第34話

 まるで息の根が止まったかのように確かに莢子は倒れたが、運の良いことに気を失っただけだった。意識を引き上げてくれたのは、強い揺れだった。

 感覚もまたゆっくりと目覚めていく。「姫様っ」との音を、女性の声だと識別できた。身に受ける揺れをも感知する。突如、彼女は目を開けた。

「っ。」

 息を呑みつつも、状況を把握し始める頭。現状と繋がろうとする記憶。

「姫様っ。」

 もう一度声がした、いや、あらゆる音の内の一つを識別した。それは、先輩の声だった。

 彼女は王の行動から、別人の皮を被った莢子のことを、自分が仕えるべき姫だとちゃんと分かっていた。大女の指示に従った直ぐに、右女は男達の後を追うようにして、いちくうの屋根へと飛び上がった。

 ところが、辺りに姫の姿はなかった。陸のように広がる屋根と、中央の塔、そこから伸びる天空の。先輩は視線を走らせて、細い道の突き当り、至天閣してんかくに目を留めた。

 けれど、確かめに行くにも、至天閣は空中に浮かぶ空間。ここから二百メートルは上空だ。彼女ではこの高さを越える糸を上には飛ばせなかったから、一足飛びには着けなかった。そこで彼女はもう一度、天空の路の方に目を向けた。

 天領閣の中央には、風雅の間が尖塔のように飛び抜けて建っている。それは他の室よりも二倍の高さがあるからだ。右女はそちらへと走った。

 途端、「一騎打ちである」との玉声が叩くように届いた。姫を探しているだけの彼女には関係のない命令だったが、その恐ろしさに思わず膝が折れた。彼女もまた頭を伏せて拝したが、立ち上がると、再び風雅の塔を尚も目指した。

 上空へと伸びる壁に糸を張り付けて登ることで、一足では届かぬ高さを克服する。外側から天空の路に降り立つと、果敢にも至天閣へと至ったのであった。

 右女の女主人である莢子が意識を取り戻してくれて、彼女は安堵の息を吐いた。だが、次の瞬間、先に安否を確認してしまった自分の判断を後悔した。その一方で、主人が動かせない状況なのかどうかを、まず確認することは必要だったとも言い訳した。

 それは右女の介助の下、覚醒した莢子が自らゆっくりと半身を起した直後だった。凄まじい轟きが、辺りを襲った。

「キャアッ。」

反射的に上がった悲鳴は莢子のものだ。

 一刻も早く天空領に下りておけば良かったと悔やむ右女が、主人の身を庇った。彼女はその腕の中に覆われながら、起こしたばかりの身を伏せた。

 バリバリと、何かが崩れる音がする。遠く、下からは人々の悲鳴。一体何が起きているというのだろうか。

 残響が辺りに渡っていくのを感じ、身の危険から莢子は庇護から抜け出てでも、周囲を確認せずにはおられなかった。音の発生源を追って、それは前方だったから、先輩の体を押しのけて這い出たばかりの恰好で、目を向けた。

 ああっ。

 以前なら、そこには一階層下の屋根、つまり天領閣の美しい黒瓦屋根が見えていた。あろうことか、それが無残にも崩壊していたのである。

 離れた先には、尚も辺りに構わず激しく闘っている、二つの巨大な影がある。それらは白夜に似た明るい夜空の中、月光に照らされて美しく浮かび上がっている。そう、これほどの明るい月夜でなかったなら、黒い瓦屋根が壊れていたとて、直ぐにそうとは分からなかっただろう。

 蜘蛛と蛇。彼らは攻防を繰り広げながら、御殿の屋根を移動している。

 蜘蛛の巨体は数十メートルあるだろう。足の長さまで入れれば、30m以上はあるに違いない。同じく蛇も同じくらいの全長がありそうだ。莢子の世界で同じサイズの蜘蛛がいた場合、その体重は数十トン軽く超えるはず。それではあの細い足で自重を支えきれず、潰れてしまうに違いない。

 一方蛇なら、どれだけ巨大化しようとも、自重を支えられないということはないかもしれない。だが、巨大化に比例して動きが鈍くなるものだ。

 けれど今、その二体はどちらも現実にはあり得ない力と動きを見せている。それはこの世界が何か不思議な力によって生成され、維持されている空間であり、化怪ばけである彼らの特殊な性質が、不可能を可能にしていたに違いない。

