何でも屋ワンダー・パレスの霊能力者

竹入嵯峨

第1話

 街灯が、アスファルトの道を闇から浮かび上がらせていた。

 男は一人、日付が変わってすぐの街をのっそりと歩いていく。薄っぺらな鞄は肩から重く下がり、皺になったスーツは前が開いて揺れていた。

 街灯の光から出て暗がりに溶け込む。十歩ほどしかない次の光まで、足を引きずるようにして進んだ。

 五歩目を地に付ける。背後からさりさりと何かがアスファルトに擦れる音が聞こえた。歩く速度は変えない。

 次の街灯の下を通り過ぎた所で音がやんだ。

 構わず歩こうとしたが、首に何かが巻き付いてきて体を後ろに引っ張られる。前に進もうとすると首が絞まった。

 首に巻き付いたものに触れる。布だった。

 触れた途端、それが首をぎりぎりと絞め始める。布をはがそうと端を引っかいても、皮膚が傷付くばかりではがれなかった。首にぴったりと張り付いていて、全く隙間が無い。

 もがきながら布の伸びる方へ振り向いた。光の中に白くまぶしい女が立っている。布は女の手から伸びていた。目を凝らして見ると、女の腕が途中から白い布に変わっている。

 驚いた声が喉でかすれて漏れ出た。それを鳴きやませるように一層首が絞め上げられる。

 骨がきしむ音がして、男は暗がりの中に沈んだ。




 ミキは赤紫色の絨毯の上を緊張した顔で歩き回っていた。

 部屋の中央に置かれたアンティークのローテーブルを二人がけのソファが挟み込んでいる。奥側のソファには蔵彦がもたれかかり、ミキを見ていた。

 ミキは蔵彦に視線をやる。蔵彦がこちらを見てにっこりと笑った。

「いつも通り、力を尽くせば大丈夫だよ」

「そうは言ってもね、蔵。久々の大きな依頼なんだから気合い入れないと」

 幼い頃から付き合いのある彼のことを、ミキは当時から「蔵」と呼んでいる。まだ三歳だった彼女の口には、「蔵彦」という名前は呼びづらかった。

 不意にドアがノックされる。ミキが開けると、お静の首がうどんのように伸びていた。前髪が少し乱れて、艶めく顔を更に引き立たせている。

「ミキ。この間買ってきたお茶請け、どこにあるか知らないかい? 探しても見当たらないんだよ」

「あ。あれは……」

「まさか、食べたのかい?」

 わずかな声の揺らぎを聞きとがめて、鋭いまなざしで睨んできた。

「だって、あの練りきり、美味しいんだもん」

「あんたって子は、何考えてんだい!」

「お菓子なら他にもあるでしょ!」

「あれはいつも客に出してるだろ!」

 更に説教が続くかと思ったところに、部屋の外からインターホンのチャイムが鳴り響いた。中断を余儀無くされたお静の首が胴体の下へ渋々といった様子で戻っていく。

 タイミングに救われたミキは軽やかな足取りでインターホンに向かった。相手を画面で確認して建物を出る。

 広い庭を一分かけて歩き、人の背丈の倍はある鉄柵の門を開いた。門の外側には、「何でも屋 ワンダー・パレス」と書かれたアンティーク風の鉄看板がかかっている。

 その下で女性が体を小さくして立っていた。彼女が会釈をすると、切り揃えられたショートボブがふわりと揺れる。

「園田さんですね? いらっしゃい」

「あの。何でも屋さんで、よろしいでしょうか?」

「そうですよー。さ、中へどうぞ」

 彼女を門の中へ迎え入れ、家に案内した。

 ミキはこの家で暮らしているが、洋館と言った方が外観に対して正しい。

 都内の住宅街にあって非常に広大な敷地を細い鉄柵がぐるりと囲んでいた。門の先には敷地の約三分の二を占める庭が広がっている。中央を突っ切る道の左右には緑の生け垣がいくつも並んでいた。門と洋館の間をキャンバスにしてさまざまな紋様を描いている。

