第二幕第一場:親の願い(前編)
その日は夜遅くまで、引っ越しのための荷造りをしていたけれども、昼間の彼の事が気になって気になって、全く作業が
他にも今後の身の振り方についても、色々と考えを巡らせていたけど、どうにも考えがまとまらない。
というのも、世情に疎く、書物と前世の知識しかない自分には、情報源となるものは婆やとミランダからの世間話か、毎週の礼拝で仕入れるゴシップ世情くらいだからだ。
結局、彼は何者だろうか?
この街を支配する公爵ではないのか、それとも……縁者か、はたまた無関係のお貴族様なのか。
とにかく情報が欲しい。
でもこの街での時間は、余り残されていないから悩ましいのだ。
前世の記憶に基づくと、恐らくあたしは近日中に誘拐され、公爵閣下に手籠めにされるはずだ。
そうなると死の
またその一方で、彼に対する自分の気持ちの整理がつかなかった。
昨日の出来事については過去最悪であったと今も思うけど、今日の彼はほんの少しだけ……
特にあのアーモンド風味のクッキーが、素晴らしく美味しかった。
ほんのり甘苦いチョコクリームと、食べやすい一口サイズのクッキー。まさに貴婦人のキスだ。
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「ジルダや、ジルダ。起きなさい」
・
・
夢の世界で旅をする私を誰かが呼んでいる。
「起きなさい、わしの可愛いジルダや」
・
あぁ、お父様があたしを呼んでいるらしい。 ……それならしょうがないわね。
「ひらけー、ゴマっ」
本日はまだ開店前であるあたしの
まだショボショボする眼を開くと、目の前には大好きなお父様の顔があった。何だか少しやつれている気がする。お疲れなのかしら?
部屋はまだ暗いが、カーテンの隙間からはうっすらと朝陽の断片を感じられた。
夜が明けた頃かしら?
「お父様おはよぅ……、昨日はいつ……戻ってきたの?」
昨晩は夜遅くまで荷造りをしながら、あたしはお父様の帰りを自室で待っていた。
しかし待てども待てども、お父様は戻ってこない。そしていつの間にか、眠気に負けてベッドに潜り込んだしまったようだ。
「あぁ、今戻ったよ。方々に手を回すのに時間が掛かってしまってな。だがもう大丈夫だよ、ジルダ。今晩には一足先に街を離れよう。だが手配したのは二頭立ての小型馬車だから、荷物は最小限にしておきなさい。いいね?」
はやっ、お父様の段取り早すぎ!
昨日の今日で、もう出発ですか。流石ですね、お父様の手際の良さは。
しかし小型馬車となると、大型トランクが全部で三つ四つ位しか積めないかもしれない。これはちょっと、持ち出す荷物を厳選しなければ……。
「分かったわ、お父様。夜までには出立できるよう準備をしておくからね」
「うむ。あと必要最低限でよいから、わしの分も荷造りを頼むよ」
「うん、任せて」
お父様はうなずくと、あたしの頭を優しく撫でてから、部屋を出て行った。
そしてあたしの方は急いで荷造りを始める事もなく、そのまま二度寝をしたのだ。
いつものように婆やが起してくれるまで。
・
・
昼前に遅い朝食を一人寂しく済ませたあたしは、自分の荷造りに頭を悩ませていた。
必要な荷物の選別が、全く進まないのである。
衣類だけでも必要最低限をまとめるとトランク一つ分だ。そこにお気に入りのドレスや寝間着などで、もう一つのトランクが埋まる。
後は趣味の書物がまた悩ましい。
今となっては入手困難な古代文明の文献と東方世界の歴史書、それに好きな詩集と楽譜や各種図鑑などと取捨選択に困るものばかりだ。
しかもこの手の書物をトランク一杯に積めようものなら、それは殺人的な重量となってしまうので、これも二つのトランクに分ける事にする。
他にも旅に必要そうな道具や価値のある品物も詰め込んでいくと、あっという間に七つ目のトランクの中までが全て埋まってしまった。
こうしてあたしが一度は苦慮してまとめたトランクの山でも、せめて二つまでにしなさいとこれを見た婆やは呆れていた。
だから今もこうして、欲望の塊という私物の山と真摯に向き合い、格闘しているのである。
ちなみにお父様の分の荷造りについては、止むを得ずミランダに丸っと投げておいた。
あたしもお父様にお願いされた以上、娘である私が用意するのは筋と思う。
でも効率を考えると、心苦しくてもこれが最善なのだから許してほしいところなのよ?
