第28話 幕間:乙浦栞、いずれの守り人。

 養護教諭、乙浦栞は、かつて「将来は先生になりたい」と目を輝かせて言う子供だった。

 学校は友達がたくさんいて楽しかった。

 勉強はいつも褒められて嬉しかった。

 憧れるに足る教師に多く出会ってきた。


 けれど。

 それは小学生だった頃の話。


 中学に上がった頃、乙浦栞は、突然「学校が嫌い」になった。

 よくある話だ。

 ありふれた悪意に晒されて、ありふれた挫折を経験した。

 子供は純粋で、残酷で、愚かしくて、時々恐ろしい間違いを犯す。

 刃の先を、たまたま向けられた一人が、栞だった。

 よくある話とはいえ、当事者からしたらたまったものではない。

 教室に入れない夢を、今でも栞は偶に見ることがある。

 既に、夢の中で当時の感情を思い出すことがなくなっただけ、ましだ。

 何とか過去にすることはできたし、栞はかつて嫌った学校を職場にしている。


 ちゃんと夢を叶えられたこと。

 傷付いても、立ち直れたことは。

 別に強さなどではなくて、ただの幸運だったと思っている。


 致命的な傷を受けずに済んだ、というだけの話だ。

 かつて受けた傷については、恨むよりも憎むよりも、諦めがあった。

 仕方がない。

 純粋で、残酷で、愚かしくて、恐ろしい、なんて。

 全人類がそうだから。


 自分もまた、傷付ける側に回っていた可能性はあると栞は思う。

 看守役を与えられた人間が、囚人役を傷つけたように。

 状況が、背景が、運が、なかったのだと。

 乙浦栞は諦めて、諦めることができる程度には傷は浅く、そのまま大人になった。


 教師になりたいと思っていた。

 それは、学校が好きだったからだ。

 かつては、疑いようもなく人間が好きだった。

 悪意なんて向けられたことのなかったあの頃はそうだった。


 でも、無邪気なあの頃にはもう戻れなかった。

 それでも、傷を理由に「夢を捨てる」などということは認められなかった。



 だから乙浦栞は、学校で唯一の安息の地だった「保健室」を、守るための「先生」に、なることを選んだのだ。



 乙浦栞は、悪意を呪い、残酷を呪い、無邪気を呪い、未熟を呪う大人だ。

 特定個人への恨みつらみの代わりに、現象への、概念への怨念を手に入れて、それを燃料に走ってきた人間だ。

 感情はいつだって負の方向性に偏っていて、思考は常日頃から捻くれていて、態度は斜に構えている。

 そういうふうに癖がついている。


 ──乙浦栞は、そんな自らの人格の癖を、良しとしなかった。


 安息の地の「守り人」でなければならないと、自らを律した。

 かつて、子供だった頃の自分の居場所を守ってくれた恩師のように、〝大人〟でなければならない、と。


 飄々と軽い態度を取ってみせること。

 それは、栞なりの、「大人のフリ」だった。



 乙浦栞は理解している。

 子供は、無邪気なんかじゃない。

 いつだってこちらをはかっている。

 信頼に足るか、と。特に……手負いの子供は、警戒心が強い。少しでもこちらが隙を見せれば、喉笛を噛みちぎられるか、あるいは深い穴蔵の奥へと潜り込んで出てこない。

 彼らは、とても残酷だと思う。

 かつての自分が、そうだったように。

 大人を品定めする側から、品定めされる側になったことを自覚する毎日だ。


 乙浦栞は、大人のふりをぎりぎりで紡ぐ。

 信頼に足る誠意を尽くす。

 どうか信じてほしい、と。



 かつてどうしようもない子供だった私はきっと、人を救える大人になってみせるから、と。



 誓った初心を忘れないように。

 できることの少なさを見つめて。

 正解の見つからなさに悩んで。

 至らなさに苛まれ、矢の如く去って行く月日に溜息を吐く。


 確かな焦りがあり、けれどその焦りが伝わらないように、悠々と構えてみせる。

 余裕のなさは伝わるものだ。

 そして、余裕のない人間には……何も救えない。


 乙浦栞は、自らの未熟を呪い続ける人間だ。

 ──けれど、だからこそ。祝福を与える側の大人になりたいと、願い続けている。



「だけどやっぱり、できることって少ないね」


 いくつもの少年少女の背中を見送りながら、思う。



 いつか、美術講師の瀬戸内と少し、話をしたことがある。

 やはり美術の分野の人間だからか、瀬戸内は色彩で例えた。


 生徒たちを、『群青』と。


 栞は、なんて、素敵な言葉を使うのだろうと思った。

 褒め言葉ではないと知って「それでも良い」と思った。


 きっと、彼らは。

 深い深い、青色が。

 少しずつ鮮やかに明るさを増していく過程にあるのだと、思う。


 生徒たちの青色を、それが移り変わって行く過程を思えば。

 いつかその未熟が、色鮮やかに実を結ぶことを想像すれば。

 気休めでも、愛せる気がした。



 そんな欺瞞がなくたって、栞は、平気なのだけど。


 学校の中の保健室、大きな箱の中にある、小さな箱。

 外界から閉ざされた別世界の中で、さらに閉じた部屋で。

 栞は、彼らを眺め続ける毎日だ。


 一年ごとに顔つきを変える生徒たちのことが、愛おしいと思う。

 自分たちでは、きっと何も変わっていないと思っているのだろう。


 けれど、栞はそれに気付き、ひそやかに祝福をする。


 ──君たちは確かに前に進んでいる。


 そして、いつの日か。自分が大人になったことに気付くだろう。



 乙浦栞は、余裕のない、未熟者の、先生だ。

 日々に追われ、必死に取り繕って、余裕ぶって笑って、生きている。

 けれど。

 自分が大人であることを否定したことはない。

 疑ったことは、ない。


 なぜならば。

 乙浦栞にとって大人とは。

「祝福を与える側であること」だからだ。



 それを忘れない限り。

 いつまでも、ろくな大人でいられるような、気がした。

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