 庭を抜けて、洋館前の環状の車止めを左から回った。

 家屋は二階建ての割りに高く、横幅は周囲の家七軒分ほどある。白く輝く外壁は定期的に塗り替えられていて、百四十年近くそのたたずまいを保っていた。

 大きな両開きの扉をくぐった先は広いロビーになっている。赤紫の絨毯が広がるロビーの両隅から幅広の階段が二本緩やかにカーブして、二階へ続く踊り場に向かっていた。

 二人は土足のまま絨毯の上を歩く。

 左の廊下に入って、ロビーに一番近い部屋のドアを開けた。そこは先ほどまでミキが歩き回っていた応接室である。

 ドアが開くと同時に蔵彦が立ち上がり、柔らかく微笑んで一礼した。ミキも彼の隣に立ってそれに倣う。

「初めまして。何でも屋『ワンダー・パレス』代表の御船蔵彦です」

「あたしは従業員の長南ミキ。よろしく!」

「園田沙綾です。依頼を受けて下さって、本当にありがとうございます」

「こちらこそ、ありがとうございます。先日のお電話でもお聞きしましたが、改めて今回のご依頼についてお話しいただけますか?」

 蔵彦に勧められ、園田が向かいのソファに身をかがめるようにして座った。二人もソファに腰を沈める。

 ドアがノックされ、お静が入ってきた。盆から滞りなくお茶とお茶請けをテーブルに載せていく。

 園田がお静の顔を見てぎょっとした。

 お静の顔立ちは、夜の華と称しても言い過ぎではないほどの色気をたたえている。洋館の豪華な雰囲気と相まって、美貌が恐ろしく際立っていた。どこのクラブから引っ張ってきたんだと聞かれたこともある。

 その顔で長いこと生きてきた本人はその視線をさらりと流して、音も立てずに下がっていった。

 園田が気を取られている隙に、蔵彦が目をしっかりと閉じて、開く。

 その視線の先で、我に返った園田がゆっくりと話し始めた。

「一週間前から連絡の取れない人を探していただきたいんです」

 園田は薄いピンクの小さなショルダーバッグからスマホを取り出す。画面に男性の映った画像を表示させて二人に見せた。

 ミキはスマホを受け取り、蔵彦の肩を軽く叩いてから目の前にかざす。

 画面にはカフェらしき場所にいる園田と男性の姿が映っていた。スマホで自撮りしたもので、ほころぶ園田と、少しぎこちなく笑う男性が顔を寄せ合ってフレームに収まっている。

「名前は辻敬一。年齢は二十八歳。身長は百八十センチくらいです。警察にも相談したんですが、いなくなる前にメッセージが来ていたので、緊急性は低いと言われて取り合ってもらえませんでした」

 ミキからスマホを一旦返してもらい、そのメッセージを表示させた。確かに、しばらく連絡が付かないけど心配しないでほしいと書かれている。

「でも、どうしても心配で、自分でも探したんですけど見つからなくて。どうか、彼を見つけてください。お願いします」

 園田が深々と頭を下げた。

 ミキは少し身を乗り出して鼻高々と答える。

「お任せ下さい! あたしたちにかかれば、すぐですから」

「よろしくお願いします」

「それじゃあ、園田さんが探した場所と、彼が行きそうな場所を聞いてもいいですか? あたしたちも見ておきたいから」

 ミキはローテーブルの端に置かれたメモに場所を書き取り始めた。

 蔵彦が再びしっかりと目を閉じて、開く。

 書き終えた紙の上には十個近い地名が並んでいた。

「結構探したんですね。大変だったでしょう」

「辻さんを見つけるのに必死だったので」

「失礼ですけど、お二人の関係は?」

「今は、友達です。いなくなる少し前に告白して、そうしたら」

 園田の視線が膝に置いた自分の手に向けられる。

「なるほどね。だったら、あたしたちも気合い入れて探さないと」

「園田さん。僕たちが必ず見つけ出します。安心して待っていて下さい」

 挨拶以来、蔵彦がようやく口を開いた。よろしくお願いしますと、弱った声が返される。

 その後、業務についての説明と契約を終えて、ミキが門まで見送りに出た。

道すがら、ミキは園田に尋ねる。

「そういえば、どうしてうちに依頼したんですか? ほら、何でも屋って看板はかけてるけど、建物がこんなでしょ。初見の人はなかなか来ないから」

「私、この近くに住んでて、この建物のことは前から知っていたんです。今回、辻さんの捜索をお願いするって考えた時にここを思い出して。以前から気になっていたのもあって、依頼させていただきました」

