニュースだけど」



 タブレット端末を渡される。表示されているのは北海道の地方新聞のネット記事だ。



 厩務員が競翔龍に殺される。



 短い記事だ。突如として競翔龍が暴れ出し、世話をしていた厩務員が頭を翼で殴られて死亡した。



「それだけじゃない。こっちは少し古くなるけど」



 母はタブレット端末を取り返し、ささっと操作して葵に渡した。



 逃げた競翔龍が人を殺す。



 二年ほど前の記事になる。調教を終えた競翔龍が一瞬の隙を突いて飛翔し、競龍場のある山から逃亡した。全ての競翔龍にはGPSが仕込まれており、それを追って警察だけでなく自衛隊まで出動しての大追跡が始まった。その競翔龍は若い個体で、レースを教える為に軽く飢えさせて人間の指示に従いやすい状態にしていたという。



 そして、事件は起きた。逃げた競翔龍は偶然出くわした登校中の小学生を殺傷し、ほどなくして到着した自衛隊により殺処分となった。



「分かる? 龍は危険なの」



 その事件は覚えていた。当時はテレビも盛んに取り上げ、最近でも三砂がその話題に触れ、一時は競龍の存続も危うくなったと聞いた。



「龍はライオンや虎よりも遥かに危険。葵、あなたはそんな龍の世話をしているの。考えても見て? 動物園でライオンや虎の世話をする時、飼育員はどうしてる? 檻を掃除する時なら彼らを別の部屋に移したりして、絶対に直接触れ合わないようにしてるでしょう? それに引き換え、競翔龍はどう?」



 世話はなんとかなるとしても、レースでは絶対に人が乗る。競龍というものの性質上、龍と決して触れ合わないのは不可能だ。



「良い、葵」



 母は、葵の手からタブレット端末を奪い取った。



「親として一人の大人として、あなたにそんな危険な競龍の厩務員の仕事はさせられません。今すぐ止めなさい」



 龍が危険なのは分かっている。いや、一度足りとも触った事がないのだから、本当の意味では分かっていないのかもしれない。だから競龍に関わるなという言葉に感情は揺れなかった。しかし、別の部分が葵の感情を揺さぶった。



「……お母さんは、競龍をどう思ってるの?」



 少し間が開いて、母は平然と言った。



「野蛮なギャンブル。葵、あなたが一生関わらなくて良いものよ」



 やはり、そうか。



 葵自身や、葵のしている事を否定されるのは気にしない。龍や競龍そのものを否定するのも個人の思想だから悪いとは言わない。



 だが、その競龍に命を懸けている人を否定されるのは、どうしても許せなかった。



「……お母さんは、競龍の何を知ってるの?」



 葵はまだ、競龍についてほとんど何も知らない。親次があそこまで競龍に命を懸ける理由もよく分からない。競龍の本当の姿が母の言う通りの可能性もある。



 でも、憧れの人を否定されるのだけは、どうしても我慢がならなかった。



「競龍を内側から見た事があるの? 龍と実際に触れ合った事はあるの? 競龍を仕事にする人の話を聞いた事があるの?」



 母は何も言わない。呆気に取られたように、口を半開きにしてしきりに瞬きしている。



「私は私、お母さんはお母さん、お母さんの考えを私に押し付けないで。競龍はお母さんにとって危険で野蛮で、お母さんには必要ないものかもしれない。けど、今の私には一番大事なものなの」



 そうだ。今一番大事なのは競龍だ。



 今のままで良いのか。龍に触れる事さえ許されないこの状況で、親次が競龍に命を懸ける理由が分かるのか。就きたい職業もなく暗闇に染まった将来が、明るくなるのか。



 なるわけがない。



「お母さん、一つだけ答えて。お母さんは絶対に、私が競龍の厩務員を続けるのに反対?」



 我に返ったように、母は居住まいを正した。



「反対です」



 それが結論だ。



 葵はもっと競龍に力を入れたいが、母は競龍に反対している。話は平行線だ。母は退かないだろうし、葵も自分の将来の為に退く気はない。



 それなら、取るべき方法は一つだ。



「私、家出るね」



 厩舎の横には重連の家がある。そこの空き部屋に泊まらせてもらおう。他の厩舎では若い騎手が調教師の家に居候するのは良くあるらしく、葵が居候するのも問題ない筈だ。そうして毎日競龍に関わり、親次が競龍に命を懸ける理由を探そう。



