第11話
伊波はほとんど走って病室へ向かった。嵐が去り、朝日は壁に発光するようなオレンジ色を投げかけている。光で四角く切り取られたスペースの中では、粉塵がキラキラと舞う。清浄な空気の中で、機器や人の足音さえ澄んで聞こえた。
病室では看護師の宮間が緊張した面持ちで荻原の側に立っていた。
「声をかけても反応が無いんす」
伊波は胸にせり上がる黒い不安を抑えながらベッドにかがみ込み、芳田の手を取って声をかけた。
「芳田さん、芳田さん?」
しかし、手はぐんにゃりと抵抗がなく、重い。芳田の半分開いた眼は、こちらを見ることもせず、まっすぐ前だけを見つめている。伊波は芳田の目をのぞき込む。瞳孔が点のように小さい。心拍モニターの大きな音。胸の中に恐怖がぞぞっと湧き上がってくる。
伊波はすぐにCTを頼んだ。あがってきたCTをもぎ取るように見て、身体の芯が硬直する。だがどこかで、やっぱり、と思った。芳田の脳の中心部に、大きな白い塊があった。脳幹出血だ。
宮間が聞く。
「芳田さん、再手術ですか」
「いや……」
言いながら、伊波の身体はどんどん重くなった。脳幹は生命維持を司る場所だ。ここまでの大きさの脳幹出血になると、手術適応は無い。伊波は芳田雪音を見つめ、病室を出た。
廊下で携帯電話を取り出すと、遠くで子供の笑い声が聞こえた気がした。携帯が耳に触れる。そういえば、芳田雪音が診察に来た時、毎回大きな荷物を持っていた。重そうですね、と伊波が声をかけると、子供の物がどうしても多くなっちゃうんですよね、と笑っていた。なんで今、そんなことを思い出すのだろうと思いながら、コールの音を聞く。相手が電話に出る。
「吾妻先生。芳田雪音さん、中心部橋出血です。意識不明、四肢麻痺です」
涙がこみ上げる。絞り出した声は掠れた。
*
ベッドの側で慌ただしく動いていた伊波達は手を止めた。ピーと言うモニタの音だけがやたらに大きく響き、町田がすぐにそれを消す。吾妻は袖を捲り、腕時計を見てから、芳田剛士の方を向いて言う。
「20時34分。芳田雪音さん、ご永眠なさいました」
芳田雪音の夫、芳田剛士は白いポロシャツを着た大きな背中を丸め、ベッドの上に横たわる芳田雪音をじっと見ていた。腕には子供の啓文を抱えながら、芳田雪音の手をずっと握っている。
芳田雪音はまるで寝ているように見えた。看護師が呼吸器を外すと、啓文は膝から降り、母の顔の近くへ寄った。
「おかあさん?」
チューブが外れるのを見て、治ったのだと勘違いしたらしかった。啓文は掛け布団をめくり、母親の手を握った。ねえ、と父親の方を振り向く。
「もううちに帰れる?」
宮間がさっと横を向いて眼鏡を上げ、目の端をぬぐっている。啓文はずずっと鼻水をすすった。伊波は胸が潰れるような思いがした。
「お母さんは……」
剛士は言いかけて、言葉を失う。しかし、説明をしてやらないのはもっと可哀想だと思ったのか、顔を上げ、啓文をぎゅっと大きな腕で抱きしめ、言った。
「もう、起きないんだよ」
「なんで?僕のせい?」
啓文は泣いてはいなかった。しかし、なにか恐ろしいことが今起こっているという事ははっきりとわかっていた。剛司はまっすぐに啓文を見つめた。
「おまえのせいじゃない。だれのせいでもない」
芳田剛士の瞳が伊波をとらえた。大きな真っ黒な瞳。涙がずっと流れ続け、拭い続けたせいで、赤くなった皮膚。子供は青白い顔で、動かなくなった母親をずっと見つめているもはや無用になった大型の生命維持装置が、惰性のようにウィーンと鈍い音を立てている。伊波はいつの間にか手を握りしめていた。時間が凝固したように感じた。
「力が及ばず、申し訳ありませんでした」
吾妻の言葉で、伊波は我に返った。吾妻と伊波も一緒に頭を下げる。芳田剛士はずっと黙っていた。病室の外から、ナースコールが押されたときのポーン、と言う音が遠くに聞こえた。その間、伊波達は頭を下げ続けた。
「雪音は、吾妻先生のこと言ってました。いい先生だって」
芳田剛士は動かずに言った。夏のからりとした光がカーテンごしに透けている。芳田剛士は振り向く。丸いパイプ椅子がギッと鳴る。
「顔、上げてください」
芳田剛士の目を見たとき、伊波の心臓はどきんと大きく震えた。芳田剛士は涙を流していた。その目は悲しみに満ちていたが、いつも患者の遺族から貰う、突き刺すような視線では無かった。胸がじわりと温かくなり、自分を縛っていたものが、ほどけるような感覚。涙が意思と関係なく目からこぼれた。
「先生のこと、信頼していました。だから……」
それ以上は言葉にならなかった。芳田剛士は目を押さえた。嗚咽が病室に響いた。
伊波が吾妻について廊下に出ると、そこはいつもの見慣れた職場だった。ナースセンターでは看護師がパソコンに向かって何かを打ち込んでいる。その前を、病院の水色の病衣を着た患者さんがスリッパをペタペタと鳴らしながら歩いている。伊波は今身を置いている環境と、自分の気持ちのずれについて行けずにいた。
芳田雪音の手術中の処置が、頭の中で断片的に、ずっと再生されていた。
開頭、頸動脈の解放、バイパス、そして途中で起こった狭心症。そのときの手技や判断になにか間違いがあった様な気がして、頭の中で、いつまでもくり返してしまう。
脳を持ち上げたあのとき、圧迫が強かった?いや、いつもと変わらないはずだ。でもそれ自体が間違っていたのだろうか。
どこかで血管に負担がかかるような操作を行ってしまい、脆くしてしまった?それとも、血栓をなくす薬の量や、血圧を抑える薬の量を間違えた?
