第一幕第二場:道を踏み外した女

 あたしは今、強く甘い芳醇な香りに包まれている。


 それはバラの花びらにまみれた湯船に浸かっているからだ。とてもとても心地よく、疲れた体を癒し、嫌な気分も吹き飛ばしてくれる素敵な芳香。


 ダマスクローズ、やっぱり素晴らしい……。大好きだわ、コレは。


 今日はとても嫌なことがあったけど、こうして季節外れのバラを手にする事が出来たのは存外の喜びだった。

 (でもあの歌は楽しかったかも?)

 それもこれも、今日の礼拝での出来事が全てだ。


 思い起こせば……アレは何だったのだろう?


 バラの花束を受け取ったあたしは、その後で相手のペースにのせられて歌を歌い合い、その挙句に抱きしめられてキスまでされそうになったのだ。それも無抵抗で。


 あの時はあたしの右拳あばれうまが無意識に暴走しなければ、結婚するまで守るべき乙女の純潔を危うく奪われていたかもしれない。いや、運命シナリオ的に確定であったはず。


 最初はバラの香りと好みの容姿に頭がボーッとしてしまったのかと思っていたけど、そうではない気がするのよね……。


 ひょっとするとアレは、相手を虜にする魅了の魔法歌だったのかしら?


 とりあえずアレは間違いなく、『単なる恋のだった』のだと、自分を納得させる事にした。


 今回は幸いにも、あたしの貞操は守られ、難攻不落の要塞という二つ名をこれからも引き続き自称出来る事を誇りに思うのだった。しかもバラの花束という戦利品も得られたお陰で、今こうして素敵なひと時をすごす事ができているのだから。



 そしてミランダにも感謝だ。強引なナンパ師に迫られて、とてもとても嫌な思いをして、泣きながら(下心満載で)抱き着いたあたしを慰めてくれたのだ。主にお胸様で。


 まぁ、そのナンパ師にはキッチリと裁きの鉄槌として、(買い食い用の銀貨四枚を握りこんだ)右拳で不埒な男のアゴを殴りつけ、続けて左膝で股間を思いっきり蹴り上げ、そしてトドメに前のめりになった所をその後頭部に、振り上げた両手を重ねて叩きつけた。


 ここまですれば大の男と言えど、しばらくは動けないと思う。実際に追いかけられる事も無かった。


 どうせあの手のお金持ちは、治癒魔法で次の日には怪我が治っているでしょうしね。全治不能でなければ問題無しよ、無し! いえ、ここは世の中の乙女のためにも、男性機能だけは確実に潰すべきだったのかしら?


 ……などと物騒な事を考えていると、当初は熱めだった湯船も、良い感じでぬるま湯になってきた。あぁ、これは天国に行くかも、今なら行けそうな気がするわ~。


 そんなこんなで、あたしはいつの間にやらバラ風呂の中で、ウトウトしながら夢見る世界に旅立ったらしい。


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 あたしはオペラ『La Traviata』(道を踏み外した女)のヒロインのジルダを演じていた。


 ある日、教会で出会ったグアルティエールと名乗る貧乏学生と恋に落ち、そして騙されて手籠めにされ、愛する父からは信ずるに足らぬ男だと諭されながらも、愛する男の身代わりとなって死ぬという悲惨な結末だ。


 愛娘を失った父はその亡骸を抱き、泣き崩れている。

 その姿をあたしは空の上から見下ろしながら、『こんなの冗談じゃない!』と言う気持ちで一杯だった。


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 それから母と二人で、音楽大学を頑張った目指した日々を再び空から眺めていた。無事に音大に入るも、卒業間近にあたしは交通事故で死んだらしい。


 残された母は仏壇の前で一人泣いていた。

 あたしが書いていたイタリア語の日記を読みながら。


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 そして次の人生では、自分と父の身を守るため早急に街を出ようと画策するも、四角い顔の老人の罠にはまり、父娘そろって拉致された挙句、父は縛り首にあたしは井戸に突き落とされて死んだ。


 その次は、何者か手によるものか不明だけど、人さらいに襲われ危うかった所を仮面の騎士に助けられた。そして父と共に街を出て、故郷のあるアミアータ渓谷へ逃げるも、結局はあの四角い顔の老人に父もあたしも殺されたのだ。


