非常なゲーム
第5話 マウンテンゴリラ
――お前は見たんだろう。
沈黙する月が、まるで罪深い人類を天空から冷ややかに見降ろす神のように思えた。まだ四月というのに、滴る汗を拭い目の前にそびえるタワーマンションに視線を移す。それは無謀にも天空の神に近づこうとする、人の傲慢さの象徴のように感じた。
スーパータワー武蔵小杉、建物の豪華さとは別の意味で注目を浴びているマンションだ。エントランスの周りには、既に八台のパトカーが駆けつけている。椚木は季節外れの熱気を振り払うかのように、スーツの下に隠されたしなやかな筋肉を躍動させて、エントランスに向かう。
自動ドアの脇には二名の警官が立っていた。彼らに軽く挨拶をして間をすり抜け、足早にエレベターに乗り込む。三八階のボタンを押すと、エレベーターのドアが閉まり、高速で地上から離れていった。
軽いGを感じながら、椚の脳裏にはもう何度も見た悲惨な光景が蘇る。
――最初の現場もここだった。
そこには、これまで見た膨大な殺人現場の記憶と照らしても、まず例のない特殊な死体が残っていた。
被害者は目より上の部分は粉々に潰されていながら、目より下の部分は顔の判別がつくぐらい、きれいに残されている。
卵の殻を上半分だけきれいに取り去ることが難しいように、外科手術でもしない限りこの状態にはならない。開頭手術では、切りたい四辺の頂点に最初にドリルで穴を開け、次に電動ノコギリを使って切り取っていく。
遺体には他に致命傷となる傷は見当たらない。この不思議な頭部への傷が致命傷となったとしか考えようがないが、生きている人間の頭を特別な設備もなく、こんなにきれいに消滅させる方法が、誰にも思いつかなかった。
加えて身体に拘束の後は全くない。生きている人間であれば、拘束されない限りこんな特殊な方法で無抵抗に殺されるとは思えない。
信じられないが、犯人は瞬時に被害者の頭を潰したと考えざるを得なかった。
どこか別の場所で特殊な設備を使ったことも考えられたが、遺体の周囲には脳漿が飛び散っていて、殺しの現場がここであることを雄弁に物語っている。
次の日、死体を解剖した慶明医大法医学研究室の死体見分報告書によって、捜査員達の困惑は頂点に達した。
その報告書によると、被害者は人間の指に酷似したもので、最初に五か所に穴を開けられ、その後で豆腐を摘み取るかのように引きちぎられたというものだった。人間の指に酷似、と表現されたのは、そんな握力を持つ人間は存在しないからだ。
殺害現場のことを考えると更に謎は広がる。タワーマンションという複数の防犯カメラが設置され、証拠を残さず侵入・逃亡が困難な場所であるにも関わらず、マンション内に設置されたカメラに残った映像を調べても、どこにも犯人の姿は記録されていなかった。
死角なく設置されているはずの防犯カメラに、建物内部はおろか建物周囲でも犯人らしい姿が映っていないのだ。
捜査員の混乱はさらに続く。犯行当時玄関はきちんと施錠され、窓ガラスが一つだけ鍵近くのガラスを割られて開けられていた。いかにもここから侵入しましたと証明するような状況だ。
ご丁寧にガラスの破片は全て室内側に向かって落ちていて、それも外から窓を割って入ったことを物語る。これが普通の家なら誰もが納得しただろう。
しかしここは地上から百五十メートルの高さにある四八階の部屋なのだ。ここを外壁に沿って登っていくことは、まさにギネスの世界だった。
仮に外壁を登ったとすると、いくら夜とはいえ通報されなかったことが不思議だ。なぜなら武蔵小杉は東横線で四番目の利用人数を誇るターミナル駅だ。その時間マンションの周りの人通りは決して少なくはない。それに百五十メートルを登るのだ。明るいうちから登りださないと不可能だ。
大半の捜査員がこれらの謎の前に混乱したが、椚木だけは冷静に事件を分析していた。
人の頭蓋骨を素手で握りつぶしたことや、高層階を誰にも見つからず登ったことは、十五年に及ぶ椚木の経験や知識にもないが、新しい事件はいつもそうだった記憶がある。
大事なことは過去の経験でも推理力でもなく、確実な証拠を丁寧に拾い集め、つなぎ合わせて形にしていくことだ。
椚木はいつものようにまず犯人の動機を理解しようとした。そのためには被害者を知らねばならない。
被害者となった大牧信子は、朝の主婦向け情報番組を中心に、テレビ出演が増えていた辛口評論家だった。
