第四幕
朝靄の中、軍馬は林道を駆けていく。
侯爵との密談の後、アリクを従え宿屋に取って返した。
そのまま仮眠を取り、真夜中に馬を出したのだ。門を越えるのは侯爵の計らいで問題なく済んだ。
予定より早く進めている、これなら修道院の往復でも昼前にはラティオに戻れるかもしれない。日のある内には戻りたいと考えていた。
「うぅ、寒い。風が刃の如くだな」
従士の呟きが小さく聞こえる。背中に軟い身体が押し付けられるのを感じた。
「残っていても良かったのだぜ」
「そうしたいのは山々だったが、それで主様が寂しそうにするのは心が痛む」
どんな時でも論戦に負ける気はないらしい。従士はそう応え、外衣の乱れを抑えた。
木々の隙間から、歴史のありそうな建物が見えてきたのは陽光が靄と混じりだした頃だった。
ガリオンヌ修道院。メルギル侯爵の寄進を受け築かれたエシュトル領最大の神聖建造物。
中では修道院長を筆頭に神への信仰生活を送る数百にのぼる修道士、修道女、学徒達が慎ましやかに生活しているらしい。
彼等はこの建物の中で自給自足し、農業を行い、文化を支え、信仰を深めるのだ。様々な新技術がそこでは生まれ広められているという。
一流の学徒機関、騎士養成機関を内包し、貴族の子や位の高い商人の子、騎士の卵等が集まってきて優秀な教育を受ける学び舎、時には政治、経済の要になる。
この修道院が街と若干の距離があるのはその影響力が街には強すぎるとの判断ではないかと勝手な推理をした。
……いつのまにか修道院の敷地に入ったようだ。
馬足を遅め、すれちがう早朝の農作業に向かう修道士達に会釈する。挨拶がてら修道院に用向きがある事を伝えると、院長室のある建物を教えてくれた。一番大きな礼拝堂のすぐ傍らしい。
建物の周囲を行きかう多くの人々は、此方を同朋の聖騎士と間違えたのだろうか、親しみこもった挨拶をしてくる。
礼拝堂からだろう、子供達の賛美歌が耳に心地よかった。
聞いておいた客用の厩へとアリクに手綱を任せてから裏口へと向かった。
裏口は建物の陰にあった。小さな木製の扉を叩くと、修道士と思しき男が扉を開く。
「メルギル侯爵の使いです。ロアード司祭に取り次いで貰いたい」
「……解りました、どうぞこちらへ」
鍵を開けている音が扉向こうから聞こえてくる。アリクが背に控えるのを感じた。
そして、錆び付いた蝶番を軋ませ扉が開く。
一礼してから踵を返し、先を歩きだす燭台持つ修道士の後を追う。どうやら話は早くに済みそうだ。
暗く狭い廊下は、遠くに響く賛美歌以外は三人の足音しか聞こえない。厳かで、どこか物々しい雰囲気は声を出すのも躊躇われる。
アリクも実にしおらしい。
やはり仇敵の懐と言うのは居辛いものか。振り向くと、あくび顔と目が合った。妖艶の美女は珍しく恥ずかしそうにして俯いた。
笑いを堪えていると鎧下の隙間から尻を抓られ、悲鳴をあげそうになった。尻を擦りつつ修道士の不審そうな顔を涙交じりの愛想笑いでなんとか凌ぐ。
階段を数階分登ってから廊下を歩き始める。頑丈そうな両扉の前で修道士は足を止めた。
「こちらです」
修道士に一礼してから扉を開けた。
窓が無く暗い部屋の中、椅子に座る人影が顔を上げる。
「やぁ、また会えたね」
……ルースの知っている聖騎士が其処にいた。
背後で扉の閉まる音が、響いた。
薄暗い本棚が並ぶ部屋。此処は蔵書室なのだろう。聖騎士レオニールの座る所が司書の机だろうか。その机の上にある蝋燭だけが部屋の光源になっている。
夥しい数の本がそこにはあった。だが整然としてはおらず、読み散らかしたままの酷い有り様となっていた。レオニールの座る机にも本は散乱し、山積みになっている。
「ロアード司祭はどこだ」
まさか修道士に嵌められるとは思わなかった。
悪態の一つも吐きたいのを堪え、尋ねる。
「それは私だよ、レオニール・ロアード・サンクス。洗礼名だから滅多に使わない。なんだ、君は私を訪ねてきたのではないのかい?」
苦笑するレオニール。呆ける顔を慌てて戻した。
……なんだか侯爵に騙された気分だ、なんで名前か名字を使わないんだ。洗礼名や貴族名を使われては勘違いしてしまうじゃないか。それとも、それが狙いだったのか?