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 最後に見たのは、若い頃のカッコいい父だった。背筋も真っすぐで、左足も引きずってはいなかった。


 そしてあたしと同じ金髪碧眼の小さな女の子。あたしの事を『ジルおねぇたま』と呼ぶ愛らしい娘だった。


 あたしたちは屋敷の庭で、迷子の弱々しく震える子猫を拾った。

 その白い毛は薄汚れていたが、両目の瞳の色が違うとても綺麗なオッドアイをしていた。


 二人でどうしようか悩んだ末に、近所に住むお爺さんの元に預けたのだ。それから毎日ミルクや干し肉、白パンなど食べ物という食べ物を屋敷から勝手に持ち出してはお爺さんに届けた。


 その甲斐があってか、子猫は元気になり、少しずつ成長していった。

 今では仲の良い、近所の白猫ミミちゃんだ。


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「あの娘は......、従妹のマリアンナだ」


 とあたしは失われつつあった記憶を、今ほんの少しだけ思い出すことができた。


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 ──ブハッ!!


 危ない、危ない。

 いつの間にか湯船の中で寝入ってしまい、危うくお風呂で溺れ死ぬところだったわ……。


 既にお湯はぬるま湯ではなくなっていた。このままでは風邪をひいてしまうと考え、急いで湯船を出ると、身体中の滴という滴をタオルで拭い去ってから、いつもの部屋着へと着替える。


 ふむ、今のお腹の空き具合から察するに……、もう夕食の時間かな? 

 ハイ、嘘です。階下から漂ってくるいい匂いで察しました。



 夕食の準備が整いつつあるという事は、婆やが屋敷に帰ってきたのかしら?


 実を言うと、あたしが戦利品を片手に帰宅した時は、当然の如く屋敷にはミランダしかおらず。婆やは礼拝の後、食材の買い出しをしてから屋敷に戻るので、その分だけ帰りが遅くなるのだ。


 だから彼女に協力してもらって、大鍋で湯を沸かしたからこそ、湯舟にお湯を張って待望のバラ風呂を堪能できたのだ。故に、あたしはミランダに惜しみない賞賛の拍手と秘蔵の砂糖菓子を賄賂として贈った。


 ・

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 夕食の準備が終わると、ミランダは二人分の出来上がった食事を手提げ籠にて入れて、いつものようにいそいそと帰っていた。


 自分も前世では母子家庭だったので、彼女の後ろ姿を見送りながら、母の気持ちというものをちょっぴり想像した。


 あ、ミランダに買い出しをお願いする事を忘れていたわ……。


 そこで彼女を走って追いかける事にした。あたしは屋敷の門をくぐり、右手に続く小道を少し進んだ所で彼女を遠目に見つけた。まだ夕暮れ時なので、なんとか判別が可能だから良かった。



 ん? 街路樹のあたりで立ち止まり、誰かと一緒にいるようだ。そのシルエットから背の高い男かしら? あたしより背の高い彼女よりも、更に頭一つ高いようだ。


 彼女に近づくための身を隠す遮蔽物らしきものが辺りに無かったので、あたしは少し離れたところから二人の様子を伺った。


 こ、これは決して男女の恋愛事情を探ろうとしたのではなく、あくまでも不穏あだるとな空気を察しての行動なのだから誤解しないで欲しいと思う。


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 おぉ、男がミランダをいきなり抱きしめた。

 あぁ、いいなぁ。正面からあのお胸様を抱くのはさぞかし……。

 うん? 

 彼女が振り解いたわね、そう言う間柄じゃないのかしら?


 その後、男は懐から何やら小物を取り出し、彼女に手渡していた。

 一瞬、夕暮れのかすかな残照によりキラリと光る。貴金属?


 それ受け取ると、シルエットでみる仕草で想像するに……。

 わーおー、彼女はどうやら『豊満な胸の谷間』に納めたみたいなんだけど?


 その後、もう一度男が彼女を抱きしめようとして、あたりに響くほどの良い音がするビンタを貰ったのだ。

 これを最後に以後は私の興味を引くやり取りはなさそうなので、今日はここまでかなとその場を去ることにした。



 うん、今回はミランダに買い出しを依頼することは止めておこう。

 とりあえず最小限の荷造りをし、例によって夜更けまでお父様を待って街を出る事について相談するとしましょうか。

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