「それはそれは、ありがとうございます」

 ミキは仰々しく頭を下げた。

「辻さんはあたしたちが絶対に見つけてみせますから」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

 園田は深く一礼して、少し開けた門の間を抜けて帰っていく。

 応接室に戻ったミキは、蔵彦の向かいに座って彼の顔を覗き込んだ。

「蔵。何が〝視えた〟?」

「まずは、園田さんが暮らしている部屋。次に、二人がデートしているところ。彼は、園田さんをとても大事にしている優しい人だと思うよ」

「大事にしてるなら、告白されて逃げたりしないでしょうが」

「最後は、辻さんの〝生まれた〟場所。彼は今、きっとそこにいる」

「生まれた場所? 何でそんな所が〝視えた〟の?」

「辻さんから話を聞けばわかるよ。行こう」

 蔵彦がはやる足で部屋を出る。ミキも慌てて後を追った。

 洋館を出たのを確認して、持っていた銀の鍵を大扉のシリンダーに差し込んで施錠する。裏手へ回る蔵彦と別れて門へ向かった。

 門を開いてしばらく待つと、銀色のセダンが白い洋館を背にゆっくりと走ってくる。東の太陽がその肌をまばゆかせ、ミキの目に光を投げた。

 車が道に出た後、単純な形の鍵穴に黒い古鍵を差し込んで門を施錠する。

 助手席でシートベルトを着けたのを確認して、蔵彦が東へ滑らかに車を発進させた。

 カーステレオからは蔵彦の好きな曲が流れている。今日の選曲は、子どもの頃にどこかで食べたラーメンを求めて旅をする男の歌だった。

 蔵彦は歌詞の内容が変な曲を好んでいた。歯に繊維が挟まって気になるとか、終電に乗ったのに眠ってしまって降りる駅を通り過ぎた絶望とか、歌の題材にあまりならないような内容のものばかりをどこからか探してきては聴いている。

 ミキははっきり言って、このダサい選曲が好きではない。

 そう思って自分の好きな曲を入れようとしたことがあったが、すんでのところで蔵彦に止められてしまった。怒るのではなく少し寂しそうに断ってくる蔵彦に、ミキはいたたまれなくなってあきらめた。

 曲を自分の耳に入れないようにするためにも、ミキは蔵彦に先ほどと同じ質問をする。

「で、どうして依頼人から彼氏の生まれた場所が〝視える〟わけ?」

「ミキちゃんは、自分が大切な人の前からいなくなりたいと思う時って、どんな時?」

 ミキは難しい顔で考え込んだ。

「それは例えば、例えばよ? 何かとんでもない事やらかしちゃって、その人のそばにいたら迷惑がかかっちゃうとか、嫌われちゃうとか、そばにいる資格が無いって思った時、とか?」

「辻さんもきっとそう思ったんだろうね」

「そう思うって、辻さん何したのよ」

「何かをしてしまったわけじゃない。辻さんは、自分の本当の姿に葛藤してるんだ」

「葛藤?」

「会えばわかるよ、ミキちゃんなら」

 車は都心の近くに出る。平日の昼近くで車通りは大分落ち着いていた。

 大通りから一本入った所の駐車場に車を停める。周りには住宅が建ち並んでいた。人の姿は全く無い。

 ふと思い立って、ミキは園田から聞き取ったメモを見返した。メモの一番上にこの場所が書かれている。

 車を降りた蔵彦が大通りと平行に走る路地を進んでいった。彼の後を追って区画を二つ通り過ぎる。

 十字路の近くで、青年が道路に向かって立っていた。隣まで近付いて横顔を覗く。写真で見たあの青年だった。

「辻敬一さん、ですか?」

「……あんたたちは?」

「僕は御船蔵彦と言います。彼女は」

「あたしは何でも屋『ワンダー・パレス』の従業員、長南ミキ! あなたを探してほしいっていう依頼人のために……、って、あなた、もしかして」

 蔵彦の自己紹介にかぶせて、ミキは意気揚々と名乗りを上げる。その声も、辻を見るなりだんだんと小さくなった。

 彼の見た目も声も雰囲気も、不審なところは何も無い。すれ違っても特別気に留めないだろう。彼の姿が見えているのなら。

 彼の姿は今、二人以外の人間には見えていなかった。

「この人、幽霊?」

「そうだよ。だから、〝生まれた〟場所も〝視えた〟んだ。辻さんの誕生には、園田さんが大きく関わっているから」

「やっぱり沙綾か。依頼したのは」

「えぇ。とても心配していましたよ」

「だろうな。身近な人間がまたいなくなったんだから」

「どういうこと?」

「園田さんは以前、ここで恋人を失っているんだ」

 ミキの質問に蔵彦が答える。辻が怪しむような目で睨み付けた。

「俺たちの事、随分と調べたみたいだな。それに、俺の姿が見えてるのだって」

「僕とミキちゃんは霊能力者です。何でも屋として仕事をするに当たって、依頼人に内緒で能力を使っています。僕は、物や人、場所を通して過去の出来事や遠い場所を〝視る〟、透視能力を持っています。今回は園田さんに直接お会いして、お二人の過去を〝視させて〟いただきました。もちろん、個人情報はしっかりと守りますのでご心配無く」

