Ⅰ 拉致と心配



 付き合うことになったけれど白翔くんは忙しいらしい。


『年度末と学年末が同時に来ているので……』

「そっかそっか。頑張ってね」

『どうしてそんなに聞き分けがよくいらっしゃるのか』

「長所じゃない?」

『俺はもっと我儘言ってもらえた方が嬉しいです……』


 電話越しなのに拗ねている顔が浮かんで笑ってしまった。


「仕事行く前に研究室に顔だけ出そうか?」

『いいんですか?』

「うん、ちょっと話すぐらいしか出来ないと思うけど」

『嬉しいです! 毎日来てください。あなたの顔が見られるなら頑張ろうという気になれます』

「毎日は無理。というか頑張る気すらなかったの……?」


 三月だ。

 私の顔の傷は二週間で完全に治った。今はどこを殴られたのかも分からないほどだ(白翔くんはそれでも会うたびに私の顔を診て「今日も可愛いです」なんて関係のないことを言う)。それでも不眠だけは治らず私はまた日付が変わる時計を見ていた。

 眠れなくなった原因はなにかのストレスだと思うけれど、そうではないのだろうか。痛み止めの点滴を打っている間だけはよく眠れたことを考えると、そういうものに頼るべきなのだろうか。そしたら、もっと楽に生きていけるのだろうか。

 ――痛みも苦しみのない――


「……はあ……」


 会ってもストレスになるし会えなくてもストレスになるんだな、と思いながら私はコートを羽織った。



 ……豚骨と魚介を丁寧に合わせたスープが中太ストレート麺との調和、大将こだわりの叉焼には根強い人気が……ゾクゾクゾク――と急に寒気が襲ってきた。 

 視線をあげるのと、背後から伸びてきた二本の腕が目の前の雑誌の棚を掴んだのは同時だった。


「こんばんは、久留木さん?」


 振り返るまでもなくはっきりと分かる、【なにか】の気配。


「こんな時間になにをしているんですか?」


 コンビニでラーメン特集雑誌を立ち読みしていただけなのに突然消毒液の匂いに包まれた。

 ゾゾゾゾと襲ってくる寒気に身をすくませつつ「こんばんは、えっと、白翔くん」と言うと、「ええ、こんばんは。もうすぐ三時ですね?」と彼は返してくれた。その両腕は私を逃がす気がないらしく、棚を掴み続けている。


