第13話

 


 厨房に戻ると、食事の続きをした。


「……でもどうして、行方が分からないの? 益美さんは言ったわ。“朝食を食べて会社に行った”って。そして、“七時頃に帰るから、その時間に来て”って。高志は普段どおり会社に行っていたわけでしょう? だったら会社に問い合わせれば、出勤時間や退社時間がはっきりするじゃない」


「会社から帰ってから益美さんを発見して――」


「だったらどうして、警察に通報しなかったの? 第一発見者は新聞配達員てあったわ」


「自分が疑われると思ったか……」


 行弘はそこで口ごもった。


 ……たぶん、“松田さんが殺したか”と続くのだろう。順子の中にまた霧が立ち込めた。


「高志は犯人じゃないわよっ!」


 高志に疑惑を抱いている行弘の心中が窺えた順子は、無性に腹が立って声を荒らげた。


「誰もそんなこと言ってないだろ」


「言わなくたって分かるわよ。私はあの人を信じてるから」


 箸を置くと、席を立った。


 ……何よ、“松田さんは犯人じゃないさ”なんて言っときながら、実際は疑ってるんじゃない。口ばっかりなんだから。……嘘つき。


 そんなふうに思った順子は布団に潜ると、へそを曲げた子供のようにふて寝を決め込んだ。


 暫くすると、食事の片付けでもしているのか、皿がぶつかる音と蛇口を捻る音が聞こえた。


 ……声を掛けてきても無視しよう。意固地いこじになっていた順子は、そんな子供のような考えを企んでいた。だが、厨房が静かになってもドアは開かなかった。予想に反して、階段を上がる足音がしていた。いさかいを避けるために客室で寝るようだ。言い過ぎたことを順子は悔やんだ。


 砂を噛むような味気ない中で、漠然とした疑惑だけが膨張し、寝付けぬままに時間ばかりが過ぎていた。つまり、腹を立てていたのは行弘にではなく、高志への疑惑を払拭できずにいる自分自身にだった。行弘に八つ当たりした自分の器の小ささを順子は恥じた。その根拠のない疑惑が、胸中にこびりついた汚泥のようで不快だった。


 仮に高志が殺したとして、動機は何? 私が原因の口論? それとも全く違うこと? もし、高志が犯人だとしたら懲役何年? 死刑になんかならないよね? ……


 眠れぬままに、順子は悪い結果ばかりを考えていた。


 ……高志、今どこに居るの? ねっ、高志ーっ!



 結局、一睡もできず、ニュースの時間に合わせてテレビを点けた。


〔――家の前をうろついていた男女を見たという目撃情報から、この二人が事件に関わっていると見て、警察は捜査をしています〕


 えっ! ……まさか私達のこと?


 あらぬ疑いをかけられて吃驚びっくりした順子は、慌てて布団から出ると、階段の下から、


「あなたーっ!」


 行弘を呼んだ。


「早く来てっ! 大変!」


 大声を出した。すると、襖を開ける音と廊下を急ぎ足で来る音がした。


「どうした?」


 セーターを手にした行弘が早口で訊いた。


「ニュースで! 早く下りてきて」


 順子はそこまで言うと、厨房に行った。


「どうしたんだ」


 カーディガンを着ると、椅子に座った。


「私達が疑われてるの」


 やかんを火にかけた。


「えっ! どう言うことだ?」


「死亡推定時刻に家の前をうろついていた男女が目撃され、その二人が事件に関わっていると警察は見ているってニュースで言ってたわ」


 急須に茶葉を入れた。


「マジかよ。……松田さんちに入ってるから、俺達の指紋がついてる可能性があるし、容疑者にされる条件が揃ってる。……まいったな」


 行弘がボサボサの頭を抱えた。


「私達が犯人にされちゃうのかしら……。ね、どうする?」


「どうもこうも、犯人じゃないんだから正々堂々としてればいいさ」


「警察が来るかな……」


 順子は臆病風に吹かれた。


「来たら、ありのままを話すさ」


「……そうだね」


 濡れ衣を着せられるかもしれないと、寒心かんしんを覚えた順子だったが、泰然自若たいぜんじじゃくと構えた頼もしい行弘に、すべてを委ねようと思った。




 そして、その日が来た。翌朝、食事の支度をしていると玄関のブザーが鳴った。瞬時に頭に浮かんだ訪問者は警察官だった。


 ……目撃情報だけでこんなに早く私達に漕ぎ着くなんて、さすが、日本の警察は優秀だわ。それにしてもこんな時間に来なくても、朝食を済ませた頃を見計らってよ。順子はそんなことを考えながら玄関に急いだ。


 だが、硝子戸越しに見えたのは制帽ではなく、黒いニット帽の後頭部だった。


 ……客の予約時間は午後だ。……誰だろう。


 突然、不安が募り、順子は暗い気持ちになった。


「……どなたですか?」


 恐る恐る出したその声がどれ程の音量だったかは定かではない。その声に顔を向けたのは、眼鏡の奥に暗いひとみを据えた高志だった。


「高志……」


 驚きのあまり、一瞬、気が動転したが、すぐに平静を取り戻すと急いで戸を開けた。ダウンジャケットの高志に安心すると、俯いている高志の顔を見詰め、思わず手を握った。もう一方には真新しい黒いボストンバッグを提げていた。


「さあ、入って」


 先刻まで手袋をしていたと思われる高志の温かい手を握った。


「……すまん」


 詫びる高志の幽かな声が、順子の胸を熱くした。私達を頼ってくれたことが順子は嬉しかった。


「あなたっ! 早く来て」


 軽いボストンバッグを高志から受け取ると、行弘を呼んだ。


「ご飯食べたら、温泉に入ってゆっくりするといいわ」


「ああ。……順子」


「ん?」


「……松田さん」


 高志が何かを言おうとした瞬間、行弘の声がした。カーディガンに腕を通しながらやって来た行弘が目を丸くしていた。高志は行弘を一瞥すると頭を下げた。


「ね、上がって」


 順子はサンダルを脱ぐと、スリッパを揃えた。行弘は順子からボストンバッグを受け取ると食堂に入った。


「……お邪魔します」


 高志は遠慮がちに言うと、靴を脱いだ。


「どうぞ、暖まってください」


 石油ストーブを点けながら、行弘が高志を迎えた。


「まずはお茶を淹れるわね」


 順子は高志に笑顔を向けると、厨房に急いだ。

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