事件の起きた日も、台風による土砂災害の救助に向かった自衛隊を口撃の対象にしていた。衰えぬ風雨の中で、二次災害の危険から救助活動が進まぬ自衛隊に対し、「雨風ごときでひるむようでは、集団的自衛権を与えても仕方がない。首相はものの本質が全く分かってない」とピントの外れた批判を展開したのだ。
事件の次の日の朝、大牧の死が発表されると、命がけで救助を行う自衛隊へのピントが外れた批判が、あまりにもしつようで見苦しかったことに加え、普段の彼女の自信たっぷりで世の中を小ばかにしたような態度が反感を買い、ネットの住人達はその殺人を天誅ともてはやした。
もちろん単純にそれが動機だと椚木は思わなかったが、彼女の職業や言動、そしてテレビ局という職場を調べることで、この殺人の動機に近づく可能性を疑わなかった。
一方、捜査本部は大牧の発言に政治的批判が含まれていたことから、狂信的な右翼系集団を、犯人として有力視した。殺人方法が頭蓋骨を粉砕して脳を押しつぶすという、残虐で見せしめ的なものであったことも、その推理を後押しした。
椚木はこの段階でそこまで犯人像を決めつけるのは早計だと思ったが、何らかの手掛かりは得られると考え、捜査方針に従った。
こうして最初の捜査方針が決まるまでに二日を要した。そしていよいよ本格的な操作が始まる矢先に次の被害者が生まれる。
今度は南新宿の四四階建てのマンションの三八階に住む女性アイドルだった。大牧と同じように朝の情報番組で、小学生を惨殺した犯人のことを庇ったのだ。
「罪は社会にある、ある意味被害者ではないか」
この発言はその日のツイッターランキングで一位に成り、彼女のアカウントは批判の声で炎上した。
殺害方法は大牧の時とほぼ同じで、頭蓋骨を無残に握りつぶされていた。しかも窓には侵入の形跡があり、ドアは施錠されていた。そしてビル内の防犯カメラには、犯人らしき姿は何も映っていなかった。
事件の翌日、連続殺人事件に発展したことから、警察は威信にかけて捜査員を倍増した。
しかし、懸命の捜査をあざ笑うかのようにその日の内に三人目の犠牲者が生まれた。全く同じ方法で……
大牧信子が殺されてから、既に三週間以上経っている。被害者の数はなんと一六人になっていた。ほぼ毎日同じ方法でルーチンワークのように人が殺される。
だが、警察はその犯人像をまったく捉えることができない。椚木の十五年間に及ぶ捜査一課での経験を持ってしても、これだけ犯人に迫れない事件は記憶にない。
エレベータが三八階に着きドアが開くと、椚木は両眼に気迫を込めて、右手で手刀を斜めに振り下ろした。達人の域に達した剣道で鍛えた気合が、前方の熱い空気を二つに切り裂く。
殺害現場に着くと、部屋の前で相棒の井上
「マサさん、悔しいです…」
井上の気持ちは痛いほどよく分かる。
捜査一課では四件目の殺人以降、昼間テレビで問題発言をしてネットで炎上した者を、毎日ピックアップして、彼らのマンションやホテルの周囲に捜査員を配置していた。
井上は四係の面々と一緒に、ちょうど今晩の被害者の担当になり、被害者の住む階のエレベーターホールを見張っていたのだ。
「犯人らしい者には、まったく気付きませんでした。犯人が侵入したという無線を聞いて、入って見るとこのザマです」
現場に居合わせながら犯罪を防止できなかったことで、普段は血色がいい井上の顔が、落胆と怒りで青白くなっていた。
「気にするな。腕利きの捜査員が複数現場に居合わせても、直前まで侵入する気配に気付かない、そういう犯人だということだ。それにガラスを割る音が聞こえたことも新しい事実だ。まず現場を確認して、その後で音を聞いた捜査員にもその時の話を聞いてみよう」
こんな状況の中でも動揺することなく、一歩ずつ前に進もうとする椚木の彫りの深い顔を見ながら、卵のような井上の顔に赤みが差してきた。
「すいません。いつも言われていたことを忘れてしまいました。俺達は心を揺らしては駄目なんですよね。その途端、事件の核心から大きく離れたところに置いて行かれる。体以上に心を鍛えろと教えられたのに……」
井上は自分の顔を大きな両手のひらでピシッと叩き気合を入れ直した。
相変わらず酷い現場だった。被害者の女性はイージーチェアに腰かけたまま、頭蓋骨の半分をむしり取られていた。生前美しかったと想像できる顔は、脳漿と血液がヘドロのようにかかり、その中から除く両眼は白目を剥いていた。
被害者は中野真澄三六才、女子アナとして旬を過ぎて、今はコメンテーターとして売り出している。
女子アナ時代の可愛いキャラから一転し、ウィットの効いた言葉で軽妙に受け答えするギャップが受けて、最近は出演番組も増えてきていた。