いけない、気を取り直そう。寧ろ好都合だ、目の前の男には聞きたい事が幾つもある。
「……貴方とは話したいと思っていた」
「奇遇だね、私も貴公と話がしたかった。いい加減本の虫には飽きていてね」
レオニールの傍、机の周囲には騎士らしき人物が四人。いや、五人。恐らく後ろの壁、飾り布の後ろにもう一人いる。
「ふ、本当に用心深いな、君は。もう少し扱い易ければよかったのだが」
レオニールの顔に穏やかさが無くなっている。鋭い刃の切先ような、そんな冷淡な笑みだった。
「話をする、というのは僕の質問に答えてくれるという事ですか」
「君が答えてくれるならね。お互いの情報を交換といこうじゃないか」
何時でも手を下せるというつもりか。
唇を舌で湿らせる。
「まずは私からでいいかな? 君と再会出来たら言おうと決めていたことがあってね。騎士ルーシャス・スリード、貴公を雇いたい」
言葉を一瞬失った。まさか敵視されていると思った相手に勧誘されるとは。
「雇うだと……?」
「……我々に協力してくれないか?」
己の側につけと言うのか。驚きを隠せず目を合わせる――その顔に笑みは浮かんでいなかった。
「貴方は、異端審問官なのですか」
答える代わりに問いを浴びせた。
「教皇庁直属第六秘匿機関聖騎士隊隊長、それが肩書だよ。審問官、司祭と同じ権利を持っているから、まぁ異端審問官と言うのも間違ってはいない」
あっさり答えて腕を組む。その芝居がかった仕草、やはり魅力のある男だとは思う。
「ローザをどうするつもりですか」
「魔女は神の名の元、裁かれねばならん」
魔女、レオニールはそう言った。
魔女、嫌悪すべき人の定義。
「あの子は只の女の子だ!」
語気を荒げる。
そんなルースを冷ややかに見つめレオニールは応えた。
「それを判断する為に私は派遣されたのだ。魔女であるかどうか、私が、判断する為に」
手斧に手をかけそうになるのを抑え冷静さを保つ。なんとか声を絞り出した。
「あの子は、ただ静かに暮したいと願っているだけだ、貴方の神とやらはそれをすら許さないのか?」
「隣人が悪魔の手先と知って平気で暮らせる人間がいるのか? 我等は人を護るために働いているのだよ。スリード卿」
薄暗い、揺れる蝋燭の明かりの下、二人の騎士は睨み合う。
「あの子の村は……」
だめだ! 続く言葉を飲み込んだ。
危うくローザの魔を証明しそうになった。いけない、レオニールに乗せられてしまっていた。
「……あの子を魔女だなどという虚言を信じたりはしない」
何とか言葉を濁すが、聖騎士は此方を憐れむような笑みで見つめている。その眼がすべてを見透かしているぞと囁きかけてくる。
「魔女は優しい者ばかりさ。悪魔は常に笑顔で現れるものだ。そして、人の心に忍び込む」
駄目だ、この問答を続けることには意味が無い。彼は異端を「探し」に来たのではないのだ。
「何故そうまで言い切れるんだ。そうまでしてあんな少女一人を殺したいのか? それが人のとる道といえるのか!」
「悪魔を野放しにする方が余程恥ずべき事だ。そのくらいにしたまえスリード卿。これ以上は不敬罪として扱うぞ」
もうどうしようもできない気がした。相手は神だ。法を超える化物だ。そんな相手をどうしてやりこめられるのか。ルースが唇を噛んだその時だった。
ぱち、ぱちと、拍手の音。
「いやいやいや……御高説賜りました。しかし我が主はまだ若い。斯様に現実を見せつけられては余りに酷というもの、どうぞこの辺りで矛を収めていただきたい」
背中から声、アリクだった。彼女が此方の喋る間に口を出すのは珍しい。
「矛を収めるも何も、最初から勝負などしていませんでしたよ」
此方を見る憐れみを伴った歪んだ笑みに、怒りで我を失いそうになる。
アリクの声は涼やかなまま、歌うように続く。
「しかし……相手を選んで勝ちを誇るような品性はいりませぬな。打ち伏し易い相手を選ぶのは、臆病者の取る常套でしかございません故」
どこかで聞いた言葉だった。一瞬後、レオニールの顔が険しくなる。
「貴様、私を愚弄するか」
「はて? 何かお気に召しませんでしたかな」
妖しい美貌が歪んだ笑みを作る。
聖騎士はやり籠められた怒りをしかし驚異的な忍耐で抑え問うてきた。
「……スリード卿、そろそろ返答を貰おうか」
「断じて、否! 僕はエシュトルの聖女を、いや、ローザを護ると誓いを立てた。貴方の剣が如何に鋭かろうとあの子にはけしてふれられぬ事と、そう思え!」
怒声が蝋燭の炎を揺らす。
部屋に浮かぶ人影達が、それに合わせてぐらりと揺れた。
「誓いを立てた、か……ではこの話は反故にするしかない。残念だ、君とは……いや、もう言うまい。それでは、君の用件を教えてもらおうか」
いからせる肩にアリクの手がのる。
冷静さを取り戻し、侯爵からの手紙を差し出した。
「……これは、メルギル侯爵からの書簡だ。僕は使者として此処に来たんだ」
「ふむ、それはありがとう。ちょっと失礼していいかね」
返答を待たず書簡の封印を切り中を見始める。
書に一度目を通すと小さく首を振り再び読み直す。二度目は大きな嘆息をして、また読み直す。何度も読むに従って、目に怒りの炎が宿っていった。それはアリクにしてやられた時の比ではない。
何度も、何度も読み返している。それは其処にある内容を信じられないのか、認めないのか。遂に聖騎士は書を握り潰した。
「……愚かな事だ。何故こうまで、誰も彼も聖人なる虚言に踊らされる!」
激昂。
聖職者然とした風貌を捨てたその様は、今までのレオニールとは全く違う姿だった。激しく叩きつけられた机が揺れて、山積みの本が崩れ落ちる。
「貴方こそ、何故聖人を信じようとしないのだ。真実かもしれないじゃないか」
