閑話 クリストファー視点(3)

 ずっと、姉上のことを見てきた。

 どうして皆、姉上の魅力に気づかないのだろうと思っていた時期もあった。

 それなら、ぼくが姉上を幸せにしようと思った。姉上が……好きだから。2人で幸せになりたいと思った。


 だけれど、学園に入学してみれば、周りは姉上の魅力に気づいている人ばかりで。

 気づいていないのは姉上だったのだと、知ることになった。

 それでも、初めてだった。


「ワタシはアナタがいいのデス! 最初は一目惚れでしタ。デスが、アナタと一緒にいるうちに、確信しまシタ。この愛は間違いなく、運命であると」


 目の前で、他の男が姉上に、愛を告げるのを見るのは。


 こんなにも……泣きたくなるほど、胸が苦しくなるなんて。

 胸に穴が空くようなこの感覚に、ぼくは覚えがあった。


 ◇ ◇ ◇


 ずかずか家にまで上がり込んできたその男は、姉上が弟だと紹介したぼくに向かって右手を差し出すと、こう言った。


「弟サン? それでは将来のワタシの弟デスね! どうぞ、仲良くしてくだサイ」


 当たり前のように、姉上と結婚するような話をして。

 好きだと告げて、愛を囁いて。


 ぼくには……弟のぼくでは出来ないことだ。

 もしぼくがそんなことをしたら、きっと姉上は困ってしまうし……今の関係を、壊したくない。


 姉上がいて、兄上がいて。父上と母上がいて。その幸せは、ぼくがずっと、ずっと欲しかったものだから。

 やっと手に入ったものだから。

 それを手放すことになるかもしれないのは……家族が壊れてしまうのは、やっぱり、怖い。


 兄上は受け入れてくれているようだったけれど……姉上が受け入れてくれなければ、意味はなくて。

 ぼくは姉上と一緒に、幸せになりたいから。


 ぼくが絶対に姉上を幸せにできるって――2人なら絶対に幸せになれるって、そう言えるようになるまでは――どうか、このままで。

 今のままでいたいと思ってしまうぼくは……ずるい弟なのかもしれない。


「…………生憎ですが。ぼくにとっての兄は1人だけですので」


 差し出された彼の右手を、ぼくは握らなかった。


 姉上の腕に腕を絡めて、彼から引き離す。

 にこにこ笑い合いながら、仲の良さを見せつけるように会話をしていると、彼は不満そうに呟いた。


「エリザベス。エドワードから『みだりに触らせるな』と命令されていたのに」

「クリストファーは他人じゃない。弟だから、いいんだ。ね?」


 どういう経緯で王太子殿下にそんな命令をされたのかは、後で問い詰めるとして。

 やさしい瞳でぼくを見つめる姉上の肩に、頬を寄せる。


「はい」


 そうだ。

 ぼくは姉上の弟だ。


 そんなこと、分かっている。姉上だって、ぼくのことを弟としか思っていない。そんなの、ぼくが一番分かっている。

 だけど、だから何だというのだろう?


 少なくとも、昨日今日姉上と知り合ったような人間に……分かるものか。

 姉上がどんなに素敵な人で。

 姉上がぼくにとって、どれだけ大切で。

 どれだけ必要な存在か。


「貴方の方に愛があっても、姉上に愛がなければ意味はありません」


 ぼくの唇からこぼれたその言葉は、自分自身に言い聞かせるようなものだった。

 腕を絡めても、どさくさ紛れにデートに誘ってみても。姉上はやっぱり、何も気づいていない顔をしていて。


「姉上には、恋愛はまだ早いです」


 弟だから、というその言葉が、嬉しくて、悲しかった。


 ◇ ◇ ◇


 姉上。

 馬で学園まで一緒に行きましょうと言ったのはぼくです。

 確かに後ろで寝ていていいと言いました。

 でも、こんなにがっつり寝られるのは予想外です!


 姉上は最初こそ普通に乗っていたものの、3分もしないうちにぼくにもたれかかって、完全に眠りに落ちてしまった。

 今は後ろからぼくのお腹に手を回して、首元に顔を埋めて寝息を立てている。


 完全に抱きしめられているような状態で、身体がぴったり密着していて、気が気ではない。

 こんなことを考えている場合ではないのに。姉上を狙っている誰かが家にいるかもしれなくて。それについて考えないといけないのに。

 すぐ後ろにいる姉上のことしか考えられなくなってしまう。


 風に乗って、ふわりと整髪料の匂いがする。

 姉上の匂いだ。


 身体中が心臓になってしまったんじゃないかというくらい、鼓動がうるさい。

 姉上を起こしてしまうんじゃないかと心配になるほどだ。


 必死で前を見て、汗で滑りそうな手綱を強く握る。せっかく事故を未然に防いだのに、ここでぼくが事故を起こしたら元も子もない。安全第一、安全第一。


「うーん……」


 姉上がぎゅっとぼくを抱きしめる腕に力を込めて、頭を動かす。

 さらさらした髪が首元をくすぐった。咄嗟にびくりと肩が跳ねる。


 起きて欲しいような、早く学園について欲しいような、……今が永遠に続いて欲しいような。

 こんな姉上の姿を見られるなら、しばらくは弟でもいいような、早くここから抜け出したいような。

 いや、ほんとうにそんなことを考えている場合ではないのだけれど。


 交差点で立ち止まり、ちらりと振り返る。

 目を閉じた姉上の顔が、すぐそこにあった。


 いつもぼくを……ぼくたちを守ってくれる姉上。

 今度は、ぼくが守らなくちゃ。


 ぼくは唇を引き結んで、手綱を握り直した。

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