湿気った花火
柳成人(やなぎなるひと)
第1話
あの夏、中学校最後の花火大会の日。
一緒に見に行こう、と一度は交わされたはずの約束は、当日の朝になって急にキャンセルになった。
「ちょっと都合が悪くなって」と理由を述べた後、気まずそうに「お母さんが風邪をひいて」と彼女は付け足した。
連絡を受けた後、魂が抜けたような状態で一人、一日中部屋にこもっていた僕は、夜になって遠くから聞こえてきた花火の音に誘われるように、家を飛び出した。
彼女と一緒に見上げるはずだった花火を、せめてこの目に焼き付けておこうと思いついたのだ。
花火大会に来れなくなった彼女も、もしかしたらどこかからこの花火を見上げているかもしれない。離れていたとしても、僕は彼女と一緒に花火を見たかった。次に会った時に、彼女も同じ気持ちだったと確認できれば、せめてこの虚しさも救われるかもしれないと。
そうして次々と夜空を彩る花々を遠くから見守っている内に、会場に行こう、と不意に思った。
僕達が一緒に歩くはずだった出店が立ち並ぶ様子を、ごった返す人並みを、真下から見上げる花火を、この目に焼き付けておこう。行けなくなった彼女に、後日花火大会の様子を伝えてやろう。
夜空に広がる光の花に向けて、僕は夢中でペダルを漕いだ。胸を震わす轟音に、急げ急げと急き立てられる気分だった。
後から思い返せば、どうしてそんな行動に出てしまったのか後悔しかない。
そうして辿り着いた会場で――僕は他のクラスメート達と一緒に歩く彼女を見つけてしまった。
あの瞬間、僕の恋は花火と一緒に夏の夜に弾けて消えたのだ。
※ ※ ※
僕達が互いの存在を認めあったのは、夏期講習の会場だった。
同級生のほとんどが学区内の塾に通う中、僕が選んだのはテレビCMでも有名な大手駅前進学予備校の夏期講習だったから、そこにいるのは他の学校の知らないやつばかりのはずだった。
だから教室に菅野明希の姿を見つけた時は、心底驚いた。僕に気づいた彼女は嬉しそうに、
「英治君もここだったんだ。よろしくね」
と笑顔を浮かべた。
僕達は中学一年の時の同級生で、二年に上がってからは別のクラスに別れた事もあり接点はほとんどなかった。僕はサッカー部、明希はバレー部と部活ですら屋内外に分かれていて、たまに廊下や全校集会で目にするといった程度だった。
それでも周囲を知らない人間に囲まれる中で、顔と名前が一致する相手というのはとても心強い存在だった。僕達は当然のように席を並べた。昼休みにはよそよそしく一度別れたものの、買い出しに降りた下のコンビニですぐさまばったり再会。買ったおにぎりやサンドイッチを結局教室で並んで食べてからというもの、翌日からは昼休みも一緒に過ごす事になった。
僕らは相性が良かったのだと思う。明希は二つ上にお兄ちゃんがいて、そのせいか僕が好きな漫画やゲームの話題にも理解を示してくれた。それどころか、むしろ彼女の方が詳しい疑いすらあった。
それまでほとんど交流がなかった分、僕達はいざお互いを知り始めるとコーヒーに垂らしたミルクのように、一気に混ざり合っていくのを感じた。
「帰り、ちょっと寄って行かない?」
少しずつ僕達の溝は狭まり、数日後には明希は僕を誘うようになった。
「帰ると勉強しろってうるさいから、あんまりすぐ帰りたくないんだよね」
「うちも一緒。今塾から帰ったっていうのに勉強しろって頭おかしいよな」
毎日塾の帰りには、近くのカフェチェーンやドーナツ屋で一時間ぐらい時間を潰すのが恒例になった。
僕にとっては塾が終わった後のその時間の方が楽しみになった。僕達は毎度帰りのバスを危うく乗り過ごしそうになるぐらい、夢中でたくさんの話をした。
夏期講習は夏休みの初めからお盆前までの二週間とちょっとという短い期間でしかなかったけど、長く濃密な時間を一緒に過ごした事で、僕は彼女に強く惹かれるようになっていた。
「明希ちゃんって、前に四組の丹野と噂になってなかったっけ?」
「ないない。それ勝手に噂されてたやつでしょ。英治君こそ、去年のバレンタインに洋子ちゃんからチョコ貰ってなかった?」
「あー浜田ね。だからって浜田と付き合うとかないでしょ」
当時から綺麗目な女子として評判だった明希は何度か噂になる事はあったけれど、具体的に付き合ったりした経験はなかったようだった。特に、誰か気になる相手がいるというわけでもなかったらしい。
閉じ込められた部屋で目隠ししたまま脱出路を探り合うようなやり取りを幾度も重ねた。得られた断片的な情報から、相手の心が向いている方向を推測していった。
「今年の花火大会は、誰か友達と行くの?」
「ううん、まだ決めてない。だってずっと塾だったし。英治君は誠君達と行くの?」
「いや、まだ全然決めてない」
「中学校最後の花火だもんね。寂しいなあ」
情報戦によって得られる結果は、ことごとく僕にとって都合の良いものばかりだった。
明希が僕を好きだなんて確定的な自信までは持てないものの、少なくとも好意的に感じてくれてる事は間違いなかった。
僕が知る限り、この時点で明希に一番近い男子が僕である事はほぼ確実だと思えた。
だから夏期講習の最終日に僕は勇気を出して言ったのだ。
「じゃあさ、花火大会、一緒に行かない?」
「うん。いいよ」
即答した彼女の顔に浮かんでいたひまわりのような笑顔は、僕の見間違いだったのか。
あれから15年が経った今となっても、答えは出ていない。
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