うやむや

紫暮(しぐれ)

1ST まっさらにはるばる来訪

朝から冷え込む金曜日だ。ウイルスが舞う外になんか出るものか。


ぼくはその日、パジャマがわりのパーカーのままで一日過ごすつもりだった。ごちゃついたデスクのうえのMacを起動し、ネットサーフィン。YouTubeで流行りの音色に身を浸す。旅先で買った紅茶を淹れる。今日はいちにち外出してなるものか。


いまや大学もオンラインで授業が受けられる。

ステイホーム。あ、緊急事態宣言、もう出たんだっけ?


ここは静岡県島田市。静岡県中部に位置し、大井川の両端に位置するまち。冬場にも氷点下にはならない温かいところ。年間を通せば降水量のおおい土地だけど、冬には雨も雪も少ない。北海道では今年はじめての豪雪が降ったらしい。北海道なんて、さむがりのぼくには耐えられない。


そんなさむがりのぼくには、窓から伝わる冷気すらしんどい。築年数がふるい代わりに家賃がやすい学生向けアパートだ。それでもぼくはレトロなたたずまいが気に入っている。ただ引っ越してきた当時はけっこう苦労した。


ぼく、なぜか、ちょっとした有名人だったので。


すべては「アイツ」のせい。

夜野光という女のせいだ。

光は去年一冊の物語を書いた。ほんのすこし事実だけど、ほとんど嘘っぱち。小説とも、ルポルタージュとも、言えない物語。その本のなかでぼくは主人公だった。


ぼくなんか、主人公じゃないのに。「凡人」なのに。


いっしょに砂浜をあるいた想い出。

モーニングコーヒーを飲んだ想い出。


そんなささいな出来事が美化され、美化され、美化されて、物語になった。

しかもそれがその後、音楽になって、世にリリースされた。


光が有名になってしまったせいで、ぼくは意に沿わず少しばかり有名人になってしまった。

そのせいで、このアパートに引っ越してきてからも、いたずら、ひやかし、野次馬のたぐいに悩まされたのだ。


とはいえ、世間も飽きるのは早い。最近ではひやかしもないし。

だからまあ、油断したといえばそう。油断してたんです。

ひところなら居留守だって使ったはずだ。

なのに、インターフォンが鳴ったのを、つい、つい、開けてしまった。

宅配便か何かかな?


「お休みのところごめんなさい。はじめまして、わたし、望月落葉って言います」


玄関のドアを開けると、そこに立っていたのは、かわいらしい女性だった。

ライトブラウンのコートに、アッシュグレーのマフラーを着けたロングヘアの女性。


「ええと、はい、こんにちは」

「こんにちは。唐突にすみません。

 わたし、どうしてもあなたに相談したいことがあってきました」

「ええと……、はじめましての方ですよね?」

「わたし、あなたの大学にいる、望月という生徒の妹です」


ようやくそこでぼくは合点がいった。

望月飛花はぼくの大学のクラスメイトだ。同じゼミに所属していて、音楽の趣味があうのがきっかけで仲良くなった。

だいたいいつも好きな音楽やアーティストのことをうだうだくちゃくちゃ話し合う友人であり、「相棒」みたいな存在でもある。


「ああ、望月飛花の妹さんですか」

「はい。姉の飛花がいつもお世話になってます」


……なるほど。思いの外、ていねいな子だった。ぼくもお辞儀をかえした。

しかし、飛花のやつ、こんな可愛い妹さんがいるなんて聞いてないぞ。


「望月飛花のことでご相談なんですね。僕なんかで相談に乗れるようなことがあったでしょうか」

「いや、姉とは関係ないことなんです。相談というよりお願いと言ったほうがよいかもしれません」

「はあ」

「わたし、あなたに探してほしいものがあるんです」

「探して欲しいもの」


よくない予感がする。

その瞬間、少し前からどこかかすかに感じていた、静かな予感が実を結んだ。

ぼくの心臓が急に鼓動をはやめた。


「"うやむや"を探してほしいんです」


予感はあたった。

「依頼人」が告げたその名前は、ぼくをひどく動揺させる名前だった。

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