連弾

――翌日。

 弦真は授業を終えると、急いで家に戻った。

 初日から一週間はほとんど授業がないため、スクールバックの中に教科書類はほとんど入っていない。

 また、初日からの一週間は学校が午前で終わることも今日知らされた。

 弦真は駆け足で家へ戻ると、鞄を掴み外へ出た。


 弦真の家から自転車で三十分程の所に、アップライトピアノの置いてある、清水銀座がある。

 ここは、二時を回ったこの時間が一番人通りが多く、今日も沢山の人が行き交っていた。

 弦真は早足で、ピアノの置いてある場所へ向かった。

 幸いにも今ピアノを弾いている人はいない。

 弦真は駆け足でピアノの前に行き、鍵盤の蓋をゆっくりと持ち上げた。

 椅子を後ろに引き、高さを合わせて座る。

 一回深く深呼吸して、気持ちを落ちつける。

 鍵盤の上に両手を置き、弦真の指は鍵盤の上を走りはじめた。

 曲名は『月の光』。

 弦真は、慣れた手つきで淀みなく鍵盤の上に指を走らせていく。

 最初の山場の連符を、弱く。けれど大胆に奏でていく。

 そこを抜けると、次は左手の流れが大事な部分に入る。

 ここは優しいひかりがさすように軽く、かつ美しく。

 二つの山場を抜けると、この曲は急激に印象を変え、音の高さが二段階高くなる。

 山場はここから、と弦真が指先に少し力を込めて鍵盤に手を伸ばした。その時。


 弦真の左手を先回りして、誰かの左手が和音を奏でた。

 弦真はピアノを演奏することも忘れ、隣にいる誰かを見る。

 弦真の左側に座っていたのは忘れもしない、弦真がピアノを弾くきっかけを与えた彼女だった。


 弦真が言葉を失い、彼女を眺めていると、不意に彼女が口を開いた。

「もう、両手がお留守だぞ、君。そんなんじゃこの曲がかわいそうじゃない。

 しょうがないから私が君の左手になってあげます」

 彼女は微笑みながら、右手で弦真の右手を掴むと鍵盤の上に載せる。

「いくよ?」

 彼女は勢いよく、左指を鍵盤の上に走らせた。


 間近で見る彼女の演奏は素晴らしかった。

 弦真の主旋律を引き立てながら演奏するだけではなく、しっかりと主張するところは主張し、全体としてすごくいいバランスに仕上がっている。

 しかもこれを即興で行なっていると言うのだからさらに驚きだ。

 弦真のペースと演奏に合わせ、完璧に演奏している彼女に弦真は驚きを禁じ得ない。

 ただ彼女の演奏に負けじと、弦真は右指を今までよりも更に滑らかに、速く、丁寧に滑らせていく。

「お、いいね。じゃあこのまま最後までいっちゃおうか」

 彼女は突如、今まで左手で弾いていたパートを右手に変え、空いた左手で一オクターブ低い音を演奏し始めた。

 普通なら、主旋律を変えないと音が混ざり、いらない音となってしまう三つ目の音が、今は綺麗に主旋律と合わさっている。

 即興で三つ目の音を創り上げた彼女に、弦真は驚愕する。

 彼女には、途轍もない才能があるとは感じていたが、その才能は氷山の一角であったと知る。

「…っ」

追いつくのに必死なのに、さらに難易度をあげてくる彼女に、弦真は声を失うほどに全力で、指先の神経を尖らせていく。

 大きなミスをすること無く、二人は最後の小節にさしかかると、最後の音の余韻をたっぷりと残しながら、二人同時に鍵盤からゆっくりと手を離した。

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