 実際、蜘蛛の巨体が数十メートルあろうとも、目方で言えば驚くほどに軽いのがその証拠だ。人間の巨漢が一体分ほどしかないのである。そこで、蜘蛛がいくら素早く屋根の上を移動しようとも、屋形に揺れをもたらすものではなかった。

 一方、蛇の方は蜘蛛と似たような全長だったが、その重さは比べて四、五倍はあった。とは言え、それは煙に身をやつす生前のこと。彼の肉体は燃え尽き、今は思念体のようなものである。だからこそ、現実なら一トン近くあるはずの蛇も、今は思念体の重みしかなく、恐怖を伴うこの振動の原因にすらなっていなかった。例え、生前であったとしても、その移動方法は這うような動きであったので、同様だったことだろう。

 では、屋形が千切れるのではないかという程の、この振動をもたらしたものは何だったのか。それは、巨大な二体が繰り広げる攻防の力。これらは当然の結果として、屋形の崩壊をもたらしていた。

 今はの端から、つまり莢子の寝所の上から、天空領に差しかかりつつ戦っている。手加減を全く知らない彼らは、美しい御殿を行く先々で崩壊させても、微塵も構わないようだ。

 彼らが攻め合う度に起こる振動、それが波のように上層から下層へと伝わり、御殿全体を揺らしている。この柱の一つもなくて重なっている不思議な造りにもかかわらず、それが逆に原因なのかもしれなかったが、下に行けば行くほど、振幅が大きくなっていく。

 伝わる内に上下の揺れが食い違い、上層と下層の端とがぶつかり合う。御領ごりょうと下界の境目辺りにそれは顕著で、しかし、更に下がってしまえば、揺れの力はようやく外へと逃げていくようだ。

 莢子は破壊がもたらす甚だしい波を体験し、自分のいる場所がよくも保っていたものだと、生きた心地が少しもしない。

「姫様、ここは危のうございます。」

直接的な被害に合わないように、先輩は一刻も早く姫を連れて下に避難したいらしい。

「さ、こちらへ。」

 ところが、右女が促したのは、天空の路とは逆の方向だった。

 先輩。ずっとその身を心配していた。彼女が無事で、目の前に現れたことが、ただ嬉しい。この状況下では彼女の存在が一層心強い。だが、莢子は招かれた方向に誘われるまま従っても、その先には何も無いと恐れてしまった。

 先輩は姫の腰に一方の腕を回して、ピタリと寄り添ってくる。一体、どうする気なのか。……まさか。

 嫌な予感がした。まさか、先輩も。彼女の頭の中には、一の大路を渡った際の、王のことが思い出されていた。彼女はまだ理解し切れていないのだ。

 先輩は庇うように莢子を連れて、主眼しゅがんの端に寄る。何という抗えない力だろうか。右女は空いている片方の手で欄干を掴み、至天閣を踏み切った、その拍子。蜘蛛と蛇との戦い、その作用が再び御殿を大きく揺ぶった。

「きャッ」

胸が詰まって、悲鳴も詰まる。

 莢子が叫んだのは、空中に飛び出してしまうと恐れたからか、それとも右手に欄干、左手に彼女を手にしていた先輩の体勢が崩れたからか。

 刹那、強い衝撃が莢子の体を背後に飛ばした。仰向いて倒れていく彼女の視界に、欄干にぶつかって落ちていく先輩が見えた。

 離れ行く互い。垂直と並行、互いは対照的な放物線を描きながら落ちて行く。投げ出された先輩は、莢子を安全な場所に投げ飛ばした直後、その作用によって身が半回転した。だから、横っ腹を欄干に強かに打ち付け、その弾みによって外へ投げ出され、落ちてしまったのである。

 突如、流れてきた揺れが、右女の手元を狂わせた。踏み切った直後、まだ手が屋形に触れていたからこそ、振動に作用されてしまったのだ。

 ところが、莢子の体が至天閣の床、つまり畳の上に仰向けにぶつかる直前、バチンというような高い音、そして、ドゴンッというような鈍い音が立った。かと思うや、至天閣がこれまでにないほど、激しく揺れた。いや、屋形全体が異様に揺さぶられた。天空の路もまた、左に大きく揺さぶられたかと思うや、嫌な音を立てた。

