掃き溜め
全力で消費者
希死念慮
この休憩が終われば、あと一時間と少しで今日は終わる。
左半身でもたれかかるようにドアを開けながら、ズボンのポケットから携帯を取り出す。アラームを十分後の17:40にセットした。在庫品があちらこちらで影を背負いこちらを見ている。ドアの横にあるスイッチを押して、部屋の一番奥にある窓際に立った。数回点滅した後、白熱灯が部屋を映す。
鞄を探って、潰れた青い箱から煙草を一本摘まむ。指を曲げた途端、水仕事と冬の乾燥で傷んだ皮膚がひび割れた。拭うまでもない血が滲む。
適当な柄のあしらわれた薄いカーテンを背中に被り、窓を開け、身を乗り出す。この職場で喫煙者は私しかいなかった。冷気が頬を掠める。煙草を加えて、蛍光色のライターで火をつけた。
疲れた、と独り言ちる。特に繫忙期というわけでもないし、目立ったトラブルがあったわけではないが、身体がだるい。頭もずっと重い。
「あんたもういいわ。」
先程客に投げられた言葉がふと再生される。喉に濁った空気が張り付いている。
多分、あまりにも数が増えすぎたせいで、人間は一人一人に気を配る余裕などないのだと思う。ましてやこのご時世、他人になんて構っていられないのだろう。個人が個人の中で忙しいし、大変なのだ。自分の言葉を顧みることすら出来ないほどに。
ねぇババァ、私も他人の言葉一つに気力をつぎ込む余裕は、きっとないんだけど。
去っていくその老いぼれた背中に笑いかけた私は、さぞいい子に見えただろう。
回り巡る日々の中で、私という人格がどんどん薄められていく気がしてしまう。
元々この国で生まれた私は私のままで生きていたのに、他人と情勢、思考や声に揉まれ絡められていくうちに、その形は歪み固められ、世界にぴったりはまるパズルのピースになった。
型にも多くの種類がある。絶対に外れてはいけない大きな型は常識といったところか。他には雰囲気とかだろうか。教室やグループが分かりやすい。そして一番小さな型は他者だ。人の数だけ違った世界があり、その一つ一つに型が用意されている。この型には必ずしもピタリとはまる必要はない。しかし、ある程度、そして沢山の数にはまればはまるほど、この国では表面上生きやすくなる。
この国にいる人は、皆パズルのピースを見ている。その形や絵柄じゃない。ただピースがどれだけ型に一致しているかどうかだけを見ている。
私は多分、もうずっと正解を出し続けている。私の型以外の正解を。
最近、自分の中のよくわからない部分が限界に達しているような気がする。
時々痛くて苦しくて仕方ない。きっと足元が覚束ないせいなのだ。自分の中にはまる型がないから、根を張る場所を見つけられないでいる。栄養も水も享受できずに、枯渇している。
向かいに立っているパチンコ屋のネオンが陽気に光る。カラスが二羽、その四角い屋根に止まった。手元の煙がカラスにかぶさる様に燻る。私はただそれを見ている。
よく私は自分と対話をする。私はパズルのピースなどではないと確認するためだ。
いつも生きるために型に合わせて変容しているだけで、あくまで表面的な話でいるはずなのだ。私の核はずっと私の中にある。私はここにいる。ずっと私の側にいる。お前の口も耳も手も顔も、とっくに廃退してしまいもうよく見えないけど。
考えてみると、この頃上手く自分が出てこない。久しく私は私に会っていないように感じる。
何かしようとすればするほど、何も出てこなくなってしまうのだ。
様々な矛盾や苛立ちに高ぶって冷めやらない私は、今にもどこかへ駆け出してしまいそうなほど衝動的で強大な力を秘めている。なのに、いざ解放しようとすると、途端迷子になってしまった子供のように、きょろきょろと辺りを見渡して、ついには臆病さに負け帰って行ってしまう。借り物の私だけを置いて、どこかへ行ってしまう。
ねぇお前はいるんだよなぁ?本当に。それとも私しか認識していないお前は、存在しているとは言えないのだろうか。一体私はどこに行ってしまったのだろう。
