短篇集だなんていやそんな大層なものではないんです。ええ、本当に。

南 ヱ斗

晨風一過



 ───ゃあ、今日もハッ──に生─よっ!!



 ポジティブすぎる絶叫にすいを撃退されたはるは、反撃に盛大な欠伸をしてベッドから這い出る。



「隣人だか知らんけど朝っぱらから近所迷惑やて‥‥」引越しの挨拶も済まんうちからまだ見ぬ隣人に愚痴ってしもうた。


 ふと、ベッドの真向かい、アナログ式の壁掛け時計を見る。短針が真下を指し、長針が真上12を指している。


 早朝。


「6時て‥‥」


 〝───ガキのうちから怠けんの。はようお天道てんとさんに挨拶してき!〟



「‥あい‥‥」


 見計らったように脳内再生リフレインするしゃがれた声に押され、寝室を後にする。


 リビングのそこかしこに散乱している段ボールを足で退けながら小春はベランダに向かう。カーテンごと窓を開けると、しゃっからりと小気味よい音。朝日が部屋にしこみ、都会のしんぷう䬟䬟りゅうりゅうと小春の頬をなぜる。


「母さん、父さん、おはよう」ベランダからの街並みはオフィスビルに高層マンション、その隙間をうように走る高層道路やらでまるで地平線が見えへん。


 最近の日課。


 ───ここはあっこやない。そう言い聞かせてる。こうやって毎朝毎晩、窓からの景色を目に刻みつけて。


「‥‥‥‥こんなに女々しいのは、やっぱりばぁちゃんの所為やで」


『おれの苦労の半分は婆ちゃんのネーミングセンスの所為せいや思うねん。〝黒咲くろさきはる〟やなんて、大正の女流作家みたいやん』


『せやろか? うちは好きやで。小春って呼んでると心があったかくならん?』

『ハル、聞こえてんでー。さりげなくお袋ディスったやろ』


 ───不意に聞こえたやわらかな声に、つきりと息が詰まる。母ちゃん父ちゃんと話した色んなこと。おれにとって宝物や。


 ───ヤ、誰にとってもやな。



「ほんま全部やったんやなあ」



 これから過ごすであろう四倍、五倍の時間、それに倍する密度の人生未来よりも大事だと想いさだめてしまえるほどの思い出が、愛情ぬくもりが、この十六年間にはあったのだ。


 ───こうなってまうまで、気づけんかった。



「‥‥‥顔洗お」こんな顔しとったら、母ちゃんに頬つねられて、婆ちゃんから小言もらう羽目になる。笑い上戸の父ちゃんはそれ見て大爆笑やろな。



 〝あほ。教えたやろ?〟



 〝泣きたいときは下見んと、 顔あげてお天道さんに笑いかけんねんて〟



 〝そしたら涙越しのお天道さんが腹立つくらいキラッキラに輝きはるから〟



 〝今度やってみ〟



「───」


 右の頬がひりついた気がして、思わずさする。


 錯覚気のせいや。でも、心がぬくうなる。


 ああ、これだけでええ。


 充分、ひとりで生きてける。


 悲しみも、苦しみも、寂しさも、人と触れおうて、思い出を積み重ねることでうすまんねんやろ。そんなら、このままでええよ。



 悲しい。苦しい。寂しい。



 やけど、そのおかげで忘れんとおれるんや。このままでええんや。



「親不孝モンやな、おれ」



 春のうらららかな陽の光が射しこむ、しんと冷えた部屋の中。現れたかげぼうが、段ボールと段ボールの間にきゅうくつそうに横たわっていた。




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