 この揺れで、彼女は弄ばれる球のように、もう一度跳ね上がった。それでも着地と揺れとが旨い具合に重なったお陰で、トランポリンで弾むように、身に受ける衝撃が上手く吸収されていた。そうでなかったら、彼女の骨は砕けていたことだろう。

 一方、空中へと投げ出された右女は、幸運にも既に糸を張り付けていたお陰で、下層への落下を免れていた。ただ、脇腹の痛みと、二度目の激しい揺れとが彼女の行動を遅らせていた。

 この幾らかの間が、莢子と右女との距離を大きくしてしまった。二度目の揺れの後、只の人間である莢子には、更に恐ろしいことが降りかかろうとしていた。

 いちかこいの端で戦っていたはずの二体、一度目の揺れが起こる直前、激しい力で相打ちが起こった。

 一匹は天領閣から天空領に弾き飛ばされ、一匹は傾斜を描いて風雅の間へと吹き上がって行った。

 蛇に肉体がないことを、勿論、蜘蛛は承知している。そこで今、彼らが何で戦っているのかと言えば、物体からもたらされる力ではなく、精神力から、彼ら風に言えば、妖力からもたらされる力で戦っていた。

 その力は物質にも等しく影響を及ぼし、蜘蛛の肉体も、蛇の思念体も、生まれた反発力によって吹き飛ばされてしまった。

 初めに階下、天空領―—くうから、水音を含んだような激しい崩壊音が立った。その直後、風雅の間である塔の上部に、別の一体が激突した。

 それは、蛇の皇子だった。不運なことに、それが蛇の姿をした彼であったから、長い体は六角の塔に背面からぶつかると、まずは建物に沿うようにJの字を描いた。それから、頭部が塔の上部から向こう側へとまだ吹き飛んで、体は二つ折りの状態となった。屋形の中心部への蛇の衝突、これが二度目の酷い揺れの原因だった。

 折れた体の下端、つまり尾の方は、衝撃による運動エネルギーを尚抱え、頭のように塔からはみ出して、こちらも奥へと吹き飛ぶような様子を見せた。この衝突の威力から、蛇の体の中心から下は、風雅の間の上部にめり込んでいた。

 実際の肉体はなかったが、思念体は一つの塊として力を発し、物体同士で反発していた。煙の時なら衝撃など受けなかったが、思念体である今は、蜘蛛の体もまた物体を擦り抜けることが出来なかった。

 この衝突が、屋形の核を突いた。それは屋形の上から下にまで影響を及ぼした。あたかも吊るし雛の根元を揺すったかのように、が揺れたのだ。

 細長い、しかも何によって支えられているのかも、莢子には分からない天空の路。この衝撃は、一筋の路に横方向の負荷を急激に与えることになった。それこそ蛇の胴体のように、路が一方向へと大きくしなったのである。

 その瞬間、路に付いていた何か、やはり支えなのである、それがブツリと切れた気がした。そして、圧力が最も高まった中央付近が二カ所、耐え切れずバギャリと折れた。それでもまだ、片側だけにある壁によって支えられたように、極緩やかなNの字に折れながらも互いは繋がっていた。

 蛇は吹き飛ばされた勢いが緩むと、六角の塔にめり込んでいた体勢も緩んだ。建物の上部は、衝突とは反対側の一部を残して滅茶苦茶だ。外側に倒れた蛇の頭は、一度、壊れて開いた塔の内部に崩れ垂れた。だが、外に出ていた体の方が長かったので、その重みに引きずられて、全身が外部へと、ダラリと滑り落ちて行った。

 瓦礫と共に天領閣の屋根に衝突する。その衝撃が今度は縦揺れを引き起こした。けれども、思念体が落ちただけだったので、また、蜘蛛より受けた妖力の衝撃が逃げた後だったので、先程よりも格段に小さな力、屋形全体を揺らすには到底至らないものだった。

 それでも、蛇の妖力の大きさ、つまり、思念体の強さが重みとなり、揺れを生じさせた。それは比べて小さかったにも拘らず、御殿が吊り下がっているという造りの為に、打ち寄せる波のように徐々に高まってしまった。