「神は唯一絶対だ、他の如何なるものであれその座に列するを許してなるか!」
レオニールが立ち上がる。同時に、周囲の騎士も動きだす。
「待て、何処に行く気だ」
「無論、魔女の元へだ。神の御名を穢す事は断じて許さぬ。それは私が騎士である理由であり私の騎士である意味だからだ。最大の懸念はここにこうしているのだし、後は動くしかあるまいよ」
背を向ける、駄目だ、この男を行かせる訳にはいかない。
「待てレオニール、行かせないぞ!」
手斧に手をかけ大股で近付く。背を切りつけるは騎士に非ず、だが、それでもレオニールを止めないと――。
肩に手をかけようとするその一瞬、
銀の一閃。
「ルース!」
「っ!」
ぎゃり、と言う耳障りな音。その刹那の後に、剣先がルースの喉元にあった。
「受けれぬな、私には神の命が降っているのだ――残念だ、もしもこの場が我等騎士二人をまっとうに相対する場であったなら、この刃を止める事もなかったろうに」
振り向きざま迫る剣を受けた斧の刃が断ち切られている――見事な抜き付けだった。鉄の刃が切られた事、そしてその剣速に驚愕する。
配下の聖騎士達が近づく。レオニールを睨みつけたまま、抵抗せず縛めを受けた。その様を見てアリクも素直に縄を受ける。
「ではスリード卿、これで御別れだ。貴公にムスカディオの祝福あらん事を」
そして閉まる扉。僅かに蝋燭の炎が揺れた。
石組みの高い天井を持つこの広い蔵書室に、早足の靴音だけが響く。
縛る側に心得が無ければ縄抜けはそう難しくはない、二人は既に縛めから脱していた。
しかし、入ってきた扉は外から閂でもかけられたらしく開けない。壁を調べたり扉を叩いたりと、いろいろ試すが全て徒労に終わった。
アリクはと言うと、レオニールが読んでいたのであろう書籍達に目を通し、そのついでに本達を元の居所に戻してやっている。
「なるほど、驕慢な物言いだ。『神の御業は神の御手に抱かれ、神の御子の手に抱かれしは土塊一塊と麦穂の実りのみなり』か」
人差し指ですっと手の中の書物の一文を指でなぞるとぱたんと閉じ、ちょうど目の高さの書棚に空いた隙間に収める。
「アリク、今は――」
「出口を探す事を優先させるべきか? しばし待たれよ主様。考えている事がある」
冷徹に返る返答に苛立った。
「早く外に出なければ、ローザの身が危ういんだぞ!」
「解っている。だが、此処であの聖騎士の真意を知るべきだとも思うのだ。主よ、あの男の事を知りたくはないか」
声を失う。
急ぎ脱出する必要はある。だがアリクの言はその焦りを一瞬忘れさせるに充分な好奇を秘めていた。
「何か解ったのか?」
アリクは一度微笑んでからレオニールの捨て去った書を出した。
「侯爵のこの書簡の内容、列聖が教皇庁に認可されたとある。つまり審問官は御役御免、帰還の命令も降っておるな」
「?」
「あの審問官は自ら滅ぶを覚悟で違命し、城へ上ったのだ。それは、何故だ?」
頭巾を取ってアリクは問う。真紅の瞳が真っ直ぐにルースを見つめている。
「レオニールが死を覚悟して……か」
たった二度の出会いでしかないが、あの男は真実聖騎士のありのままを体現していた。彼が自らの信念に命を賭けるのはルースにも理解できる。
あの聖騎士にとって、聖女を認める事は己の騎士道を曲げる事に同義なのだ。
俯くルースをそのままに、アリクはレオニールの座っていた机を調べ出す。
「ふむ」
従士は何かを見つけたらしい、椅子に座って何枚もの羊皮紙に目を通し始めている。
「……それは?」
「……聖騎士殿の飼主からの手紙だ。あの男はこの修道院で機会を待っていたのだな、煮え切らぬ飼主とやり取りしながら」
ごつごつと軍靴を鳴らして机の横に立つ。アリクは紙束から数枚だけを引き抜いて差し出して来た。
受け取ると、アリクの瞳と目があった。
一度だけ口を歪めて笑い、書に目を通す。
『聖騎士レオニールへ
魔女を断罪せよ
神の御名に於いてその剣を振り下ろせ
神罰の代行者たる我等に一切の憂慮無し
須らく魔を殲滅すべし
これは勅命である』
一枚目はそう書かれていた。嫌悪感をそのままに二枚目を見る。
『聖騎士レオニールへ
断罪は待たねばならぬ
列聖と呼ばれる失われた言が掘り返された
我等は神罰の代行者。必ずやこの虚実を不問とし、魔女への鉄槌を汝に託す
遺憾ではあろうが、待機せよ』
「……」
「あの聖騎士はこの薄暗闇の中で聖女について調べに調べていたのだな。クラメリアンを探しながら」
アリクが机の上の書物達へと興味を変えている。次々に本を読み漁りながら時折邪魔そうに髪をかきあげる。そんな彼女の後ろ顔を見てから、最後の羊皮紙に取りかかる。それは、くしゃくしゃにされた侯爵からの書簡であった。
『聖騎士レオニールへ
列聖は新たに認可され、エシュトルの聖女は教会の名の元に認められた
教皇庁の書状にある通り、これは枢機卿の調印が成された正式の決まりである
貴公の活動は最早意味を成さぬ
急ぎ教皇庁へと帰還せよ
秘匿機関長マクシミリアン司教よりの厳命である』
書の最後に、マクシミリアンと言う人物とメルギル侯爵の署名が成されている。どんな経緯かは解らないが、これが先の書簡と同じ人物の手で書かれたものである事は一枚目、二枚目と見比べれば明らかだ。
「レオニールは此処で、何もできないままを過ごしていたのか」
読み終え、長い息を吐く。振り上げた剣をそのままにされた無念さが、握り潰された羊皮紙から見て取れた。
「あの男が調べ続けていたのも、全て聖女に関する資料だった。あの男は、己の中で聖女に関する己なりの答えを作っていったのだろう」
アリクの言葉が耳元で囁かれる。書簡から目を離せぬままで呟いた。
「……彼は、凄い騎士だ。剣も、心根も、忠義心も。自らの主君であるムスカディオに全身全霊を以て仕え、故にその敵を許さないのだな」
