第三幕:一人寂しく、捨てられた(前編)
今、私の手の中には騎士様が残していったハンカチと、おそらく落としていったであろう書状がある。
この書状の主が騎士様だと考えるのは、ハンカチに刺繍された紋章と書状の封蝋の印章が瓜二つだからだ。
その紋章は、盾の中に交差する双剣とその刃の上に百合の花が描かれている。
ちなみにハンカチの紋章の上には、座右の銘らしき言葉もあった。『義を見てせざるは勇無きなり』と。
そして書状の表を見ると『ヴェローナ公爵、モンテローネ伯爵』という宛名が書かれている。
「あの騎士様は、いずこかの家中の方かしら?」
あたしは玄関広間の暖炉前で、お父様の帰りを待っていた。
婆やは直ぐ近くの長椅子にて休んでもらっている。ちゃんと二枚の毛布を包まって。
念のため、私の手元には納屋にあった木槌とナタを置いてある。また押し込み誘拐犯に来られてはたまらないからだ。
もし次に同じ事があれば、女二人ではどうする事もできない。婆やは麻痺毒で朝まで動くこともままならないしね……。
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ザッ、……ズズッ。
ザッ、……ズズッ。
屋敷の外から足を引きずりながら歩く音が聞こえてくる。やっとお父様が帰ってきたのね。またこんな夜遅くまで、何をしていたのかしら?
あたしはちょっと驚かせてみようと、玄関扉の前に待機して、お父様が扉を開けるのを待ってみた。
お父様と思しき足音が不意に止まると、その次の瞬間には慌ただしい足音と共に騒がしく扉を開いて、お父様が鬼気迫る形相で中に飛び込んできたのだ。
そこでいきなり娘と鉢合わせしたとあれば、驚愕の表情を浮かべるのも致し方がないでしょうね。
でもそこは冷静なあたし。淡々とお父様を出迎えた。
「お帰りなさい、お父様。外は寒いから、早く入って」と婆やを起こさぬように、小声で告げた。
「あ、あぁ……」
茫然自失気味のお父様は、あたしの言葉に従って素直に中に入ると、突然お父様はあたしをギュッと抱きしめてきた。
「あぁ、ジルダや。わしの可愛いジルダ。……大丈夫だったかい?」
涙声と鼻水をすする音があたしの耳元で聞こえる。
あ、そっか。ちょっと考えたら、すぐに今のお父様の気落ちが理解できた。
つまり表の庭先に無数の血の跡が残っていたので、何事かと慌てて駆け込んできたという事か。これは失敬、ご心配をお掛けしました……。
(ごめんなさい、お父さん)
「大丈夫よ、お父様。ちょっと押し込み誘拐犯に、襲われただけだか……」
あたしが身もふたもない事実をそのまま伝えかけた為に、この後でちゃんと詳細を説明するまで、お父様の大騒ぎぶりに困らされた。
きっと婆やもこれで目を覚ましたでしょうね。今は麻痺しているから、ピクリとも動けないだけで。
(婆やも本当にごめんなさい)
あたしとお父様は今、赤々と燃え立つ暖炉の前で、仲良く二人並んで座っている。はたから見てもきっと仲睦まじい父娘よね。
「──という訳なのよ。それでね、その騎士様がコレを落としていったらしいの」
そう言うと、あたしが拾った書状をお父様に見せてみた。
すると、その宛名を読んだ瞬間。お父様の顔が一変したのだ。
今までに見たこともないほど顔は青ざめ、狼狽している有様だった。一体どうしたと言うのだろうか?
「どうしたの? 何かあったの?」
「……い、いや。大丈夫だ。……しかし、これは焼き捨てよう。司法長官の名前など……、これはあまりにも……不吉過ぎる!」
そう言って、勝手に書状を暖炉の火にくべようとするのをあたしは必死に押しとどめ、後で処分しておくと言って興奮気味のお父様を何とかなだめる事ができた。もちろん方便だけどね……。
それからあたしとお父様は、今後について話し合った。
朝になって、婆やが動けるようになったら直ぐに街を離れる事は合意できた。
問題は何処に向かうかについてだった。
あたしは当初の予定通りに、川を下り王都エトルリアに行くべきだと考えた。この案の良い点は、チェレステ川を船で下る事ができれば、楽にかつ早く王都へたどり着けるからだ。
足の悪いお父様と膝の悪い婆やが一緒だと尚更こちらしかないと思う。
でもお父様の考えは違った。逆に川の上流にある教皇都コルシニャーノを目指そうと強く主張した。
こちらはお父様の故郷があるアミアータ渓谷にある比較的大きな街だ。かつて知ったる土地なので、あまり詳しくはない王都よりは色々都合が良いとの事だ。
うーん、色々とねぇ……。
お父様の先ほどの狼狽振りに、正直あたしはドン引きしていたのだ。
おそらく書状の宛名にあった『ヴェローナ公爵、モンテローネ伯爵』のどちらか、もしくは両人に会いたくない理由があるのだろう。司法長官とか、お父様は何かやらかしたのかな?