 下に向かって掛けられた力は反動を起こして、直近の天空の路に伝わったので、下から吹き上げられたかのように、それは持ち上がる。緩やかなNの字で繋がっていた折れ目がきつくなり、まず一カ所、至天閣側の路がはっきりと切れた。その衝撃を更に受け、残る路が自らの重みによって今度は下へと返れば、残りの二カ所もまた完全に断たれてしまった。

 風雅の間に繋がっていた側の、天空の路が傾いた。前にのめるように、至天閣の方へと落ちていく。

 その加重は、風雅の間との接点となっていた壁に負担を掛けた。そちら側は蛇の激突から逃れ、何とか残っていた。にもかかわらず、メキベキと音を立てながら、下に向かって落ちていく。力点の位置が下がれば、支点の負担は増していく。風雅の間の壁上部はベキャリと割れ、路の三分の一は落ちた。

 天空の路と、それに繋がっている至天閣を襲った、これら二つの揺れ。

 右女は人間への手加減をまだよく知らなかったので、一つ目の揺れの時、莢子の体を思うより投げ飛ばしており、旨く天空の路の少し奥へと迫らせた程だった。

 そこに、二度目の横揺れが襲った。弾んだ彼女は、だが、見事に天空の路の中央へ向かって離れていった。ただもう運が良かったとしか言いようがない。飛ばされたのがそちら側でなかったなら、多分、至天閣から投げ出されていたことだろう。

 幸運を呼んだのは、右女が左脇に彼女を抱えていたことだった。その為、放り投げられた莢子は、そちら側からの力によって飛ばされていた。ところが、今度はその左側からの横揺れによって弾んだ為に、莢子に掛かる力が相殺され、路に残れたのである。だからこそ、蛇の皇子が最終的に天領閣へと落下した時、莢子は天空の路の中にいた。

 だが、果たして運が良かったと言い切れるのだろうか。折れたけれども、何の接点も見えないように、尚それぞれ空中に残った二カ所の路は、元の位置から大きく外れ、あらぬ方向を指して止まっていた。縦揺れを受けた莢子もまた、暴れ馬に乗ったように上下したが、ようやく路の欄干にぶつかって体が止まった。

 右女もここに至り、糸に摑まって揺さぶられているしかなかった体勢を、ようやく整えることが出来た。糸を遡って至天閣へと急ぎ戻る。けれど、そこに投げたはずの姫の姿はなかった。

 脇腹が痛むのを二の次に、右女は主人を探して至天閣の右の端に駆け寄ると、そこから見下ろした。けれど、主人が見当たらないので、今度は左の端から見下ろした。その頃、すっかり蒼褪め切った莢子が、元は路の道の中央だった場所で、のっそりと身を起こそうとしているところだった。

 激しい動悸。頭は真っ白で、到底この事態についていけるはずもない。体はやはり震えており、儘ならない。何度か激しくぶつかった気がしたが、興奮しているせいだろうか、痛みが分からない。それでも、固くなった体を重たげに動かした。

 状況を確認しようと前方を見、ドクリッ。恐怖が身を貫いた。そこにあるべきはずの路が、続いていなかった。

 有り得ない光景、予想外。路が切れている。左右を見、上を向く。朝に向かうような明るい夜空、天から差す光。

 気が動転している莢子は、あっと言う間に夜の美しさに魅了されてしまった。放心したように眺め、月の光が神秘的に染め変えた、崩壊の夜に酔った。

 彼女には位置的にも見えるはずがなかった。天空領に落ちた蜘蛛が、四の至の崩れた端から這い上がってきた姿が。それを察した蛇が、倒れていた身を転じて煙となり、目掛けて吹っ飛んで行った瞬間も。

 煙の先頭から、再び蛇の頭が現われてくる。竜のような白蛇が、蜘蛛に襲い掛かる。

 燃ゆる惑星のような蜘蛛は、口から糸の網を放った。だが、蛇は瞬時に煙となって、これから逃れた。網を越した煙は、先頭から再び蛇を形成した。飛ぶ勢いはまだ衰えていない。二つの鋭い牙を晒して口を開けると、そこから毒液を噴射した。勿論、実体のない蛇が出したのは、妖力によって具現化したものだ。