敗北感で身が焦げそうだ。だが、それ以上に――。
「……先程の一合、あれは、魔剣だ。教会の利己心が獲物である魔を奇跡という言葉で加工しそれを操る。上位の聖騎士は魔剣を掲げてそれを聖剣とほざきおる。鉄をも断つ剣と相対した事など誰もあるものかよ」
「アリク」
「はい、主様」
従士の言葉を止める。
「悔しさ以上にな、彼をこの手で倒したい。僕の誓いはローザを護る事、僕の信念は己を曲げない事だ。此処で諦める訳にはいかない。彼の騎士道と決着をつける」
アリクの見上げる顔に安心した様な、呆れた様な笑みが浮かんだ。
「やれやれ、要らぬ懸念であったか負けず嫌いめ。余程戦女神に好かれたいと見える」
「そんな取扱いに困りそうなのはお前だけで充分だ。さぁ、脱出しよう!」
もう一本の手斧を抜き扉に向かう。
武装を奪わなかったのは急いでいたのもあるのだろうが……これは推測でしかない。ないのだが、レオニールはルーシャスとの戦いを望んでいる気がする。追って来るのを待っている気がする。
「閂を、ぶち破る」
頑丈そうな両扉に一撃くれようと斧を構える――その時、扉の向こうから声がした。
「スリード卿、御無事であらせられるか」
「誰だ? いや、誰でもいい。閉じ込められて難儀している、閂を外してはくれないか」
すぐに錠の外れる音がした。
両扉が開く。そして四人の騎士と、それに護られるようにしてもう一人が中に入って来た。
「遅くなってしまい申し訳ありませんでしたスリード卿」
「貴方達は?」
「我々はこのガリオンヌに所属する聖騎士です。サンクス卿とは違う意思で動いています。御無事で、何よりでした」
その言葉で緊張を解き斧を収める。
ルースが話しかけてくる聖騎士へ騎士礼を行っている間に、一人の男が部屋の奥へと歩み行く。
「おお、なんと美しい!」
騎士礼を終えた時後ろからそんな声がした。
見ると、アリクの隣で男が彼女の手に口付けしている所だった。
「ちょ、ちょっ」
小走りに近付く。後ろの聖騎士達が嘆息しているのが聞こえた。
アリクと優男の間に立つと、あからさまに邪魔者を見る目で優男がちらりと此方を見やる。
「うーん、実に美しい……君、ルーシャス君だっけ?」
「はい」
「この子、奇麗だねえ」
「……はい?」
優男はにこにこ笑ってアリクの手を握り、熱い視線を彼女に送っている。
なんだこの人は……自己紹介もせずにアリクを見つめている。対するアリクも手を握られたまま満更でない様子で微笑んでいて、それが余計に苛立つ理由になった。
「あの、すいません」
「なんだい? 今猛烈に恋の炎が燃え上がっているから、手短に頼むよ」
頭を抱えそうになるのを堪え、言葉を続ける。
「失礼ながら、貴方は?」
「ああ、私はここの修道首司祭、クラメリアンだよ」
優男はその辺の道を教えるような調子で名乗る。
若い男だった。利発そうな印象の優男、それが第一印象だ。着ている服も法衣でなく貴族が好みそうな長上着だ。商人でも入って来たかと、一瞬錯覚してしまった程だ。
蝋燭の光が男を照らす。見れば見るほどその出で立ちから司祭という姿は結び付かない。
「クラメリアン……?」
「クラメリアン・バジル司祭だよ。よろしく。ところで貴女のお名前は?」
だめだこいつ……話がまともにできない。
「クラメリアン司祭様、手前はアリクと申します。さもあれ、この状況の説明は欲しいのですが」
アリクめ、まったく、もっと早くに言ってくれよ。不貞腐れた顔で見ると、アリクはうっすら微笑んでいるではないか。まったく何が楽しいんだか理解に苦しむ。
「状況の説明? 急いでラティオに行くって状況かな? 今は」
「そんな事は解ってますよ。欲しい説明はなんで貴方が此処にいるかって事です」
そう一息に言ってから、二人を繋ぐ手を断ち切るようにしてアリクの前に立つ。
「それと、彼女は僕の従士です。勝手に口説かないでいただきたい」
「あ、そうなんだ。ふーむ、男に優しく説明するのは好みじゃないのだが。まぁいい、準備の間説明しようか。皆、すまないが馬車の準備を」
聖騎士達が「御意」と返し部屋を出ていく。彼等の此方に送ってくる視線が同情的なのは気のせいだろうか?
アリクの方は、いまだ困った風な笑い顔。
この男はどうにもいけすかない。極力気にかけないようにして優男の言葉を待った。
聖騎士達が部屋から出ていくと同時にクラメリアンは口を開く。
「君の馬は利口らしいね、レオニールの部下を一人蹴り倒して逃げたらしい」
御丁寧に此方の馬を殺しにかかったか。
老いたりとはいえ気性の荒さは折り紙付きの奴なのに。ましてや光物をぎらつかせたのなら当然の結果だろう。ともあれ手練が殺しにかからなくて良かったと安堵する。
「自慢の軍馬です。荷運びも得意ですよ」
そしてようやっと会話がまともに成立した事に息を吐く。
「クラメリアン司祭、教えて下さい。貴方が列聖を蘇らせたんですか」
司祭は形の良い眉を片方上げて「ほう、随分知った風じゃないか」と笑う。
「そう、私が復活させた。ローザを護る為にね……あの子はかつて、死にかけたこの私を救う為、あろう事か教会の、衆人の最中で奇跡を起こしたのだ……あの子は天使だ。私は、すっかりあの子に惚れているのさ」
……目を丸くした。
「ん、君は実に表情豊かだなあ。成程アナベルトに気に入られる筈だ」
司祭が此方を向いての笑い顔に、呆れ顔も隠さず言葉を返す。
「いきなり突拍子も無い事を言われれば誰でもそうなります」
「恋の炎はいつだって突然燃え上がるのだよ……聖騎士に追いかけられながら、焚書だらけの資料を必死に漁り、目当てを探し出すのは随分苦労したんだぜ」
隣の従士にそっと「焚書って?」と聞いた。