「じゃあ、俺が沙綾の彼氏から〝生まれた〟ってのも?」

「知っています」

「そうなの?」

 思わず出た大声に、ミキは慌てて周囲を見回す。特に誰かが見ているようなことは無かった。

「待って。その言い方だと、自分を〝生んだ〟人と自分が同一人物じゃないってわかってるの?」

「同一人物も何も、そもそもあいつとは見た目が違う。そうでなきゃ、沙綾のそばにはいられない」

「それはそうだけど、大分珍しいタイプじゃない?」

「幽霊は自分を〝生んだ〟人と見た目が一緒になることがほとんどだからね」

「俺もそこがずっと引っかかってたんだ。何で姿も性格もあいつと違うのか」

「それは、幽霊の正体が亡くなった人そのものではないからです」

 要領がつかめない様子の辻に、蔵彦が続けて説明する。

「幽霊とは、亡くなった人が今際の際に放つ霊的なエネルギーで生み出された妖怪の一種です。そもそも、神様や妖怪は人間の心から生まれる存在です。人々の感情や、こんな存在がいるかもしれないという思いなどから、その思いに即した神様や妖怪が〝生まれ〟ます。ここで重要になるのが、その思いの強さです。死を前にした人の思いは特に強くなります。生前に霊的能力を持っていない人でも、その人一人のエネルギーだけで妖怪が生まれるほどに。その時の思いは往々にして自分にまつわる何かですので、そこから生まれた『幽霊』と呼ばれる妖怪は、その人の姿と記憶を持っていることがほとんどです。なので、幽霊は自分を、自分を生み出した人自身であると認識することが多いんです」

「そうやって勘違いする幽霊がほとんどなんだけど、辻さんはどういうわけか見た目が一緒にならなかったと」

「それは多分、俺が沙綾を守るために〝生まれた〟からだ」

 辻がはっきりと答えた。

「俺は見た目こそ違うけど、あいつの記憶はちゃんと持ってる。だから、死に際のあいつの思いも覚えてる。この道の上で苦しみながら、沙綾のことを考えてた。死を覚悟した時、あいつは願ったんだ。自分じゃなくていい。誰か、沙綾を心の底から愛して守ってくれるやつが、沙綾を幸せにしてくれるやつが現れてほしいって。その思いから、俺は〝生まれた〟んだ」

「だったら、何で園田さんから離れちゃったの」

 急に口をつぐんだ辻の顔を覗き込む。

「ちょっと。聞いてる?」

 蔵彦がミキの肩に手を置いてたしなめた。

「無理に言う必要はありません」

「後で勝手に〝視る〟からいいってことか」

 吐き捨てるような言い草に、蔵彦が小さくかぶりを振る。

「僕は過去や遠い場所を〝視る〟ことは出来ますが、未来や人の心を〝視る〟ことは出来ません。どちらも、まだこの世界に現れていないからです。未来が今に現れていないのはもちろんですが、心は形にして表現することで初めてこの世界に現れます。でも、存在しないわけじゃありません。妖怪が普通の人には見えないのと同じように、自分の心の中にちゃんと存在しているものです」

「何が言いたい」

「あなたが園田さんの前で実体化するように、あなたの心も、あなたが伝えたいと思った時に形にして下さい。それが今じゃなくても構いません。ただ、あなたを待っている人がいる事だけは、忘れないで下さい」