 蜘蛛はもう一度口から糸を放って、これに抗す。放たれたのは網ではなく、膜だった。毒液は幕を溶かしたが、勢いを防がれて落ちていく。だが、毒液は蜘蛛の一手をとどめるには十分だ。融けた網が落ちていく。代わりに現れるのは、大口を開けた蛇。

 身を引く蜘蛛。同時に鋭く長い鎌のような足を振り上げる。脇から串刺しにしてやるつもりだ。けれど、間に合わない。別の足で蛇の牙を防いだ。二体は激突すると、そのまま再び一の空へと飛ばされた。

 ドゴンッという激しい衝突音。月光夜の綺麗な雰囲気に見とれていた莢子は、我に返った。前方の端から、カタカタと鳴る瓦の音が徐々にこちらへと伝わってくる。それが到達した、と思ったら、何かによって空中に吊り下がっているだけの路が、また大きく揺れた。

「アッ。」

 ペタリと両脛を着けて座り込んでいた体が、簡単に弄ばれる。引き倒されるように背後に倒れた莢子は、無意識かのように、咄嗟に欄干を掴んだ。

 同じ時、右女は天空領の屋根に降りて、姫を探していた。至天閣に留まっていたならば、彼女の声が聞こえたかもしれない。だが、互いは既に二百メートルほど離れていたので、右女は莢子が上げた、息を呑むような短い悲鳴を捉えることが出来ず、自身もまた揺れに耐える為、糸を屋根に貼り付けて体を固定していた。

 揺れの最大値が過ぎると、彼女は徐々に立ち上がれるようになってきた。莢子もまた、振動が去っていくのを感じ始めていた。だが、平衡感覚が路の異変を知らせていた。少しだけ、傾いている。

 彼女は顔を持ち上げ、途切れた路の先に目を向けた。路は、風雅の間がある塔に向かって、少しだけ下がっていた。

「っ。」

 息を呑んだのは、傾きの原因が見えたからではない。それまでにはなかったものが、白んだ空に見えたからだ。

 深縹(こきはなだ)色の空の中、散りばめた宝石のように浮かび上がっているものが塔を越え、遠くに見える。キラキラと白く輝く星のようなものと、水飴のように滑らかな筋のようなものだ。その筋は静かに、吹き上がった高さを下ろしているところだった。だから、莢子はそれを、噴水の放出が終わっていくようだと思った。

 一拍を置いて、彼女の表情が移ろい出した。外側へと広がっていく表情筋。驚愕と発覚を表している。彼女には思い当たることがあった。自室として使わせてもらっていた四の至、その下にある場所と言ったら……。

 水の棚っ。

 まさか、水の棚が、壊れているっ。

 莢子は愕然とした。あの美しい水の庭、魚もいた、綺麗に保たれていた。しかもそれは、王が彼女の為にと思いを込めて、造ってくれたと聞いた、あの庭だった。

 それが何の配慮もなく、無残に壊されていっている。彼女は急激な悲壮感に襲われ、声を漏らしながら顔を歪めた。

(この御殿さえ、私に見せたいと、言ってくれたものだったに……。)

 僅か数日、されど遥かな思い出のよう。

(十分な大きさだと言った時、安心したように、「そうか」、って…。)

そう言ったはず。なのに、その王の想いが、全て崩れ落ちてしまう。彼の気持ちが、壊れていく。

「止めて、よっ」

口にしても、とても届きはしない。前方からは、巨大なものが作用し合っている音が断続的に響いている。終わらないのは崩壊音も同じだ。

 水の棚のみならず、天空領の半分程と、その上にあった天領閣を打ち壊した後、二体の化怪物(ばけもの)は壊れた四の至を突き抜けて、天領閣の屋根に戻った。

 何かが壊れる度、僅かに遅れて路が揺れる。縦に、横に揺れながら、莢子の心は恐怖と共に、ジクジクと痛んでいった。心痛が増す度に、非難したい気持ちが湧いてきて、強くなる。王の気持ちが壊される度、を責めたい感情に駆り立てられた。