アリクは「めんどうなことをなかったことにすることさ」と応えた。
「資料が無ければ証明のしようが無い、私は貴族の財産目録に注目した。貴族の庇護の下ならば禁書が生き残っていると考えたのだ。それが、アナベルトの財産の中にあったのはまさしく神の導きだと思ったよ」
侯爵に正教の資料があるのは一瞬意外に思ったが、先祖の資料と言う意味で残っているのだろうと思いなおす。メルギル侯爵はこの領地の初代領主、エシュトルの血統だった筈だ。
「アナベルトに事情を話し協力を貰い、私は修道院に資料と共に身を潜め研究に没頭する事にした。ローザの事を嘆願してからね。彼は予想以上に協力してくれた……後は君等も知っている展開になるかな」
最悪切札を使うつもりだったのだが、と笑うクラメリアン。切札? それを聞こうとする前にアリクが口を挟んで来た。
「列聖は、かつて異端審問の枷となるとして消された。今復活させて意味はあるのですか」
アリクの危惧は尤もだ、一度失効したものを蘇らせてもまた消されるのではないだろうか。
「ほう、随分物知りなんだね、知的な美人は大好きだよ……意味はある。というか、意味を持たせた。異端審問官によって列聖を薦める神学者が暗殺され、聖人と列される予定だった者が処分された過去の事件の証拠資料を発表した。今頃異端狩りの派閥は自分達の正当性を証明するのに必死さ」
なんて事をするのか。自分の所属する団体の醜聞を利用したのか。
に、しても……神の意志とはよく言ったものだ、結局それが正か邪かなんて人間次第ではないか。
「異端審問の名目で公に人を殺す外法が罷り通る教会に、一石を投じる事が出来た。これもローザのおかげだが……侯爵はどうやらレオニールを読み違えたようだな」
アリクが頷き此方を見上げてくる。
「クラメリアン司祭はここでレオニールの注意を引き続けていたのだ。姿を現したのはその必要が無くなった、列聖が教会に認知されたからだろう」
「大正解。いや、実に賢いね、アリクさん。侯爵はそれをレオニールに伝えたようだがそれはあの職務に熱心な聖騎士には逆効果だったな。アナベルトは上手くいけば此処で君とレオニールが潰し合うのを望んだのだろうが」
クラメリアンの笑みがルースを見る。
だが若騎士は挑発的な笑みを軽く受け流す――手駒にされるのは慣れているし、それが仕事だと思っている。それには別段怒りは湧かなかった。
だが、これだけは聞いておかねばならないだろう。
「……何故、ローザに事の経緯を知らせなかったんですか」
「それを知らせても意味が無い。むしろ逆効果というものだ」
これにはアリクが答えた。優男は軽い笑いで同調する。
「意味とか、そんな問題じゃないだろう!」
怒声を張り上げた。
アリクとクラメリアン、二人が怒気に煽られる。
「ローザは……ローザは貴方の事をずっと心配していたぞ。彼女がどんな思いであの城の中で過ごしていたのか、解っているのか! あの子はずっとひとりぽっちだった。だけど僕にはそんな素振りも見せなかった。貴方の事をとても……大事そうに話していた」
睨みつけると、優男は素直に俯いた――彼の、ローザに対しての想いはこれで解った。
「アリク、お前も憶えておけ。人の心を顧みないはけだものと同じだ。僕はけだものの手業を使う奴が大嫌いだ。お前の主は若造で未熟だが、一度だってそれを赦した事はない」
アリクを見下ろす。
真紅の瞳が見上げてくる。真正面から睨むと怯えるように後退った。その逃げる腕を捕まえて、抱き寄せた。おずおずと、抱き返される。
「怒鳴って悪かった」
「……我はただ、お前に伝えたかっただけだ」
不貞腐れた細い声。ルースは抱く手に力を籠めた。
「解ってるよアリク。ありがとう」
胸に顔を埋めてくる。その頭を軽く撫でてやった。
「……私も抱いてくれるかね?」
眼だけで振り向けば、何か吹っ切れたようなクラメリアンの顔がある。
「なぁルーシャス君。私はどんな顔でローザに立ち会えばいいかなあ? 彼女、怒ってなかったかい?」
情けない顔で聞いてきた。
「いや……心配はしていたようですけど」
「ローザに秘密だったのは……最悪私が死んだ時に、何も知らない方がいいと思ったからなんだ。だがそれはあの子を孤独にする事だったんだなあ……僕はあの子が可愛くて仕方ないんだよ。なぁルーシャス君、あの子は許してくれるかなあ?」
知るかそんな事、と毒づきたくなるのを堪え、苦笑い。
「ローザは誰かを恨んだりはしないでしょう。あの子はただ村に帰って普通に暮らしたいだけです。そして、僕は彼女にそんな教会の内情等言うつもりもない。謀略、計略、なんでもいい、それを好きな連中同士でやればいいんだ。僕はもし彼女に災いが降りかかるなら、それを打ち払うのみです」
その言葉の終わりくらいに聖騎士達が部屋に入ってくる「司祭様、準備出来ました」と言って来た。
「一発くらい貰っておいた方がいいのでは? その方が、たぶんローザは満足しますよ」
最後にそう付け加えてやった。
「君、女に苛められるのは結構きついんだぜ。惚れた女じゃ尚更だ」
何だそんな事、と言いたげに返す。
「大丈夫、要は慣れですよ」
腕の中のアリクが堪らず吹き出した。
ラティオに着いたのは、日が傾き始めた頃だった。
ルースは馬を、クラメリアンとアリクは馬車を使っての道中だ。御者はクラメリアン抱えの聖騎士が手綱を握っている。
馬車の中にも聖騎士が数名詰めている。
この先の危険はどうなるか予想もつかないからだ。
馬車の中のアリクとクラメリアンが気にならないと言えば嘘になるが……今はそれよりも急がなくてはならなかった。
大門を越え街の雑踏に入る。もう早馬はできない。大通りは商人や露店、町民で混雑していた。通行人に気を払いつつ遠くに見えるエルトリウス城に急ぐ。