繰り返す思考の合間合間に、術後の風景が思い出される。術後、がんばりましたね、と声をかけると、芳田雪音はぼんやりとした目を向けて、わずかに頷いた。芳田雪音の部屋に近づくたび、いつも芳田剛士のいたわるような深い声と、啓文の少し甘えた声が聞こえた。二人はいつも側にいた。芳田雪音のベッドの周りは、いつも淡い光に照らされているように温かかった。
自責の念と、そこから逃れたい思いが交互に押し寄せる。音が遠くなる。冷静になれと言い聞かせれば言い聞かせるほど、胸が赤黒く淀んだ熱さで一杯になり、呼吸はあえぐようになった。
医局への扉を開けたとき、目の前を歩いていた吾妻がガクッと床に沈み込み、伊波は驚いて声をかけた。
「だいじょうぶですか」
「あ、うん。ただ足がもつれただけ」
そういう吾妻の顔は青白く、唇には色が無かった。しかし、伊波の視線に気がつくと、すぐに立ちあがり、ポケットから何かを取り出した。
「伊波、これ」
「なんですか?」
「充血がおさまるから」
そう言って吾妻は目薬を伊波に手渡す。わずかに触れた手はひやりと冷たい。伊波は慌てて目の端を拭った。
「医者が泣いてると、患者が不安になるって」
「そうですよね」
「青島が言ってたんだけどね」
下げたブラインドからも強い日光が漏れ出ている。吾妻は目を伏せ、医局のくすんだ浅黄色の床を見ていた。医局には二人のほかは誰もおらず、エアコンが熱に耐えきれないのか、きしきしと鳴る音がわずかに聞こえる。
伊波は思いきって聞いた。
「吾妻先生」
「ん?」
「芳田さんの事」
僕になにかミスがありましたかと、そう言いかけて、伊波はさきを続けるのを止めた。この手術の指導医は吾妻だ。この手術に対しミスがあったのかもしれないと言うことは、吾妻が犯人だと言うことに等しい。
吾妻はだまって此方を見ていた。その表情に色は無い。
吾妻はぽつりと言った。
「大丈夫。伊波は悪くない。わるいのはぼくだ」
「いや、そうじゃないですよ」
吾妻は小さく首を左右に振った。
「だって僕、青島の顔が浮かんだもん」
「え?」
吾妻のまつげが小刻みに震えている。吾妻は泣くような、笑うような顔をしながら言った。
「彼女が狭心症になって、手術をどうするかってなったとき、僕は青島のことを考えた。このまま手術を中止して、青島に迷惑をかける可能性を考えた」
吾妻の声はひび割れるように掠れていた。まるで10代の若者の顔だった。孤独で、頼りなく、切ない。
「でも、あの時はあれでいいって、僕も――――」
伊波がそう言いかけたとき、吾妻の携帯が鳴った。吾妻は電話を切ると、吾妻は長いため息をついた。表情はもう元に戻っていた。
「治療方針やオペレコ見直して、何が悪かったのかもっとよく考えてみるよ。なにかわかったことがあったらシェアするから。じゃ」
吾妻は踵を返すと、ポニーテールにした長い髪が白衣と一緒にひらりと揺れる。がちゃりと医局のドアが閉まり、伊波はその場に取り残された。
伊波は医局の革張りのソファに倒れ込む。革の独特のにおいと、手に触れたときのぬめっとした感覚。伊波は窓に目をやる。薄いカーテンからあふれる光に、伊波は眼を瞬き、喉のあたりで手を合わせた。どうせすぐ呼ばれる。ほんの少しの間でいいから、今ある悲しみを感じたかった。それが今自分に出来る、最小かつ最大限の追悼のような気がした。
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