 けれど、風雅の間の残った部分が障害となって、彼女には詳細が分からない。自分が使わせてもらっていた場所さえ、見るも無残に倒壊しているのを見れば、どれほど衝撃は大きかったことだろう。

 それでも、天領閣に上がった巨大なものらの一部が、風雅の間の壊れた部分から覗いた瞬間、感情が爆発した。訴えずにはおられなかった。 

「もう止めてっ。」

これ以上、壊れる音を聞きたくないっ。でも、思ったより声が出ない。これじゃ、届かない。

「もう、止めなさいよーーーーーっっ。」

喉が痛む程、精一杯怒鳴りつけた。

 姫の叫びに、風雅の塔を上っていた先輩は立ち止まった。彼女は正に天空の路に当たりを付けていたところだった。折れて塔にぶら下がっている方は、下から、つまり天領閣の屋根の上から確認済みである。

 残るは、未だ空中に釣り下がっている二つの、至天閣が連結していない路だけだった。右女はそちらを確認せずに降りてしまったことを、またも後悔していた。散々に折れて宙吊りになってしまった今となっては、届くかも分からない。

 だが、莢子の怒声を聞きつけたのは、彼女だけではなかった。莢子の心からの声は、何と言うことだろう、戦いだけに集中していたはずの蜘蛛に、確かに届いたのである。

 命を懸けている最中だと言うのに、彼は一瞬でその声に意識を捕らえられてしまった。それこそ縛られてしまったかのようになり、それは痛恨の隙となってしまった。

 蛇が見逃すはずがない。一瞬の内に回転し、しならせた尻尾で力の限り相手を叩きつけた。力んだ際、白い胴体から煙が吹き出た。それは身を失くした彼の、血の代わりに存在を維持する妖力だ。煙もまた、渾身の力を振り絞っていた。

 吹き飛ばされていく蜘蛛の巨体。莢子は見た。彗星のように飛び込んでくる、燃ゆる惑星を。

 それは群青の空に赤い線を引きながら、蛇の仕返しとばかりに風雅の間に叩きつけられた。驚愕に見開いていたはずの彼女の目は、衝突の瞬間、その激しさを想像して、ギュッと閉じられた。

 凄まじい激突音は、目前で起きたから。天領閣の中心である風雅の間は、けれど、御殿全体から見たときの中核ではなかった。それは中核から上方にあった。けれども、中心であることには変わりなく、また直に上下で核と繋がっていたからこそ、屋形は再び巨大な揺れに見舞われた。

 初めの振動は、それでも大きくはなかっただろう。だが、その大きくはない揺れが御殿の端へと伝達する度に、振動幅を大きくしていく。それが更に打ち返ってきて、中心へと戻ってくる。

 それでも、端に比べれば振動域が狭い分、揺れも小さく抑えられていたはずなのだ。ところが、天空の路への影響は、範疇外だった。何故なら、その路だけは他と切り離されたように独立しており、微細だ。その上、今は中心からも立ち切れており、宙吊りの状態だった。にも拘らず、御殿と見えない何かで繋がっていた。更に悪いことに、蜘蛛にぶつかった塔の残骸が折れて、莢子側に倒れてきた。

 莢子の居た路は、様々な要因により、狂ったように揺さぶらていた。暴れ馬のように上下しながらも、左へ、右へと振り回される。中にいた彼女は只の物体だ。弾力のある人形が弄ばれているだけ。

 欄干を掴んだままにしておいて良かった。初期の振動が伝わった際、咄嗟に欄干へと身を寄せて、路と一体になるように体を縮めた。

 それでも塔が路を掠めるように揺れた衝撃で、体が持っていかれそうになった。何かを察した彼女は咄嗟に欄干に足まで絡め、飛んでしまわないようにしがみついた。

 揺れに合わせて、肩や頭が欄干に激しくぶつかる。それを感じつつも、死の恐怖が勝って身を凌駕する。

 その時にはもう、路は支えの一つを更に失ったかのように、傾き始めていた。少しずつ軽くなってきた揺れに合わせて、体がジグザグと揺れている。その動きの中に、徐々にある一方へと引き込まれて行く力が加わり始めた。