「もう一回聞きますけど、こんな時間にこんなところでなにをしているんですか?」


 背後の低い声に額から冷や汗が噴き出してくる。


「ねえ、久留木さん?」

「え、っと……雑誌読んでます……」

「こんな時間に女性ひとりで、部屋着の上にコートだけ着たような無防備な装いで出かけるなんて、よほど火急の用件なのでしょうね?」

「えっ……火急ではないんだけど……」


 耳にその吐息が触れる。


「下着ぐらいちゃんとつけて出てきてください」

「なっえっ⁉ ちょっと、どこ見ているの!」


 その腕の中で振り返ると絶対零度の瞳が私を見下ろした。


「ひっ……」

「それで……久留木さん……俺を納得させられるだけの用件ですか?」


 今日も今日とて真っ黒なモッズコートにゴツいミリタリーブーツを履いた彼がさわやかな笑顔で私に詰め寄ってきた。

 【なにか】がぴたりと私に寄り添って、にこり、と笑っている。

 ぞぞぞと吐き気を伴う悪寒が足から頭まで突き抜ける。どぐん、どぐん、と震える胸をおさえても少しも寒気はおさまらない。私をただ見下ろす氷のような冷たい【なにか】。


 ――そうだった。これが『彼』だ。



「そ、の、……ウェブマネーを買いに……」

「それはこの深夜に必要でしたか? 不要不急の用件じゃないでしょうか?」

「あの、その、母の、息子が、その……五万円分必要だって言うから、その……」

「母の息子ってなんですか。お兄さんですか?」

「後で振り込むって言うから!」


 彼が舌打ちをする。懐かしさと恐怖を覚えた。


「久留木さん。『アカウント乗っ取り、ウェブマネー』で検索してください。数年前の古典的な詐欺が出てきますよ」

「え、詐欺なの⁉ だってすぐ買ってこいって言うんだよ⁉」

「そもそもこの時間に急ぎウェブマネーが必要な人間がいますか? もしそうだとしたらあなたは何故すぐに帰らず雑誌を立ち読みますか?」

「……それは……そんなに怒る話……?」


 彼は私の手から雑誌を奪い、足元に置いておいた生クリームとウイスキーなどが入ったカゴを持つと、ウェブマネーのカードは棚に戻し、レジに向かってしまった。


「ちょっと待って!」

「反省してください」

「反省って……悪いことしたつもりはないんだけど……」

「そんなに拉致されたいんですか、俺に?」

「そんなことする予定あるの? ちょっと待ってよ! それ私の買い物だからっ」

「一括で」

「待ってってば!」


 さくさくと会計を済ませてしまった彼の腕を掴んでも、彼は止まるどころか逆に私の腰を掴んで歩き出してしまった。

 その力強い腕に引きずられるままコンビニを出ると、黒い高級車のトランクに放り込まれてしまった。


「いたっ……」


 高級車はトランクも広いようで私ひとり横になるスペースは余裕だった。


「ちょっと白翔くん……!」


 助手席ではなくトランクに放り込まれるのは『ヤバい』――寒い――肘をついて起き上がろうとすると、肩をつかまれ床に押し付けられた。


「なんですか、久留木さん」


 彼が私を見下して微笑んでいた。

 暗い車内では絶対見たくない能面のような笑顔だ。

 黒の皮手袋をした彼の手が私の膝に触れる。


「久留木さん」

「うっ……なんでしょうか……?」

「あっと言う間に荷物のように載せられてしまう久留木さん?」

「ひぇっ……はい……それは、でも、これ、相手が白翔くんだからであって、……」

「オレオレ詐欺を簡単に信じてしまう久留木さん?」

「……誰に対してもこんな簡単に流されるわけでは……」


 彼の膝が私の足を割り開き、その手が私の腹を強く押す。


「ちょっ……白翔くんっ、待ってっ!」 

「このまま俺の家に連れ帰ってもいいんですよ? いいんですか? 俺は聖人君子ではありませんから、監禁してあなたが歩けなくなるまで太らせますよ?」

「それは聖人君子じゃない普通の人もまず考えない事だよ、白翔くん!」

「俺がなにを言いたいか分かりますね、久留木さん。あなたは頭がいいですからね?」

「……だってっ初めて会った時はそんなこと言わなかったじゃんっ!」


 苦し紛れにそう言うと彼は笑みを深くし、鼻がぶつかりそうなほど近くまで私に顔を近づけてきた。


「前と今では状況が違います。あの時は事情聴取があったでしょう? だからあなたは朝になってから帰ったはずです」

「たしかにそうだけどもっ……、白翔くんはさっさと帰っちゃったじゃん! あのときは送ってもくれなかったじゃん……」

「俺は宮本さんのことがあったので仕方ないでしょう? 俺が帰っていなかったら死人が出ていたんですよ? それにあの時と今では俺たちの距離も関係性も変わりましたよね? ……あなたはそれを了承しましたよね? ねえ?」

「みぞおちグリグリしないで、痛いよっ」

「痛くしているのだから当然です」

「……いや、痛いっ! やだ!」

「久留木さん、謝りなさい」


 暗闇の中でその瞳が爛々と光っている。――ぞっと、全身が冷えた。


「ごめんなさいっ!」

「……はあ、……仕方ない人ですね……」


 ようやく【なにか】は気配を消し、白翔くんがくすくすと笑ってくれた。

 ふざけていたのかと思うぐらいの切り替えの早さだが、未だに彼の膝は私の足の間にあり、彼の手は私のみぞおちを押し続けている。怒りは継続しているらしい。


「俺がなんで怒っているか分かっていますか?」

「……なんで白翔くん、ここにいるの?」

「今日日携帯があれば分かることはいくらでもあります」

「怖い想像しか出来ないんだけど」


 白翔くんにこりと笑い、頬にキスをしてきた。


「分かるでしょう、久留木さん」

「分かりたくない……」

「なら分かっているということですね、安心しました」


 白翔くんが私のみぞおちから手を離し、優しく抱き起こしてくれた。


「帰りますよ」


 白翔くんは私を助手席に導き、シートベルトまでしめてくれた。それからくしゃくしゃと私の頭を撫でて、自分は運転席に乗り込んでにこりと笑う。


「そんなに怖かったですか?」

「……すごく怖かった……」

「おかしいですね。あなたは俺の【そういう部分】を知りたがっていたのに。怖いもの見たさだったんですか? 今更もう逃げられないですよ」


 くすくすと笑いながら白翔くんは車を発進させた。

 それから彼は一言も話さず、私もなんと声をかけたらいいか分からず、車内は沈黙に包まれた。

 そっと彼の横顔を見ると、目の下にうすくクマが出来ている。


「……白翔くん」

「なんですか?」

「ごめんなさい」


 私が頭を下げると彼はちらりと私を見た。


「……それは今、俺はフられたという意味ですか?」

「へ? いやそうじゃなくて、そんなに心配してくれたんだなって……」

「それはまあ……、当たり前のことでしょう? 彼氏ですよ、俺は」


 白翔くんはうろんげに私を見た。


「今日はもう早く寝てください。俺も、……少し疲れています。こんな時間にあなたに会いたくなかった。優しくできないですから」

「……そっか……」


 彼は私の家まで送ってくれた。「ありがとう」とドアを閉めようとしたら「久留木さん」と白翔くんがドアをおさえた。


「なに?」

「なにか久留木さんの手作りのお菓子が食べたいです」

「そうなの? 食べていく? すぐ作れるよ」


 それで機嫌が取れるならと私が声を明るくすると、白翔くんは何故かため息を吐いた。


「意味分かって言ってますか?」

「意味? ……、あ。もしかして送り狼だった?」


 白翔くんはにっこりと笑った。


「海よりも深く反省してください」

「ごめんなさい」



 次の日(といってももう今日だけど)に研究室にシュークリームを届けることを約束して別れた。

 とりいそぎ母には『それは詐欺だから無視して』と連絡を入れた。母は『そうらしいの! あんた! 騙されるところだったわね!』と笑われた。


「……付き合うの、やっぱやばかったかな……」


 『なんとなく付き合ってなんとなく別れる』は彼には通じなそうだなと思いながらベッドにもぐった。


 次の日の朝、昨日の深夜あのコンビニの前で拉致があったという通報があったというニュースが流れたときは少し笑ってから、「ただの痴話げんかです。すいません」と警察に電話を入れておいた。

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