夢を紡ぐタイプライトな羊達

橘 嬌

第1話  秘める想い

 夏樹、おい、夏樹! 大丈夫か?


 ああ……どこか遠くの方で、私を呼ぶ声がする。その声は美しく、優雅で稀に聞く声だ。とても優しく、包容力のある力強く甘い良い声。私の好みの声に違いないのだが、残念ながらそれがどこから呼ばれているのかわからない。聞き覚えのある声のような気もするし、頭の中で響いて来る声のような気もするし、自分の妄想なのかもしれない。そもそも幻聴だったら救いようもない……そんなことを考えているとその声はだんだんと大きくなっていき、耳にジンジンと響き渡るように、五月蠅く響いて来る。やがて優しそうに聞こえた筈の私を呼ぶ包容力のあると思われた声色、ささやくような声のイメージは、現実に近づくような交差する夢の狭間の感覚と現実に引き戻される騒音のような声になり変わり、怒鳴り声のような音に完全に切り変わった。


「おい!夏樹!起きろ!締め切り間に合わなくなるぞ」


 どうやら私こと、夏樹 紗希なつき さきはうっかり神社の社の側でうたた寝していたようだ。


 私の住むこの京都の祇園には小さな神社や社が多く、子供の頃から馴染んでいる場所なので、いけないと解かっていてもつい居心地がよくうたた寝をしてしまう癖があった。まったく罰当たりな事だ。


 私は寝ぼけ眼で目をこすりながら、マイペースにあくびをして手を口に当てた。

「ふぁぁ、何よ? どうしたのよ。圭介、そんなに血相をかえて、まるで子供みたい」


「馬鹿!夏樹お前、一年かけて書き上げた自分の最高傑作を今日のこの日の為に取っておいたんだろう?」


「は? 一年? 自分の最高傑作……?」

私は無意識に大切に腕に抱えていた厚手の大きな封筒に目を落とす。


「あああっ、けっ、圭介、今何時!」


圭介「十四時二十分、まだ郵便局、ギリギリ間に合うぞ」


 私は圭介の言葉を最後まで聞き届ける事なく、封筒を大事に抱えて走り出す。


 それは、年に一度の大型新人賞の小説のコンテスト。この大掛かりなコンテストで賞を取るという事は、日本中に名が知れ渡るという事。作家を目指す者なら知らない者はいない、すなわち作家デビューが約束された登竜門的コンテストでもあった。


 私は走り出す。茶色く染めたばかりの毛先軽めのパーマを優雅に揺らしながら

この私の魂ともいえる、この小説を胸に大事に抱え……。


 やがて赤いポストへ熱い思いを注ぐかのように作品を投函する。

そして、ほっ、と期待と安堵の溜息をひとつついて、手を合わせポストを拝んだ。


なんだか……誰かにラブレターでも出すみたいね。


 この投函には、そんな恋心と勘違いするほどにもドキドキとした錯覚に捉われるような気持ちにもなれた。私にとって大切なコンテストだった。


 私こと夏樹 紗希は学生の頃より、本の虫だった。学校の図書館の本は全て読破し、本屋では立ち読みの常習犯でもあり、社会人となる頃にはネットで本を買い漁り、家はちょっとした図書館状態であった。小説家としてコンテストで賞を取り、プロになること、それが今の私の人生そのものであり、全ての夢……。


 自分の今までの人生経験は決して幸せで恵まれた人生とはいえない。恋も人生も理想とは程遠い、自分の想い入れたほどの結果には恵まれず、想いを賭けた時間とは比例せず、陰で支える脇役のような詰められた苦渋の思いを強いられたような人生。そんな人生に嫌気も刺した事も有るが、つらい時、キツイ時ほど、私は執筆にのめり込み想いをぶつけてきた、それほどに私が還る人生の原点は読書と執筆であり、やはり私は物書きの類なのだ。もはや小説は今の私自身、己自身と言っても過言ではない。


 そして今回、この賞に対する私の想いは特別だ。

気持ちだけではない。

過去にある人との忘れられない秘めた想いを繋ぐ、私自身の物語。

そしてそれがこの新人賞に捧げる私の全て、私が輝いていた自分の二度と訪れない、あの時の輝きの瞬間とも言ってもいい大切な恋の、私の魂の恋愛小説だ。


 さあ、サイはなげられた、……後は新人賞の結果を待つだけだ。


「起こしてくれてありがと、圭介、…‥‥」


 私はなりふり構わず全力で走っていたので、そこにすでに居るはずのない圭介にお礼を言おうと後ろを振り返っていた。それくらい真剣な思いをこのコンテストに賭けていた事に自分でも驚く。


「って、いないか」


 圭介は私の学生の頃からの古き旧友だ。

そして私が唯一尊敬できる優れた作家仲間でもあった。良きライバルでもあり親友。

 彼の作品はサイト内での小さなコンテストによく入賞を繰り返していた。一度も賞を取ったことのない私とは違い、圭介は優秀だった。


 彼とは考えも嗜好も、気が合う事も有り、異性として魅力がない訳ではなかった。が、私達は親友という枠を出る事はなかった。しかし圭介はどちらかと言えば私の好みで、イケメンな為、……時に瞬間的な写真のような横顔や、ちょっとしたしぐさの瞬間に、胸をときめかせ、ドキッと淡い恋心を抱いた事があったのは一度や二度ではない。


 ……いや、錯覚だ。そういうことにしておかないと。


 ……このささやかな私の中の女の気持ちと想いは圭介には内緒だ。なぜなら私は今の彼との距離感が好きだった。彼とは親友として、いい関係を続けたい、続けていきたいと思っている。命ある限り永遠に。時に男女の仲というものは、色恋ばかりが人間関係ではない。私は今までの失恋からそれを学んできた筈だ。大切な親友、彼とは男女の色恋などに振り回されて、この大切な関係を失敗したくはなかった。慣れ合いすぎてぐだぐだな恋などに溶けて闇落ち落ちてしまうくらいならば、この私の気持ちを殺し抑え変えてでも、崇高な圭介の作品との触れ合いの時間を、崇高な時を共に過ごしたい。それほどに私は彼の作品を評価し、愛し、作家として尊敬していた。


私は自分の最高の作品を、最高の賞に投稿した満月の夜、そんなことを考えながら彼の小説に描かれるような、綺麗な美しい夜空を見上げて、徒歩でゆっくりと散歩しながら帰路へついた。





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