 心臓さえも固くなったような、それでも激しい動悸により、息も出来ない状況。それなのに追い打ちをかけて、無い息が詰まっていく。ゾッとする危機感に呑み込まれる。莢子は傾いていく路の中から、滑り落ちようとし始めた。そう、路は最後の均衡力を失い、直ぐにも落下せんばかりとなったのだ。

 塔の壁と繋がってぶら下がっていた方の路は、蜘蛛の衝突により総崩れとなって、屋根と塔に挟まれて潰れていた。至天閣と繋がっていた空中の路もまた、同じ末路を描くように、莢子の背後で墜落していった。

 彼女の体はもう、揺れてはいなかった。ただ、足元から強い力で引っ張られていくのみだ。傾いてはいるが、まだ大丈夫だ。欄干をまだ掴んでいられる。床の上を滑る腹。上質な衣は摩擦力を抑え、彼女を下に運び易くしている。

 助けてっ。助けてっ。

 一心に願ったが、その声にならない叫びは、誰の許にも届かない。唯一、彼女を救わんと懸命に動いていた右女の姿がどこにも見えない。彼女は風雅の塔を外側から上っていたのではなかったか。

 塔は今、そのほとんどの壁を打ち壊され、すっかり内部が露になっている。その囲いの中に囚われたように、一回り小さい巨大な蜘蛛が、ぐったりとはまり込んでいる。

 最早欄干に吊り下がっている莢子。ところが突然、彼女の体がピタリと留まった。願いが叶ったのだろうか。

 いや、そうではない。彼女は直感した。落ちるっ。彼女は分かっていた。ことは終わっていない、と。が出来ただけに過ぎないのだ。落ちるのは莢子だけではない。路諸共、つまり、莢子を乗せた路自体が、プツリと急降下し始めたのだ。

 エレベーターが動いても、中にいる人間は停止しているのと、同じ原理が起こった。路が落下し始めたので、その上に居て、その床に接着していた莢子の体は、一瞬留まったように感じられた。

 我が身がどうなるのか、予想がつくようでつかない。ついても、つかなくても、ただ恐ろしい。映画でよく見るエレベーターの落下シーン。中にいた人は、どうなったっけ。

 ゆっくりと過ぎていくような感覚の中で思い出す。床に激突した箱は潰れて、その後、映画らしく派手な演出が加えられて、大爆発が起こる。中にいた人は、結局死ぬ。

 爆発はしないだろうが、路が潰れることは高い確率で起こり得るかもしれない。目の前が真っ暗だ。だが、落下した路はその前から一方に傾いていたため、両端で上下の差が出来ていた。その為、最初に屋根と接触したのは、欄干に吊り下がる莢子の足側の方だった。

 ドガッ、バキバキという嫌な音が発生すると共に、衝突の衝撃が上方へと駆け抜けた。その衝撃は、床と莢子の体を分離させ、彼女を浮かび上がらせた。亀裂が走るように速やかに上る破壊は、もう直ぐ彼女が掴む欄干にも届くだろう。

 路は垂直にではなく、斜めから天領閣の屋根に突き刺さった。そして、勢いのまま互いに形を崩し合って、端から粉々に交わっていった。三分の一に折れても、まだ長さのある路。上方の端は垂直方向に強くしなった。

 この時、逆側が深く屋根に突き刺さってしまっていたので、それを支点にして、テコの原理が働いていた。交わった天領閣の屋根を持ち上げようとする力が働いたのだ。しかし、軽い路では力が足りず、だからと言って、路の方も崩壊しながら屋根と交わってしまっているので、そこからすっぽ抜ける様子がなかった。だから、路が大きくしなることになったのだ。

 その力が最も掛った中間部分が、耐え切れなくなりバギャッと裂けてしまった。上方は二つ折りに落下し、屋根にぶつかる。砕ける瓦。路は逆Vの字を描いて、遂に止まった。

 割れた木から埃が立ち、辺りに舞っている。激突音の余韻も周囲に残っている。莢子はどうしたのだろう。どこかに打ち付けられ、あるいは潰されて、生きてはいないのだろうか。

 彼女は突き刺さった路の先、天領閣の瓦屋根の上にいた。逆様の状態で体を内に丸め、横たわっている。後ろで一つに纏めていた紐が切れたのだろう。乱れた長い黒髪が、瓦礫に広がっている。

