第26話 わたしの運命
運命だって偶然だって同じこと。
どうせ、階段をほんの少し踏み外せば崩れてしまうものでしかない。
だからいつか喫煙所で紫色のパーカーのあの子を見かけたのも。
図書館の暗い棚の合間で小さなあの子に話しかけられたのも。
なんでもない平日に制服でぼんやりと町を彷徨うあの子を見つけたのも、すべて、なんでもないことで。
偶然以上必然未満な、なんでもないことを積み上げてできた「あの場所」はやっぱり、私のいる場所ではなかった。
そのことを、思い知ったというだけの話だった。
◇
陽が傾き始めるのは随分と早くなってしまった。
車もひと気もない長い坂を越えた先の駐車場。
低い塀に腰掛けて私はじっと西の方を眺める。
私の一日はとても長い。
することなんてひとつもないから。
すべきことはたくさん、あるけれど。
それを数えるのはしたくはなかった。
季節が移り変わっていくことが耐えられなかった。
もうセーラー服一枚では、風の寒さに耐えられない。
カーディガンを探さないと。
でも引っ越してきて、どこにしまったか思い出せない。
カーディガンを着て、そしてもう少し時間が経って、私はコートを着て、また時間が経ち、経って、そして──私は白いセーラー服に、夏に戻る。
戻る?
戻るのか、私は。戻るつもりなのか。
「どこに。いつに? 無理よ」
繰り返したって、〝あの頃〟にが戻れない。
毎日誰にも聞かせられないひとりごとばかりが増えていく日々の終わりは、やっぱり今日ではない。
──未来が、見えない。
「……っ、見つけた」
たとえ、彼が現れたとしてもそれは変わらないのだろう。
「乙浦クン」
こんなところにいるはずのない、ここにいる人の名前を呼ぶ。
彼は坂道を駆け上がったのか少々息を切らしながらへらりと笑った。
場違いに。
「今日は少しだけ、会える気がしたんだ。会えてよかった……」
なんて非論理的な台詞だろう。
そういうことを言うのは私だけで十分なのに。
私は今日も、あなたに会わないつもりだったのに。
「見つけて欲しいなんて、一ミリも思っていないわ。勘違いしないでね、不愉快になっているわけじゃないの。ただ事実としてそうだから。乙浦クンにはわかっていると思うけれど。聞かせて? どうして、私に会いにきたの」
「その、一ミリも思っていないことを確かめに」
なんてつまらない答えだろう。
でも、彼が私を見つけてしまったことは変わりない事実だった。
私がそれを避けられなかったことだけが確かだった。
賭けに負けた。
そんな気がした。
何も賭けてはいなかったけれど。
賭けるものなんてなにひとつ持ち合わせてはいないけれど。
「……聞きたいの?」
「聞いてもいいなら」
「いいよ。つまらない話だけど。乙浦クンはいい人だから」
私は笑った。
いつものように、彼の前の間宵硝子用の笑みを浮かべた。
……きっと私は彼に期待している。
わかってくれるかな。
わかってくれないといいな。
そんなことを思いながら口を開いた。
「私はね、未来が見えるの。ううん、見えていたの」
今は昔の話。
昔だと認められない、今の話。
◇
私には未来が見える、はずだった。
物心ついたその時から私には未来を把握する魔法がかかっており、そのことに疑問は抱かなかった。
活かすこともなかった。
未来が見えることが人生に飽くことには繋がらなかった。
なんとなく先のことを知識としてぼんやりと理解することと、実際に経験として肌で感じることは全く違っていたし、何よりも私はそれ以外の『普通』を知らなかった。
新鮮さはないのかもしれない。だけど、私からしてみれば、未来を何も知らないで生きているみんなの方が不可解だ。
それに、私に見える未来はとってもちっぽけで些細で、私自身が生きていく上でしか役に立たないものだったから。
事件や災害、人の生死にまつわることや、大きな運命が見えたりはしない。
ただ、人よりもなんとなく、なにかを『わかっている』だけ。
私が毎日を生きる上で、少しだけ便利なだけ。
それが私にかけられた魔法であり、間宵硝子が魔女たる理由。
私の「普通」がどうやら「普通じゃない」らしい、と気が付いた幼い私に、大好きなおじいちゃんがかけてくれた『魔女』という素敵な魔法だった。
私の人生は、私の未来は、平穏で劇的であることが運命づけられていたはずだった。
──運命の歯車が狂いだしたのは小さな一歩のせいだった。
その日は私にとって特別な日。
人生の分岐点と見えた日だった。
その日、私はあまり話したことのないクラスの男の子に告白される。
一度家に帰ったあと、忘れ物に気がついた私が学校に戻ると彼が残っていて、私は目的も忘れて話し込む。
最終下校のチャイムの後に不自然な沈黙があり、それが告白の前触れとなる。
私は彼のことを何も知らない。
知らないまま頷いて、おままごとのようなデートをして……そして私は、恋をする。
そんなつまらない恋の始まりの、「始まりの日」が「特別な日」でなくて、なんだというのだろう。
そんな「特別」を私は既に知ってしまっていることに、ちくりと心を痛めたのが、始めの一歩の始まりだった。
本当に「特別」にしたかった。
特別な一日を、未来を装飾したかった。
それがきっと、未来を見てしまっている私なりの誠意なんだと玄関の鏡の前で私は血迷った。
棚に並べられた赤いハイヒール。
見惚れて買ったはいいものの、服にことごとく合わなくって結局あまり履かなかった、そしてこの先も履かないことが確定していたお気に入りの靴。
熟しすぎた艶やかな林檎色はこの特別に、この特別は熟したハイヒールの最後にふさわしい。
そんな考えがよぎって、私はちぐはぐなセーラー服のまま足を通したのだ。
赤い靴は、私の未来にないはずだった。
私は初めて、私の未来にないものを望んだ。
望んだほんの少しのずれは、取り返しのつかない結末を生んだ。
履かなくなってしまったハイヒールの靴底は、階段の途中で外れたのだ。
私は、階段から落っこちた。
落ちた瞬間の記憶を私は知らない。
頭を強く打ったらしい。
大仰な検査を終えて、後頭部を腫らしたまま家に帰った時にはとっぷりと陽が暮れていた。
当然、学校になんて行けたわけがない。
私の運命が訪れたわけがない。
致命的に絶対的に、踏み外した一段が未来を歪めてしまったらしいと気付きながら気持ちは不思議なくらい空っぽだった。
なにも、なかった。
──空っぽの意味に気がついた時にはもう遅かったのだ。
あの日から未来が、見えなくなっていた。
否、まったく見えないわけではないのだ。
ノイズと黒塗り、検閲済みで改悪済み。
乱視と視野狭窄のモザイク加工。
例えるならば、そんな感じ。
おかしかった頭は打ったことで正常に揺り戻されたのか、それとも、未来が見えていたのはすべて頭を打ったせいで手に入れてしまった妄想だったのか。
わからない。
──ただ、私はもう私ではなくなっていた。
私が私としてあるべき姿はすべて未来から与えられているものだった。
なんでもないことのはずの未来視が私の全てを形作っていたことに、愚かにも知らずにいた。
私の『今』には、何一つ価値なんて意味なんて意義なんて、なかったのだと。
話す言葉も動作も何もかも、『今』から捻出しなければならなくなった私が、齟齬にまみれてしまった私が間違いを塗り重ねて、私の今まで生きてきた世界の、私がこれから生きていくはずだった世界の『間宵硝子』を木っ端微塵にしてしまったと気がついた時にはもう。
手遅れだった。
私は、ずっと、あの日に取り残されている。
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