第8話 海

 ……暑い。


 外では、セミが元気に鳴いている。

 ミーン、ミンミンミン。ジワジワジワ……。



(暑い……)



 先週“つゆあけ”とかいうのが来てからというもの、毎日じっくり蒸されているような気温が続いていて、そろそろ蒸発しちゃいそう。


 ヒロトの家にある『クーラー』って言う涼しくなる魔法の道具は――……故障中。

 だから、フローリングの床に張り付いて、冷たいところを探し、芋虫みたいに這って移動する。



「あー……暑い〜……」



 ソファーの背もたれに体を預けてうなだれ、片手に持ったうちわでパタパタあおぐヒロト。


 その言葉に同意して頷くと、突然ひらめいたような声を出し勢いよく立ち上がった。


 何事かと驚く私に、彼は表情を輝かせて一言。



「ちょび! 海に行こうか!」

(うみ……?)



 首を傾げれば、ヒロトはにこりと笑って靴を履くように促してくる。

 言われた通り玄関へ向かい、棚から靴を出そうとした。


 すると、



「今日はこっち」



 そう言って、初めてここへ来た次の日にヒロトが慌てて買ってきたスニーカーじゃなくて、この前デパートで買ってくれたサンダルを取り出した。


 それを丁寧な手つきで私に履かせてくれて、「それじゃあ行こうか」と手を引く。




 ***




 少し歩いてやって来たのは、私とヒロトが初めて出会った駅。


 久しぶりに見た人混みが少し怖くて目を細めると、



「……ここで初めて会ったよね」



 ヒロトは呟くように言葉を落とす。



「……!!」



 覚えていてくれたんだ。

 私も同じこと考えてたよ、一緒だね。


 笑って見せればヒロトも少し口角を持ち上げて、私の頭を優しく撫でてくれた。


 それから。切符売り場にやって来ると、販売機の前にヒロトが立つ。


 ポケットから小銭を取り出し、機械に投入。

 ボタンを何回か押せば、切符とお釣りがべーっと吐き出された。



「はい、ちょびの」



 彼が差し出した切符には『大人』の文字。


 何て読むんだろうと首をひねりながら改札に行き、駅員さんにそれを手渡す。



「はい、ありがとうございます。行ってらっしゃいませ」

(いってきます!)



 スタンプの押された切符を受け取り頭を下げ、改札をくぐった。


 少し長い階段をあがって、おりて。看板に『2番線』と書かれたホームへ到着。


 何人か並ぶ列の一番後ろに立ってから少しすると、


 プルルルル――……。



「間もなく、2番線ホームに列車が参ります。黄色い線の内側までお下がりください」



 アナウンスが流れ、大きな音と共に列車があらわれる。



(すごい! すごいね!)

「ちょび、足元気をつけてね」



 スキップするように乗り込んで、あいている席に腰をおろした。

 ひたすらはしゃぐ私の様子を、ヒロトはただ優しい目で見ている。


 しばらくすると列車の扉が勝手に閉じて、ガタンガタンと音を立てながら動き始めた。



(……! はやい! はやいねヒロト!)



 走り出した途端、窓に映る景色は目まぐるしく変わり、私はひたすら「すごい!」と感動するばかり。

 中はとっても涼しくて、額に滲んでいた汗は少しずつ消えていく。


 座席に膝を立て窓ガラスに顔を張り付けていると、



「こら。ちゃんと座りなさい」



 ヒロトに怒られた。




 ***




 何個目かの駅で降りると、少し遠くに見えたのは一面に広がる大きな水溜まり。



(でっかい! すごい!)

「ほら、ちょび。あれが海」

(うみ!)



 太陽の照りつけるコンクリートの道をヒロトと手を繋いで歩き、“うみ”までやって来た。


 境界線には砂がたくさんあって、サンダルにサラサラと入り込んでくる。

 足を振ってそれを払っていると、ヒロトに「脱いでもいいよ」と言われたので、迷わずポイポイ放り投げた。



(わーい!)



 海に向かって走り、ワンピースの裾を持ち上げて中に入ってみる。……足だけ。


 海の水はちょうどいい冷たさで、暑さに火照った体が溶かされるような気持ちになった。


 ひんやり。

 きもちいい。



「着替え持ってきてないから、足だけだぞー」



 私が放ったサンダルを拾い上げながら、声を出して笑うヒロト。



(うん!!)



 大きく頷いて見せたあと、しぶきを上げながら浅瀬を走り回る。


 バシャバシャ。



(あっ!)



 水の中をよく見ると、底の方に動く貝を見つけた。


 少しのあいだ睨み合い、隙を見て捕まえる。



(とれたー!)



 それを持って駆け寄れば、ヒロトは少し驚いた様子で目を丸めた。

 そんな彼についさっき捕まえたばかりの獲物を見せつける。


 手の中には、小さな貝。そして、そこからひょこりと顔を覗かせる小さなカニ。

 それを見てヒロトは、



「ヤドカリ捕まえたのか」



 そう言ってからから笑った。


 ヤドカリ。

 この生き物は、ヤドカリ。



(……食べられるのかな?)



 鼻を近づけ、匂いを嗅いでみる。



「……」



 なんだか……ちょっと塩辛い匂い。

 小さいし、あんまり美味しそうじゃない。


 試しに舐めてみたら、やっぱりしょっぱかった。



(おいしくない!)



 慌てて海へ戻り“ヤドカリ”を逃す私を見て、ヒロトはいよいよお腹を抱えて笑いだす。



「あははっ……! ちょび、ヤドカリはさすがに食べられないと思う」



 太陽みたいに明るい笑顔を見ていると、なんだかとても嬉しくなった。



(じゃあ、食べられるもの捕まえてくる!)



 その笑顔をもう一度見たくて、再び水の中に目をこらす。


 不意に、何かの生き物がきらりと光って移動した。



(宝石だー!)



 でも、宝石はなかなかすばしっこい。


 頑張っても頑張っても捕まえられなかったので、かわりにたまたま流れてきたワカメを拾った。



「ひろ、とっ!」



 今度は食べられるよ!



「ありがとう」



 自信満々で差し出したそれを、ヒロトは小さく笑いながら受け取る。


 彼は「交換」と言って、ピンク色の小さな貝をくれた。



「サクラ貝」

「さっ、くらっ、」



 太陽にかざしてみると、光がサクラ貝に透ける。


 すごく可愛くて、綺麗。



「あり、が、と!」



 この前ヒロトに教えてもらった『正しい』お礼を口にして、思いっきり笑って見せた。


 彼は、そんな私の頭を撫でながら優しく微笑む。



「来年もまた来ような」



 ――……来年も。



(うん!)

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