「被害者は近く引っ越す予定だったそうです」
退避が間に合わなかったことを、井上は悔しそうに椚木に告げた。
「人間の運命は残酷だな」
椚木はこれまでも一瞬の躊躇(ためら)いや決断の遅れから、不幸に見舞われた被害者をたくさん見てきた。逆に遅れが幸運を招くこともある。分かれ道は隣り合わせと言えるが、二度と後戻りできないことが哀れだった。
壁に面した窓ガラスは開かれたままで、いつものように鍵の部分が割られていた。
「ドアの鍵はかかっていたのか?」
「ええ、いつでも開けられるように予備キーを預かっていたのですが、間に合いませんでした」
犯人侵入の報を受けて、井上なら躊躇なく飛び込んだはずだ。であれば一分そこそこで犯行を行い逃走したということになる。どうしても犯行トリックが分からない。犯人は空を飛ぶことができるとしか思えない。
二人は犯行現場を後にして、ガラスの割れる音を聞いたという、世田谷署から応援で派遣された刑事に会った。刑事の名は吉田と言い、三〇才前後でずんぐりとした体格の落ち着いた雰囲気の男だった。
「かすかな音でした。聞こえたというより、ガラスが割れたような感じがして、ガイシャの部屋の窓をよく見ると、何か白い人のような影が窓を開けて入っていくように見えました。それで、急いで本部に連絡しました」
特に気負った風でもなく、しっかりした話しぶりだったので、吉田は意外と冷静だと感じた。いないようでいい刑事が育っている。
「白い人影を見る前に、周囲に異変を感じなかったのか?」
吉田はじっくりと記憶を引き出すような間を取った後で答えた。
「そこが変なんです。私はずっと窓に続く壁を見張っていましたが、犯人の姿は一切見ていません。それなのに、いきなり窓が割れたような気がして、見上げるとガイシャの部屋の窓に人影が現れました。一緒に見張っていた者にも確認しましたが、やはりそれらしい人影は見ていません」
「分かった。ごくろうさま。大変参考になった」
この男はきっといい警察官になると思いながら、椚木は吉田を解放した。
「とんでもない事件ですね。私には犯人は人間じゃなくて、マスコミが言ってるような化け物だという気がしてきました」
化け物だろうが妖怪だろうが、殺人が行われた以上、捜査するしかない。
吉田の話を加え、椚木はもう一度今回の事件を整理してみた。今までに起きた一七件には共通した特徴がある。被害者は全てテレビの出演者だ。
情報番組、NEWS、バラエティなどで、専門家、評論家、あるいはギャグで世の中で起きてることにコメントをした芸人。
その中でタワーマンションの高層階に住むか、あるいは当日ホテルの高層階に宿泊した者が、そこで殺されている。
テレビ業界は複雑だった。元々視聴率のためなら何でもありの世界だ。原発停止と省エネを掲げながら、深夜番組を平気で放送する矛盾に満ちた世界だ。
被害者が自分達の身内で情報が取りやすいことから、警察発表の内容が少ないにも関わらず、特番を次々に作って放送している。
マスコミはこの史上まれな殺人事件を、テレビドラマのような気分でとらえている。ある週刊誌が、犯人をゲームソフトにちなんでマウンテンゴリラと命名し、あっという間にその名が世間に広まった。
これだけのハイペースで殺人が行われているのに、なぜか世間は思ったほど動揺してない。
タワーマンションやホテル高層階のみが殺人の舞台になっていることで、多くの庶民は他人事に感じているのだろう。被害者がいずれも近所の誰かではなく、テレビに出る有名人であったことも、ドラマの延長線上のできごとのように、感じているのかもしれない。
椚木は苦笑しながら言った。
「俺にはこれだけの事件を起こした殺人鬼を、ゲームのキャラクターのように見立てるマスコミや世間の方が、化け物じみた精神だと思うけどな。いずれにしても俺達はいつもと同じように、今手に入る情報を丁寧に整理していくしかないだろう。想像や予測では事件は解決しない」
頷く井上の先に学生らしい男女の姿が見えた。二人ともたった今殺人が起きたタワーマンションを直視している。
椚木の視線に気づき、女の方が男に向かって言った。
「慧一、帰ろう」
男は頷いて、二人は現場から遠ざかって行く。
椚木は追うかどうか迷ったがやめた。きっともう一度二人に会うと思ったからだ。椚木にしては珍しい、勘に基づく判断だった。
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