 蔵彦が、優しく、温かく、微笑んだ。

 自分を見つめる彼をちらりと見やって、辻が呟く。

「……まだ、帰れない」

「わかりました。園田さんにはそのようにお伝えしておきます」

「頼む」

「それじゃあ、僕たちはこれで」

「あんまり長々と待たせちゃ駄目よ」

 二人は辻に背を向けて、来た道を歩き出した。

「本当、蔵にかかると人捜しもあっという間だから、商売上がったりで困っちゃう」

「依頼人をあまり待たせたらかわいそうじゃないか。早く見つけてあげるのが一番だよ」

「そりゃあ、そうだけど、このまま放っておいて大丈夫? 妖怪に襲われたりしたら、依頼人に会わせる顔が無くなっちゃうよ。言ってるそばから何か来たし」

 ミキが指を差した方向から、全身を黒でコーディネートした、細身ながら威圧感のある男がこちらに歩いてくる。

「ねず! 久し振りー!」

 男がミキの声に気付いて二人を見た。あからさまに怪訝な顔をして立ち止まる。

「うわっ。マジかよ」

 蔵彦も男に歩み寄り、にこやかに声をかけた。

「大鼠、久し振り。地上に出てくるなんて珍しいね」

「用があんだよ。で、お前らは?」

「仕事で人捜しに来たんだ。もう見つけられたから、帰るところだよ」

「あぁ、あいつか」

 大鼠が辻の方に顔を向け、二人も振り返った。

 死角になっている通りの方から伸びてきた白い布が辻の首に巻き付く。布に首を絞められて苦しみ出した彼に、二人は駆け寄った。

「辻さん! 大丈夫?」

「まずはこの布を取ろう」

 蔵彦が布をはがそうとするが、皮膚にぴったりと張り付いてしまっている。

 ミキは布が伸びてきている先を見た。白い着物の女が布の腕を伸ばしている。

 女は乱れた黒髪の奥から射殺さんばかりの目付きで辻を睨んでいた。アスファルトも覆う長い裾が、女を景色から浮かび上がらせている。

「何、あいつ! 布の妖怪なんてこの辺にいたっけ?」

「布の妖怪……。一反木綿かな」

 女の正体に考えを巡らせながら、布の端をかき続けた。はがれる気配は全く無い。辻の首は皺が寄るほどに絞められていった。

 犬が女の首元に飛びかかったのはその時である。その勢いを受けて、女が背中から倒れ込んだ。

「霊獣? って事は、菊近?」

 ミキは周囲を見回す。犬が飛び出てきた道から、皺の無いスーツをかっちりと着込んだ男が悠々と歩いてきた。

 布が伸びる先を目で追って、三人を睨んでくる。

「御船か。邪魔だ。立ち去れ」

「あたしもいるんだけど! 長南ミキも! あなた、菊近の人でしょ? 何なの、あの妖怪!」

「貴様らには関係無い」

 男は食ってかかるミキに一言言ったきり、顔を女と霊獣の方に向けて黙り込んだ。

 女の首から流れ出た血が道路を濡らす。妖怪にとってそれは、自らの生命活動に対する機能を何ら持たない液体だった。それでも、「血が大量に出たら死ぬ」という人の常識がある以上、大多数の妖怪たちもその原理に囚われている。

 霊獣の牙は女の首を噛み砕こうとしていた。それでも布がほどける様子は無く、辻はじりじりと首を絞め上げられる。

 ミキはたまらず、振り返って叫んだ。

「大鼠! 『この幽霊を妖怪から助け出して』!」

「何で俺が」

「いいから!」

「大家の犬がやってんだろ」

「『い、い、か、ら、やっ、て』!」

「……わぁったよ、やるよ」

 気乗りのしない返事を返した大鼠がするりと姿を変える。ビッグスクーターほどの巨体となった大鼠が滑るように辻の下まで近寄った。後ろ足と長い尻尾でバランスを取って立ち上がり、首に巻き付く布にかじり付く。それでも布は緩まなかった。