そして苦心の結果、とりあえずトランク四つまで荷物の量を絞り込んだ所で、遅めの昼食兼少し早めのティータイムに入る事にした。
・
・
「うん、やはりミランダの入れるお茶は美味しいわね!」
「お褒めの言葉、嬉しいですわ。ジルダ様」
いつも思うけど、先ず何よりもミランダは茶葉の選択からして素晴らしい。
(うん、本当に素晴らしいお茶だわ)
数々の良質の茶葉を選別し、さらにそれらの茶葉をブレンドした上で、花やハーブに柑橘類の皮もしくは特製の香油を加えているらしい。
そのお陰か、芳醇な香りが楽しめるお茶となっている。 本当に素晴らしい、世が世ならきっと一家に一人はミランダを雇うわね。
「それにしても……よくよく見ると、印象が変わるわよね」と、彼女に視線が釘付けの私が言う。
「あら?分かります? 昨日、素敵な髪飾りを頂いたので、今日はいつもよりも少し高めの位置で髪をまとめてみましたわ」
ミランダさんや、こちらこそあなたが何を言っているのか分からないわ。
今の私が注目しているのは、今あなたの身に着けているエプロンなのよ。
いつものは、あなたのその豊かな胸を覆い隠すような、首からひざ下まである色気の無いロングエプロンだったはず。
でも今目の前にあるのは、胸下から吊り上げるタイプのエプロンだ。
それによって、とても女性らしいあなた特有の色気が強調されていますのよ?
そう、これはもう、エプロンという名の布製のブランコに乗った、お胸様ではないのかしら?
そんな彼女が動くたびに、ものすごく……揺れてます。 ゆっさゆっさと。
貧しい我が身としては、持てる者の財産を目の前にすると、思わずご利益がありますようにと祈ってしまうわ。いや、祈るべきだわ。
きっと殿方もそうなのだろう、と考えながらあたしはそれをガン見していた……。
「ところで、その髪飾りって。ひょっとしてお高いの?」
彼女の艶めかしいウェーブがかった黒髪をまとめる髪飾りは、美しい純金の輝きを放っていた。
その装飾の細かさからも、相当高価な代物のように見える。故に気になって、思わず聞いてみたのだ。
「頂き物なのでよく分からないですけど、それなりのモノと聞きましたわ」
「ねぇ、誰に貰ったの?
「そんなんじゃありませんよ。
「えー、そう言われると、ものすご~く気になるんだけど? どんな人なの?」
「う~~~ん、それはまた今度で」と、笑顔ではぐらかされた。
くぅ~、この黒髪爆乳美人め。
いつもそうやって、世の中の殿方を魅了しているのかな?
鋭い目つきに、左目元にある色っぽいホクロ。そこに加えてグラマラスな肢体と艶のある小麦色の肌。
これで殿方にモテないはずがないわよね。
この生まれ持った、女としての歴然たる階級差に、心の中で全あたしが泣いていた。
後で彼女のお胸様を借りて泣こう……。
などとノンビリと休んでいる所に、用事を済ませた婆やがやってきた。
「お嬢様のそのご様子だと、荷造りは終わりましたかねぇ」
「そうね、あと少しかしら。きっと夜までには終わる…と期待してて!」
「もう、お嬢様ったら。後で私が見てあげますからねぇ」
ま、マズイ。この流れは婆やに、これはもう必要ないでしょうと強制的に、
急がなくちゃ!!
「ところでね。今朝のお父様は何か変わた様子はなかった?」と話をすり替える。
朝方は寝ぼけていたので、ハッキリとは覚えていないけど、確かお父様は珍しくスッピンだった気がする。朝方に帰宅して、直ぐに化粧を落としたのかしら?