それにしても、あたしは何かを忘れている気がする。でも頭の中には霧がかかっているかのように思い出せない。何か大切な事があったのだろうか……。
夜が明けるまで二人の議論は並行したが、最後には眠気に負けたあたしが折れる結果となった。
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朝になり、まだふらつきながらも婆やが動けるようになると、直ぐに屋敷を離れる事にした。
そのために三人分の荷物を二頭のロバに載せ、最後の一頭には遠慮する婆やを二人で無理やり乗せたのだ。
今は非常時である。婆やは足元がいまだに覚束ないし、一刻も早くこの地を離れたかったからだ。
本来であれば決して欠かしたくない朝食も摂らず(あたしとしては誠に不本意極まりなかった)、慣れ親しんだ屋敷をあたしたち三人は、慌ただしく後にしたのだ。
その後、公都マントヴァから急ぎ出発したあたしたちは、川沿いの旧街道を上流に向かって進んだ。
公都の上流側、つまり西に位置する場所にあるのは、とてもとても大きな渓谷だった。
その谷に沿って中央を西から東へと流れるチェレステ川。そしてチェレステ川とアミアータ街道が交差する渓谷はアミアータ渓谷と呼ばれ、王国一の豊かな土壌が食と心と歴史をこの地にもたらしている。
ここの名産は芳醇な香りの赤ワインと風味の強い羊乳チーズ、そしてほんのりと甘い生ハムだ。そのための牧羊と養豚、葡萄栽培が盛んらしい。
そして渓谷はその肥沃な
何よりも谷の縦断する丘陵地帯の北の端には、代々の教皇がその身を置く歴史的な都、教皇都コルシニャーノがあるのだ。
「ほんと綺麗ね……」
この旅は一種の逃避行であるはずだった。でもあたしには、こうして見るものどれもが美しく、そして何もかもが興味深かった。
何故ならあたしは箱入り娘として育てられた為に、屋敷からほとんど外出する事もなく、街からは一歩も出た記憶も無かったので、この生まれて初めての外の世界は、ほんのちょっぴりあった不安よりも、次々と目のあたりにする新しいものに、驚き、感動した。
あぁ、世界はなんと素晴らしく、美しいのだろうか。
その後、川沿いの旧街道と交差するアミアータ街道に入ると、今度は丘陵地帯縫うように続く街道をあたし達は北へと進む。
この街道では、沢山の行き交う巡礼者や商人の姿が見受けられる。
お父様の話では、渓谷を横断するアミアータ街道は教皇都まで至り、その主要な巡礼路として使われているためらしい。
「お父様、街道沿いに連なるあの木々は何ていうの?」
あたしが指さす先には、細長く高い木がぽつんぽつんと街道沿いに連なっている姿がある。
「あれは糸杉だね、ジルダや。あの木々がこのままずっと我々を教皇都まで案内してくれるのだよ」
「へぇ、このどこまでも続く田園風景と街道で巡礼者を導くように立っているのね。まるで道案内人みたい」
「そうだね、ジルダや。ここには美しい景色だけでなく、極上のワインと美味しい料理もあるらしいぞ」
こうして夕日が沈む頃に、もしこの絶景を見渡せる葡萄畑の中で皆と食事をできるのであれば、それはきっと素敵なひと時でしょうね……。
ボーッとそう考えながら、あたしは夕暮れ時の街道を歩む。
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カッポカッポ。ゴトゴトゴト……。
今朝からずっとあたし達三人は、馬車の中で揺られている。
この乗合馬車の揺れは思ったよりも酷い。
あたしは全く平気だけど、婆やは完全にぐったりして、今は私の膝を枕に横になっている。
あたし達の旅程、マントヴァからコルシニャーノまでは、徒歩で丸二日の距離があるので、昨日はアミアータ街道の途中にある宿場町で宿を取った。
そこでロバを全て売り払い、コルシニャーノ行きの乗合馬車に乗り込んで今に至る。
と言うのも、乗りづらいロバに膝の悪い婆やをずっと乗せっぱなしにする訳にも行かず、左足が悪く引きずって歩いているお父様にも、
そして何より
やがて教皇都コルシニャーノの姿が遠くに見えてきた。
小高い丘の上に立つ壁に囲まれたその街は、人口は数千人と公都の五分の一程度の小さな規模ではあるけれども、その緻密に計算された上で築きあげられたその石造りの街並みは、訪れる者が目を見張る美しい景観を誇っていた。
中でも特筆すべきは、尖塔群が屋根の上に並ぶゴシック風建築様式の聖堂群だ。その中でもひと際目立つのは大聖堂である。
他にも教会らしき特徴ある建造物が見えるけど、どれもこれもとにかく高く細くと言う意思をあたしは個人的に感じる。
ちなみに毎年冬夏なると、大聖堂のあるドゥオモ広場の石畳でに丸いチーズを転がして競うお祭りがあるらしい。
「ねぇ、お父様。見るからに変わった形の街なのね」
「そうだね、ジルダ。あの城壁は街をぐるっと取り囲むようになっていてね、更に街の中にも内壁と呼ばれる壁があるのだよ。教会の建物のほとんどはその内壁の中にあるのさ」
「そっかぁ。とても厳重で守りの固い所なのね。ところで、そこそこ大きな街みたいだけど、教皇都でも衛兵とかが居て、行政機関もあるの?」
「うむ。もちろん衛兵もいるし、教会の管轄下とは言え、立派な行政機関、裁判所などもあったな」
なるほど、なるほど。つまり街には司法官もいると。
あたしは懐に隠した書状を服の上からこっそりと確認し、これの処理について心に決めたのだ。
その後、無事に乗合馬車は教皇都に入ることができた。
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