城へ向かおうと手綱を握り直すそんな背中に声がかかった。
「失礼! スリード卿ですか?」
老いた門番が駆け寄り此方を見上げている。
「えぇ、そうですが」
「侯爵の使いから伝書を貰っております……ええと一応、貴方の身分の証を」
懐から騎士の証の飾り短剣を抜き見せる。刀身に名が彫られたそれは自らの身の証にもなる。失くしたらとんでもない事になるのだ。
「……これを」
老門番が差し出したのは蝋で封印のされた薄い書簡だった。ルーシャス・スリードに直接宛てられている。飾り短剣で封印を切り、馬上のままで手紙を読んだ。手紙は、ただ一行書かれているのみ。
〈城には神の犬。再会の仮宿に我等の愛娘を。誓いの騎士の手に委ねん〉
伴う馬車の扉を叩く。アリクが扉から顔を出した所にその手紙を渡し、馬から降りて走りだした。
再開の仮宿「夜露に舞う蝶々亭」はそう遠くない位置にある、走ればすぐに着く距離だ。人混みを掻き分けながら宿屋の前に近づいた時、周囲の異質に感づいた。
待ち伏せか。
この宿屋の台帳から場所が割れていればそういう事になるだろう。ローザは無事だろうか。その心配が先に立つ。
「ルーシャ!」
すると宿屋の扉が開き、ローザとボルボマーロが宿屋の扉から姿を現した。良かった、二人とも無事だったか。安堵し、しかし背を向けたままで鋭い声で言いやった。
「ローザ、宿屋の中に隠れているんだ。ポルカ卿、ローザを頼みます」
「うむ、任された。スリード卿もよく気をつけられよ」
ボルボマーロは意を悟ってローザと共に宿屋の中へ戻る。ようやくローザもその只事ならぬ事態を察知しボルボマーロの導きに従った。
人波の中、外衣に目深に頭巾を被り、殺気を隠しきれぬ者達が近づいて来ている。数ははっきりしない。素早く状況を認め、腰の得物に手をかけた。
「ルーシャ、気を付けて……!」
扉が閉まる。それを待っていたかのように人波を掻き分け武装した連中が周囲に立った。その数は五、人混みに紛れている数はまだあるやもしれぬ。
馬車はまだ見えないが、あちらにはアリクと聖騎士がついている。問題ないだろう。
「聞け狼藉者ども、抜かば容赦はないと心得よ!」
言葉に反応し頭巾の集団が一斉に武器を抜き払つ。
ルースの叫びと異変に気付いた辺りの町人達が一瞬硬直し、それから悲鳴をあげて逃げ惑いだした。津波のように広がる混乱の最中、刺客は一斉に襲い掛かってくる。
正面に扇状に広がる三人、左右から一人ずつ。
正面の右端の膝目がけ予備動作無く斧を投げ打ち、同時に右から襲ってくる男の剣の、振りかざす右肘を目がけ左拳を打ち込んだ。
めぎゃん、と音が響く。折れた肘と脇腹とを一緒に捕まえ真逆に向かって投げ飛ばす。
左から迫る戦斧が、投げられてきた塊の兜を砕き、刃が頭部に深々とめり込んだ。
正面を見据えれば眼前に迫った幅広剣を振り下ろすもう一人。
振り下ろされる剣速より早く剣の腹を右拳で弾いて軌跡を殺す。剣が地面を削るより早く首に左の手刀をめり込ませた。そのままその身体を捕まえ振り回し、短剣を奪いながら正面のもう一人に投げつける。
頸骨を砕かれ、吹っ飛んできた躯を抱き止めた男はそのまま威力を殺しきれず転がった。
奪った短剣を左の敵に振り向きざま打ち、再び姿勢を直し状況を見定める。
左側、ようやく戦斧を外し骸を退かした男の左眼に短剣が柄まで埋まる。そこで斧使いは命ある動きを止めた。
――左右に敵対する者はもういない。
残りは二人、一人は斧が深く右膝に突き刺さったままでもがき苦しみ、いま一人はまだ首をだらりとさせた死体の下にいた。
三人を一合で躯と変え、もう一本の手斧を帯革の鞘から抜いた。
「矜持に問う。まだやるか」
生き残った二人は青い顔で言葉を失う。
それは、戦場で自分が死ぬ事を想像した事の無い顔だった。
舌打ちしながら周囲の気配を探り、そして、見据えた。
「あーあー、なっちゃいねぇな、なぁ小僧」
ぬ、と混乱の合間、ルースの視線の先から大男が現れる。
「遍歴の騎士バリドゥだ。今は雇われ兵だがな」
背負う大斧の留め金を外し構える――この男は見た事がある。野試合でボルボマーロと力比べをした奴だ。
周囲の人混みは野次馬と化して円を作っている。いまやここは闘技場であった。
「遍歴の騎士、ルーシャス」
名乗る言葉に乗ってひゅお、と風切る音。背後、人と人の裂け目から何か飛来する。
目に見えたのは二つ、横を向き、刃腹で弾きながら大斧使い目がけ跳んだ。
どごん、と地が揺れる。大斧がルースの一瞬前までいた場所を抉っていた。
奔るルースを捉えた短剣が刺さる。ぞぶり、と熱い感覚が背に二つ。
痛みに歯を食いしばりながら、しかし突進の勢いは殺さない。
振り下ろした斧を持ち上げようとする男の肩に体ごとぶつかった――そこはボルボマーロとの試合で痛めた筈の箇所だ。
「ぐおっ」
「おらあっ!」
体勢を崩して下がった首が、飛び跳ねざまに薙いだ斧で吹き飛んだ。
肉売りの露店商が情けない悲鳴を上げる。牛の頭の横に驚愕の顔をした生首が落ちていた。
やや遅れ、力んだままに屠られた躯の首から噴き出た血飛沫が飛ぶ。血化粧は、いまや胸から上を真っ赤に染め上げていた。
「確かに、なってないな」
呟き、立ち上がって構え直せば短剣を持つ男と、剣を構えるもう一人が立ち並ぶ。
――手練と見える。痛みと動きで荒くなっていた呼気を整えた。
背の痛みは深くない。痛む場所に力を籠め、血が止まる程度の傷と判断すると同時に地を馳せた。
筋肉で抜いた短剣が地面に落ちるより前にルースの接近は終わっている。
「おおっ!」
短剣を投げる男へ向け斧を振りかざす――左の視界に剣の閃きが見えた。
なんと、不意の速攻に合わせる剣か。真横から薙いでくる剣の届かぬ範囲へと横跳びに躱す。脇腹を護る革鎧が小さく鳴いて断ち切れた。