 母が何か言いかける。寸前、葵は言った。



「私の邪魔しないで」



 葵は自分の部屋に籠って手早く必要な荷物を鞄に詰め、数分後には自宅を飛び出した。



 雨合羽を着て自転車を走らせる。無我夢中でペダルで漕いだ。息も切れ切れであせだくになり、それでも全力でかっとばす。あっという間に一萬田厩舎に着いた。



 一台の大型トラックが、厩舎の前に止まっていた。



 重連と三砂も表に出ている。葵は自転車を隅に停めると、重連だけが葵に気付いた。しかし無言でトラックに視線を戻す。三砂は別れる前よりも瑞々しい笑顔でトラックの荷室を見つめていた。



 トラックのキャビンから二人の男が降りてきた。一人は重連と話し、もう一人はトラックの荷室を開ける。そこには、一騎の緑龍がいた。



 瞬間、三砂が荷室に駆け上がった。



「キング!」



 三砂は緑龍の頭を抱きしめた。自分の子供のように何度も頭をさすって可愛がり、緑龍も母親に甘えるように三砂に頭をこすりつける。



「三砂、早く龍房に連れていけ」



 男と話していた重連がいつものように不機嫌そうな声を出す。三砂は返事をして手綱を引き、緑龍をトラックの荷室から連れ出した。



「あれがキングフィッシャーか」



 後ろから親次の声がして、葵は振り返った。



「あの龍の名前?」



「ああ、三砂さんが世話を任された龍だ。今まで調子崩してたのが帰ってきたんだって」



 三砂がおかしかったのは、そういう事だったのか。



 まだ幼いのか元から小さい個体なのか、その緑龍はほかの龍に比べて二回りは小さい。今まで見た個体の中でも群を抜いて小さい緑龍だ。そのせいか、三砂と緑龍の関係はなおのこと親子のように見える。



 ちょっとだけ羨ましかった。



 龍に触れられる事が、より深く競龍に関われる事が羨ましい。三砂は葵の何歩も先にいる。葵の知らない競龍を知っている。



「で、葵、なんでそんな汗だくなんだよ」



 言われて自分の状態に気付き、葵は親次から一歩離れた。



「ほっといて」



 親次は何か言いかけるが、億劫そうに息を吐いて厩舎に眼をやった。



「これから忙しくなるぞ」



「何かあるの?」



「そろそろ梅雨が明ける。換羽期の季節だ」



 換羽期、羽が生え変わる時期だ。



「龍が飛べなくなるの?」



「飛べるよ。でも飛翔能力が落ちるから中央はオフシーズンに入る。だからこそ、地方は掻き入れ時だ。換羽期に入るのが早いのは餌を多く与えて早めに換羽を終わらせて、換羽期に入るのが遅いのは食餌量を抑えて換羽期を遅らせる。で、この時期に備えるんだ」



 つまりこの時期、地方競龍は最も熱くなる。いや、地方競龍だけではない。葵は数日前の事を思い出す。



 ダイブの記者が訪ねてきた時、親次は中央競龍の復帰の件で重連と揉めていた。結局は親次が折れる形で落ち着いたが、あれ以来親次はそんな揉め事がなかったかのように重連と接し、リハビリと競龍に心血を注いでいる。



 親次にとっても、この時期が勝負なのだ。



 こうしてはいられない。葵は重連が会話を終えたのを見計らって、重連の正面に素早く回り込んだ。



「今日から住み込みで働かせてください」



「は?」



 そう言ったのは親次だった。葵は親次を無視して、重連を一直線に見つめる。



「……好きにしろ」



 相変わらず不愛想な言葉だが、実は優しい人ではないのか。三砂が懐いているのもそこが理由だろう。葵はそう思いながら、勢い良く頭を下げた。



「ありがとうございます!」



 もう時期梅雨が明け、一気に夏がやってくる。葵にとっても誰にとっても、あつい時期がやってくる。

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