「手出しするな、御船」

 男が蔵彦に向かって忠告する。蔵彦も男に言葉を投げかけた。

「僕たちはこの〝人〞を助けたいだけです」

「こやつは我々が倒す。邪魔するな」

「この布が取れればいいんです。邪魔をするつもりはありません」

「貴様、菊近に歯向かうというのか」

 自分を睨み付ける男を、蔵彦が真っすぐに見つめ返す。

 その間に、多勢に襲われた女はとうとう布を辻の首からほどいた。それを大鼠と霊獣に打ち付けて退ける。それぞれが自分から離れた隙に飛び上がって消えた。

 男は苦々しい顔を隠しもせず、霊獣に命令する。

「金剛! 撤退するぞ!」

「はっ! 御意に!」

 霊獣は一行を一睨みしてから男の下へ駆けていった。

「此度の件、貞信様に報告しておく。覚悟しておくのだな」

 男の鋭い眼光と捨て台詞を受けても、蔵彦の表情は変わらず穏やかである。

 男が金剛と共に去っていくのを見届けてから、ミキは大鼠に声をかけた。

「ねず、ありがとね」

「勘弁しろよ。菊近相手取っちまったじゃねぇか」

「助かったよ。ミキちゃんもありがとう」

「これがあたしの能力だもん。こういう時こそ使わないと」

 ミキは誇らしげに胸を張る。

「あの妖怪、また俺を」

 喉に空気が通り、落ち着いた辻がため息混じりに漏らした。

「知ってるんですか?」

「沙綾の家を出たら、晩に襲われて。その時もあの人と犬みたいなやつが助けてくれたんだ」

「菊近の事だから、助けたつもりはないだろうけどね」

「あの人たちは? それと、その人……じゃなくて妖怪がさっき、大家って」

 辻が横目で大鼠を見ると、彼も気だるそうに見返す。

「菊近という、能力者の家系の人です。菊近の人たちは、霊獣という妖怪を自分で生み出して従え、人に悪さをする妖怪を退治しています。『大家』は大まかに言うと、代々強い霊能力を受け継ぐ家系の内、特に強い力を持つ六つの家系のことです」

「六つあるから、『六大家』とも言われるの。蔵の家の『御船』に、さっきの人の『菊近』。それから、『椿丸』、『栗葉』、『青野』、『霜月』」

「あんた、そんなに強いのか」

「昔はいろいろ出来た、というだけです」

 蔵彦は照れ臭そうに微笑んだ。

「そもそも、あの妖怪は何だったわけ?」

「それも含めて明日、貞信さんに聞いてみよう」

「本当にあの家行くの? やだなぁ」

 ミキは大げさに肩を落とす。

「出来れば、辻さんも来てもらえませんか? あの妖怪に狙われてるようですし、無事に園田さんの下へ帰れるまでお守りするためにも」

「わかった」

「そういう事だから、大鼠も一緒に来てくれるかな? 今回の護衛をお願いしたいんだ」

 蔵彦のお願いに、大鼠はあからさまに嫌そうな顔をした。

「これ以上はごめんだ。俺は帰る」

「大鼠。『あたしたちの護衛をして』」

「……あぁ、もう! わかったよ! だったら、俺はあいつからお前らを守るから、お前らは菊近から俺を守れ。これが条件だ」

「わかった。君に手出ししないよう、貞信さんにお願いしてみるよ」

「絶対だからな」

 大鼠が蔵彦に詰め寄り、念を押す。

「ちゃんと守ってよー?」

「それはこっちの台詞だ」

「なぁ。この人は?」

 二人の言い合いの間に、辻が恐る恐る入ってきた。

「紹介が遅れてすみません。彼は大鼠と言って、新宿一帯の鼠たちを率いている、いわば『主』です」

「つまり、鼠の親分?」

「妖怪の方の、な」

「鼠だから昼間に地上で会うなんて珍しいんだけど、今日はどうしたの?」

「よその鼠に用があってな。遠いんで人間の足で行こうと思って出たら、これだ」

「引き留めちゃったんだね。ごめん」

「急ぎじゃねぇよ」

「じゃあ、明日の朝方、また地上に出てきて。菊近の家に向かう途中で拾うから」

「あぁ。……もういいか?」

 大鼠の声色に嫌々といった様子が現れている。

「うん。今日はありがとう。明日もよろしくね」

「逃げ道ふさいどいて、よく言う」

 嫌味を吐き捨てて、大鼠はその場を後にした。

「文句言う割りには断らないんだな」

「あたしにかかれば、こんなもんよ」

「何かしたのか?」

「あたしは妖怪を従える能力を持ってるの。自分が言った言葉を〝言霊〟にして妖怪を従える。そうして妖怪に仕事を手伝ってもらうっていうのが、あたしのやり方。〝言霊〟ってわかる?」

「あれだろ? 言った事が現実になるっていう」

「あたしのは、それのもっと強いバージョン。妖怪限定の呪文みたいな感じ」

「でも、さっきのやつ、従うっていうよりはわがままを渋々聞いてるって感じだったな」

「それは、たまにはそういう事もあるの!」

「ミキちゃんの場合、呪文をかけるっていうより、お願いするような感じだからね」

「蔵まで!」

「へー。そうなんだ」

「違うの! あたし強いの!」

「大丈夫、わかってるよ。強いからこそ、お願いでも聞いてもらえるんだから」

「そう、そうなの。わかってるんならいいけど」

 蔵彦になだめられ、ミキはすんと大人しくなる。それを辻に笑われて再び火が付き、洋館に帰るまでずっとふてくされていた。

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