初手であの短剣の奴をやれなかったのは、まずい。手順のどこかでまたあの短剣を食らう事になったと口を歪める。
着地し、体が乱れた所に短剣が飛んで来た。斧で二つ弾き、受けきれないもう一本を左の掌で握り止めた。短剣の先が若騎士の掌に埋め込まれる。
「やるねぇ!」
それに続けて襲い掛かる剣の猛攻。激しい一撃に一瞬、斧が弾かれた。
剣の振り、威力は恐るべきものがあるが足の運びは並と見た。一度大きく跳び退り、すぐさま剣に合わせの一撃を放ち、なんとか猛攻を止める。
その一瞬、受け止まった剣に罅を見つけ、戦術は決まった。
動きに合わせ広がり流れ、移動する野次馬の輪。ルースは激しい連撃に強い応撃を合わせながら、此方を狙う短剣使いに向け得物の刺さる左手を二度振るった。一度は刺さった剣の柄を掌に収める為、二度目は剣を擲つ為。
「くっ」
短剣使いが目を押さえる。追い打ちを狙おうと意識を武器に逸らした隙に、自ら投げた飛剣が勢いをつけて戻って来たのだ。反応できたのは左瞼を断ち切られた後だった。
短剣使いを黙らせ、剣と斧の攻防は続く。剣が上から閃けば、斧は応えて下から昇る。剣が横を薙げば斧の背がそれを受け止めた。鋼が撃ち合う度に激しい音が鳴り響き火花を散らす。
剛に轟が応える舞踏の如きは斧の強撃を受けた時、突然に弾き折れた剣の音で終わりを告げる。
「ち、刃折れを狙ってやがったか、手入れは怠るもんじゃねぇな」
苦笑する顔が次の瞬間中空に飛んだ。
「ひっ」
血を拭い、戦況を見た短剣使いがじりじりと後退る。頼りだった剣士の胴体が首を失い地に伏すのを見て慄き、背を向け、逃げだした。
男に斧を投げようとして、既の所でなんとか止める。背に剣向けるは騎士道に非ず。ルースは深く息を吐いて得物を鞘に収めた。
「……やれやれ」
愚痴を吐き、ようやく緊張を解くのだった。
未だ残る二人にも、もはや戦意は無かった。近づき、抜き取られたらしき斧を拾いあげると男達は泣き顔で命乞いを始める。
「武器を捨て、去れ。次に敵として会ったなら容赦はしない、そう思え」
死体からようやっと抜け出して、足の動かぬ男を助け起こし、二人は人混みの中へ逃げ去った。
「我ながら、甘いなあ」
人混みに混じる背中を見届け呟く。そこに馬車と馬が追いついた。いまだ興奮冷めやらずざわめく民衆の中、アリクが馬から飛に降りてくる。
「主様、無事か」
「ああ、大丈夫だ。ローザも宿屋の中に――」
言葉が最後まで続かない。背後から、激しい熱気を感じた。振り向くと宿屋のそこかしこから黒い煙が上がっている。
「――馬鹿な」
めらり、と炎が見え始めた。
駈けより、つい先程ローザとボルボマーロが姿を隠した扉の取っ手を掴む。じゅう、と熱が手を襲うが構わず扉を開け放った。
熱風が頬を焼く。一階の酒場の兼用となっている食堂が火の海となっていた。
燃え上がる空間。その中にある幾つかの人影。
「ボルボマーロぉっ!」
叫び、炎に踏み込もうとするその身体を抱き止められた。
「駄目だルース、この火の勢いは危険すぎる!」
――アリクであった。歯軋りし、それに従う。
火勢は留まる所を知らず、熱気で目をまともに開けていられない。冬の乾燥した日が続いていた。建物に火が付けばあっという間にこうなるのは明白だった。
「おお、その声はスリード卿ですか……!」
炎の奥から咽込みながらの声が聞こえてくる。ボルボマーロだ、生きている!
「卿! 裏口から出れませんか!」
「駄目です、出火元が裏口から入って来た賊の松明なのです。運の悪い事に、その傍に掃除用の古布があって……此方は完全に火に包まれました」
何という事だ。通りを振り返り「火事だ! 水を用意してくれ! 警備団を呼んでくれ!」と未だ騒ぎ続ける人々に叫びを上げた。
この街の土地勘が無い、今すぐ井戸を探したかったが、地元の人に任せた方がいいと判断した。
どん、と音がして二階の窓が吹き飛び炎が吹き上がる。現れた炎の舌は既に二階を掌握しているようだ。事態に気付いた民衆がまたもや騒ぎ出す。
「消化します、なんとか堪えて下さい!」
熱気に喉をやられそうになり、咽込みながら火の海に向かって叫ぶ。天井の梁がめきめきと悲鳴をあげるのが聞こえた。
「スリード卿、恐らくそれまでもちません……此処に湿気た毛布がある。これで宿の娘とローザを包んで脱出を試みます。残りの男衆と相談し、そう決めました」
「駄目だ、諦めちゃいけない!」
建物の軋む音。最悪の状況が迫る音だ。
「時間が無い、後を任せますぞ、スリード卿」
決死の覚悟が秘められた言葉にルースは己の無力を噛み締める。こんな時に何もできないなんて……!
「ローザ! 聞こえるかい、ローザ!」
そんな時に響いた声、クラメリアンだった。
クラメリアンがいつの間にかルースの隣、火を噴き続ける宿の扉の前に立っていた。
「……し、司祭様……?」
微かに掠れる様な細い声。ローザだ。
「ローザ、あぁ、可哀想に! もう大丈夫、君なら大丈夫だローザ。奇跡を起こすんだ、こんな火など吹き飛ばしてしまえ!」
奇跡? そうか、ローザのあのちからならば。
「で、でも……人前で使ってはいけないって、司祭様が仰ったのに」
ローザは再会の喜びなのか、目の前の惨状になのか、細い声のままで返してくる。
「ローザ、もういいんだ。それに、この惨状を何とか出来るのは君しかいない。急いで水を、春先のエシュトルの激しい豪雨のように! 大丈夫、大丈夫だ! もうそれで、私は君の傍から消えはしないから!」
ローザは……炎の海の先でどんな顔になっているのだろう。しばしの沈黙の後、その歌声が聞こえてきた。
空に漂うものよ、魂無く嘆く貴女よ、美しきオンディーヌよ!