 だが、彼女は生きていた。ハッと、見開いた目。彼女は強運に見舞われ、驚くことに打撲だけで済んでいた。何故か。

 突き刺さった路が斜めであったことが、この奇跡の生還の要因の一つだ。路が屋根とぶつかり、落下の動きが止まったあの時。下に向いていた力が突然上に反発した。すると、床に貼り付いていた莢子の体が、その影響で上に飛び跳ねた。

 放り投げられるように浮かび、欄干から手が離れてしまうかと思ったが、何とか片手だけ外れずに済み、そこを起点として再び彼女だけが落下した。それでも激突とまではいかなかったのは、路が斜めであったからである。

 この惨状にあって、その衝突は軽度と言えた。彼女は一度上に弾んで、けれど、床が傾いていたからこそ、着地した衝撃で残っていた手も欄干から外れてしまったものの、体は滑り台から下りるように、綺麗に滑り落ちていった。

 けれど、外民の服であろうと上質な糸で出来ていたものだったので、摩擦が減り、勢い良く滑ってしまった。あっという間に加速し、けれど、足に置いて行かれた上半身が反り返るように浮き上がった。そのまま前方に回転しかけたが、その前にドンッと、再び床に接地した。

 滑りの勢いに追いつけず、祝宴用に着た袴の裾と袿の布が遅れてまくれ上がり、風に煽られたように一部が空へと翻った。一瞬、白い脚があらわになり、絹の衣が背後へなびく中で、彼女は無抵抗のまま、斜面を滑り落ちていった。

 滑らかな斜面を足から滑り落ちた彼女の体は、ほとんど抵抗を受けずに加速し、ついに落下地点へと差しかかった。

 破壊によりV字に窪んだ着地面の片側には、今にも崩れそうな瓦屋根の残骸が積もっていた。絹の衣の裾が舞い上がる中、彼女の脚が落下地点に触れた。対面が壊れた瓦屋根だったので、その摩擦力は大きく、落下による加速度と強く反発した。その力が彼女の身を凌いだので、膝は反射的に屈伸し、次いで体が前方に弾き飛ばされた。

 衣がフワッと浮き上がる。それから前転しながら屋根に叩き付けられた。

 莢子は宙に浮かんだ瞬間、反射的に頭を丸め、背を丸めた。次の瞬間、肩甲骨の辺りを強かに瓦礫へと打ちつけた。鋭く散った破片が散乱する場所に。だが、外民に与えられた衣は驚くほど丈夫だった。それは彼女の身を、破片による裂傷から守った。

 屋形にあるほぼ全ての繊維、御領内の全ての繊維、莢子の身の回りを彩った全ての繊維、それは実のところ、蜘蛛の妖の糸で織られたものだったのである。絹のように上質で、だが、ゴムのように柔らかく、そして、鋼のように強い。

 砕けた瓦が絹衣に突き刺さったが、衣は少しも破れなかった。だが、打撲は別だ。背に広がる鈍い痛みが、後に深い青を刻むだろう。

 背中を打ち付けた際、肺を強打し、息が止まった。散々浴びた恐怖と衝撃で、そのまま彼女は意識を欠いた。けれど、ほんの暫くで目が覚めた。

 気が付けば、上下がひっくり返ったような姿で、瓦礫の上に寝そべっていた。痛む体を強いてゆっくりとずり起きれば、全身のそこかしこが痛むようだった。それでも、祝宴用の衣は袖も裾も長く、丈夫な着物が功を奏して、驚くことに、切り傷の一つもなかった。

 ただ、露わとなっていた頬や手は、砕けた屋根の破片か木片で切ったのだろう、所々小さく裂けていた。それでも不思議なことに、血は出ていなかった。裂けたのは、茜の皮だったからである。

 茜の顔をした莢子は、理性を取り戻したように、周りが理解できるようになってきた。すると、自分が置かれている状況に息を呑んだ。気付けば体が震えていた。

 月が差す世界は明るく、まるで希望の朝焼けの中にいるようだ。とても静かで、神秘的でさえある。だが、周囲は戦場だ。激しい竜巻が過ぎた後の、無残な有様のようではないか。

 ほとんどのものが破壊され、一見、真っ直ぐなものがない。あれほど整然としていた美しい姿が、混沌と化していた。

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