全部嫌になった時、違った人生を考えてみる。もし、やりたいことをしていたら。言いたいことを言えていたら。働かなかったのなら。生まれていなかったのなら。
私は私を守れていただろうか。上手く自身の攻撃性を制御しつつ、私の何一つも決して損なわないままに、楽しい方へ、幸せな方へ歩いて行けたのだろうか。
いっそのこと全部捨てて解き放ってしまえばいいとも考える。例えば今この窓から逃げ出せば。そのまま電車に乗って、知らない町に暮らしてみれば。身一つで誰にでもなれるだろう。どこまででも行けるだろう。
そう、私の中にお前がいないのなら、もう一度やり直せばいいのだ。何もかも忘れて、夏の午後に遊び疲れて昼寝をしていたあの頃に戻ったように。もうなにも取り繕わずに、ずっと私は私のままで。
泣きたくなるほど羨ましい。嫉妬するほど憧れてしまう。ずっと気持ちが悪いんだ。我儘に自分の欲求しか持ち合わせていない人も、そんな中の一人である私も、この国で生きていけてしまってる私も。
しかし毎回思い返す。借り物の私は存在するだけでお金を使う。金を稼ぐため、どこへ行こうと私はどこかで私でない、何者かになってしまうのだ。なにより借り物の私には家族も恋人も友達もいる。私はどうしてもその型から抜け出せないでいる。この有難いしがらみに、私は何度涙してしまっただろうか。
短くなってしまった煙草を、最後に深く吸う。赤い光だけがやけに暖かそうだった。
振り回されている、という感覚が強い。全部自分で決めてきたはずなのに、気付けば私はずっと誰かを責めている。それを取り繕うために、お母さんに怒られないように、自分に矛先を向ける。本当はそんなこと思っていないのに。そうして生まれた矛盾に潰されないよう、私はまたお前を隠す。『声を聴け!私を見ろ!』お前はずっと出てきたがっているのに。
そのうち私はピースの形さえ失って、どんどん分裂していく。全部が散り散りの肉片になって、二、三センチくらいの小さな私が沢山出来る。この肉は元々どこから切り落とされた肉なんだ?そもそも元の場所なんてあったか?原型が分からないから、もうお前を出してやることも出来ないのかもしれない。
けれど私の周りの人間は、その肉片に話しかけるんだ。一人一人別の肉に。まるでそれが、それらが全部私自身とでも言うように。考えれば考える程気色が悪い。
支離滅裂ことを言ってるって?私もそう思うよ。
私はもうとっくの昔に何もわかならなくなった、中身の抜け落ちた死体だ。生命活動だけが持続している、自尊心の大きな死体だ。
馬鹿ばっかりだ人間は。見えていることなんて何もないくせに、聞こえているものは全部幻聴なのに、あたかもそれが全てであるかのように振舞って。私もそうだ。型を壊して、ピースになった都合の悪い自分を切り取っていくうちに、こんなにちっぽけに、何にもなくなってしまった。
もうずっと続く思考に、私はずっとずっと疲れている。
しかし生きている限り、これが止むことはないのだろう。無理やり完結させては、荒波のように何度も何度も私を襲う。何年も何年も。私は私を許さない。お前は私を許さない。お前だけは私を忘れない。
どこに行けば何か分かったりするのだろう。この枷は何をすれば外してもらえるのだろう。あぁ。私は前世でどれだけの悪事を働いてしまったのだろうか?
金も規律も劣等感も承認欲求も生活も愛も孤独も過去も将来も全部重い。外の世界は煩い。内はもっと煩い。
何もかも嫌だ。嫌いだ。全部消えてしまえばいい。お前が消えてしまったように、音もなく、気づかれることもなく、この身も世界も朽ちてしまえばいい。そうさ死ねばいい。死んでしまえばいい。
「死にた」
呟いて、はっとする。休憩終了のアラームが鳴った。
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