周囲に水など無かった。ルースに初めて見せた時とは違う。だが……。
「あ、雨か?」
野次馬の中の誰かが言った。
雨が、いや、違う。水滴だった。
水滴は中空に浮かんだままで次々に生まれ、大きくなっていった。そしてそれは、次々に燃え上がる宿屋の中へと吸い込まれていく。それは火勢に次々消えていくが、徐々に、徐々に炎の勢いを削いでいく。
全ての水滴達がある一点へ集まっていくのが解った。太陽の光を反射して煌めく水滴達は集まり、うねり、蒸発してはまた生まれる。それはまるで、何か神がかったものが束縛から解き放たれ生まれ出でようとする、そんな様であった。
遂に炭化した柱が崩れだす。二階部分だった燃える材木が降ってくる。
「大丈夫ですか!」
中に向け声を張り上げる。
「此方は大丈夫です、卿! 何か、何かが我々を取り囲んで……護ってくれています!」
「あ、雨が火事を消そうとしているぞ」
ざわめきの中誰かが言った。
確かにそう見える、雨が空からでなく、忽然と中空から発生すると言う一点を除いては。
遂に炎の舌が収まった。黒煙は白い煙へと色を変え始め、雲の様に広がる水蒸気の中、ボルボマーロの姿が浮かび上がる。
「おお、ポルカ卿!」
外衣に周囲の水滴を集めてから煙の中へ入る。
其処に煙る空気に咽込みうずくまる宿屋の働き手と客達がいた。ボルボマーロは彼等を護るように膝をつきながら、焦げた毛布を抱えていた。
「スリード卿……我々は、助かったのか。これは、一体なんなのですか……?」
近寄るルースを見上げ、ボルボマーロが首を巡らせる。
煙の中浮かび上がる姿。両膝をつき、祈りを捧げる聖女と、それに応え現れた神秘。
ローザと水の精霊だった。
ローザの呼び声に応じ、人々を護りきったのだろう水の乙女はローザの傍らで神秘的な姿を湛え、佇んでいた。
不自然に辺りの瓦礫、残骸が彼等の周りを避けて転がっているのが解る。ローザを中心にした円形の空間だけが火事の脅威から護られていた。
正に、奇跡。
どう喩えればいいのかと、ルースが言葉を探しているとクラメリアンが声高らかに宣告する。
「これは奇跡。彼女はエシュトルの聖女なのです。聖女が奇跡を起こすのは、神が救いの手を差し伸べるようにごく当然のことではありませんか!」
クラメリアンは声をあげて後、咽込み倒れる宿の者達の手当てを始める。
そして振り返ると……クラメリアンの言葉が瞬く間に波になり野次馬達の、街の人々の、ざわめきが、ささやきが、感嘆が、目で追う事が出来るように広がっていく。
聖女?
エシュトルの聖女?
水の乙女を呼び、人命を救った少女
エシュトルの聖女……
聖女!
聖女は本当に、いらっしゃったのだ!
おおおおお、地鳴りのような歓声が湧き起こる。人々は口々に奇跡を口にして目に映る水の乙女の姿に祈りを捧げた。ある者は地に頭を擦らせ、ある者は両膝をつき。
「これは……」
見廻す。まるで謁見室で見た天井画、大神降臨の絵の如き光景であった。
崩れ落ちた建物の中央、祈りを続ける少女、神官、その横に浮かぶ神秘の乙女。蹲る者達、祈り捧げる者達。ルースが屠った死体すらが絵画の一部になっていた。
題を付けるなら「聖女降臨」といったところだろうか。
「おお……なんという光景だ」
ボルボマーロの声が掠れていた。煙のせいか、目の前の聖劇の為にかは解らないが。
は眼前のそんな光景を見て、やがて小さく苦笑し視線を外す。
誰もが祈り膝を折るその奇跡の中、少しずつ離れながら、その奇跡の時を狙うかもしれない新手の敵を警戒する――その光景に酔い痴れるのを避けるように。
「主」
アリクが隣に従っていた。彼女もルースと同じ、眼前に展開される奇跡を冷ややかなままで見ていた。そして、主に告げた。
「レオニールはもう城内のようだな」
「そうか」
「行くか? もう新手の心配は無かろう」
アリクはルースと一緒に周囲を見渡しながら囁いてくる。
そんな従士へ答えの代りに、ぼそりと呟いた。
「なぁアリク。お前はどう思う? あの奇跡、まさしく人の命が救われたあれを見て僕の心には何の感慨も湧かないんだ。おかしいよな、命を懸命に救ってたあの周りに転がるしかばね達は全部僕が作ったものなんだぜ」
アリクが小さく鼻を鳴らし、不機嫌を表すように大きな動きで腕を組む。
「慰めぬぞ。ルースよ、我はお前の何だと思っている。それに疑問を持つと言う事は、我が此処に立つ事に疑問を持つと言う事ではないか。お前は我を、要らぬと言うのか」
強く首を振る。
「そうじゃない、その逆だ。あの輪の中に、入りたくないって身体が言うんだ。なんでだろう? 僕は……命の尊さは知っているつもりだったのに」
「そんな事決まっておる、お前は神を信じてないからだ。それに……」
しばし言葉に詰まり、それから、ええいと腕を解き放ってアリクは続けた。
「それに、お前は戦士だ。我を大事にしているから、だから行こうなどと思わないのだ。あすこは生者の楽園かもしれん、だが我はおらん。楽園に我は居らぬ。だから、行かないのだ……もういいだろう? そんな事で、いちいち悩むなたわけ者」
ゆっくり首を向けてみれば、アリクの頭巾から僅かに覗く頬が朱に染まっていた。
――こんなアリクを見たのは初めてだ。
「僕の一握にあるものが、けして折れねばそれでいいのか」
「そうだ」
アリクは真紅の瞳をルースに向け応えた。
奇跡などもう目に入らない。眼に映るのは互いの瞳だけ。言葉も無く手が、腕が、身体が繋がった。
「たわけめ、だからお前は甘いのだ。戦場に向かうというのに我を置いて行きおって」
耳元で咎めてくる言葉すらが甘く響く。
「……ごめん。だけどお前はいつだって僕の元に来てくれるだろう? それくらい、甘えたっていいじゃないか」
「……たわけた事を」
人々の奇跡の喜びの中、二人だけはただ二人だけ、互いの命の温もりを確かめ合っていた。
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