「旦那様はいつもと変わりありませんよ。 ただ……朝食を終えると、慌ただしく屋敷を出ていきましたねぇ。お化粧もせず」
「私は屋敷の前でリゴレット様にお会いしましたが、珍しく平服でしたよ」
それは変な話だ。
お父様は公爵閣下に仕える道化師だから、その役割を果たすために、いつも身なりに関しては徹底している。
それとも今日は、お仕事がお休みなのかしら?
でも今までそんな事は、一度たりとも────無かったはず。
あたしが幼い頃、病気に臥せった時もだ。
早く帰ってきてくれたけど、毎日必ずお城には出仕していた。
そこにあたしは、なにやらしっくりこない違和感を感じていたのだ……。
だけどその違和感について、切り分けるための判断材料を持たない身としては、これ以上考えても致し方無しとすぐに諦めた。
「さてと……、部屋で荷造りの続きに挑戦してみるわ」
二人にそう告げると、あたしは気乗りがしない足取りで自室に戻った。
・
・
その後、オレンジ色の西陽が私の部屋を照らしはじめる頃には、なんとか荷造りは終わった……。
並々ならぬ努力の末、遂にトランク二つに収めたのだ。パチパチパチ!
書物に関しては、お気に入りの詩集と楽譜と植物図鑑以外は、泣く泣く諦めた。
あとドレスもお父様が夜会用にプレゼントしてくれたものだけは残した。
ドレスについてはご想像通り未使用の新品である。
それからミランダに手伝って貰い、二つの大きくて重いトランクを、何とか一階の玄関広間まで運んだ。
私が降りてきた時、婆やは既に夕食の準備を全て終え、さらに夜食も三人分用意していた。流石は婆や!
そしてささやかな最後の晩餐を、三人で一緒に過ごしたのだ。
いつもは夕食は一人息子と一緒に家で食べるミランダだが、今日ばかりは最後なので初めて夕食を共にしてくれた。
そして寂しい思いをさせたであろう彼女のお子さんへのお土産にと、このジルダ様が秘蔵の砂糖菓子を全て渡しておいた。
どうせトランクには入りきらない荷物だしね。
それに欲張って無理に今食べても、きっと
・
・
最後の晩餐の後、しばらくすると四頭立ての大型馬車が、我が屋敷を訪ねてきた。
今朝の話と少し違うけど、御者の老人の話では、お父様が今朝手配したものらしい。
お父様は後から馬で追いかけるので、足の遅い馬車は一足先に街を出るとの事だ。
若干の違和感を感じながらも、荷物を積み込んで貰う事にした。
まず最初にお父様のトランクが一つと貴重品が詰まったトランク一つを載せてもらった。
その後に、あたしの苦労の結晶たる厳選された品物が詰まったトランク二つが載せる。
ちなみに婆やの荷物は、トランクの大きさ半分もない手持ちの旅行カバン一つで全てだった。そしてそれは婆やが持ったままで馬車に乗り込む。
そしてついに、出発である……。
色々あったけど、ミランダとも今日でお別れだ。
彼女は屋敷に残って後始末をし、その終わりをもって解雇となる。
何故ならば彼女には幼子がいるから、あたしたちと共に遥々旅をして王都まで引っ越しする、と言う訳にはいかないのだ。
二年足らずの付き合いだが、彼女には随分とお世話になった。最後まで。
初めて出会った時は、まるでヘビに睨まれたカエルのように、その鋭い目線に慄いて固まってしまったが、今はもう彼女に魅力にメロメロだ。
だから最後の別れの抱擁の際に、たっぷりお胸様を堪能させて貰った。
彼女の話では、殿方は大きな胸に抱かれるのが好きらしいが、最後に味わったあたしも大好きになりました。
言葉に表せないくらい、とてもとても名残惜しかったけれども、御者の老人がその特徴あるダミ声でしつこく急かすので、しぶしぶ彼女の胸から出立つすることにしたのだ。
さようなら、素晴らしきお胸様。 自分もせめてあなたの半分、いや三分の一くらいのボリュームが欲しかったです……。
悲しきその別れをよそに、馬車は慌ただしく慣れ親しんだ我が家を後にしたのだ。
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