狭間へ
「来る? とは? お兄様」
カノンがヒコの言葉に少し身構え警戒。
直後、ミシリと部屋中が軋むような音に包まれとてつもない重圧が襲ってくる。
脚に力を入れて踏ん張るカノンの横の空間に亀裂が入る。まるで稲妻のように薄く光りながらヒビが蠢く。
膝がガクガクと震え始め耐えきれなくなってきた頃、今度は熱風に晒されるような熱さがやってくる。
アレックスは目を閉じすべての事象を噛み締めるようにやり過ごしていく。
まだミコに馬乗りだけど。
バキバキと何かが割れるような音がだんだんフェードインしてきて、部屋が深い紫に染まる。
熱風と稲妻が吹き荒れる嵐の中にいるよう。
「こ、これは……」
カノンが呟きながら片膝をつく。体力には自信があるカノンだが、もう額に汗を滲ませている。
そしてそこに突風。なんとか傍らのソファを掴み踏ん張る。
染まった紫がトグロ状に渦巻いていた。
おぞましい光景だ。時折その紫のトグロは鈍く発光するように漂う。
その前に仁王立ちするのは、ヒコ。
「これはまあ……緊急事態ってやつだな」
頭を掻きながら振り返り、似つかわしくないさわやかスマイル。
「緊急事態な事ぐらいわかるっ! 何が起こったんだよ」
時々歯を食いしばりながらアレックスががなった。
もはやいつものニコニコ顔はない。
「おぃおぃ、アレックス。お前人の妹に跨って何やってんだよ、卑猥だぞ、訴訟もんだ」
「……別に跨がりたくて跨ってんじゃないょ……いや跨がりたいとは思うから俺の意思か? ってか、アレだよ」
「おおーアレか。アレな」
「そう、アレ。なんかすっげえモンが乗っかってるみてえに重たいんだよ、動けなーい!」
アレックスの腕がプルプルと震えている。
肘立ちをしているがもうミコをそのまま押しつぶしそうな勢い。
だが、なんとかミコを潰さないよう堪らえているアレックスを眺めながらヒコはふっと優しく笑う。
「なーに笑っちゃってんの!? なんとかしろよっ」
「……はいはい。もうちょっと待ってて」
いま、言葉通り、緊急事態発生。
どんどん紫に染まる部屋。
染まり尽くす部屋。
紫。
深く、深く、さらに深く。
深海へと落ちていくように。
もがいても、無駄。
すべては染まりゆく。
部屋は見る見る深い紫に覆われ、その色がやがて蠢いていく。
まるで巨大な生物の体内にでものみこまれたようだ。
ここは胃の中か、腸内か。
ドロリとした……見覚えがあった。
「こ、これはまさか……グリッスルの……」
堪らずカノンが汗を拭いながら呟いた。
「違う。いくら奴でもこのホテルに張られたガードは破れない」
「ではこの……緊急事態……とは」
カノンが踏ん張りながら立ち上がる。
敬愛するヒコに無様な姿は見せたくない、というプライドのような力で。
「ミコのチカラの……片鱗……だな、やっぱ」
「では、覚醒したと?」
「いやぁどう見ても無意識だろ。寝てるし……っておいおい!アレックス! もうミコに抱きついてるじゃねえか!?」
もはやアレックスの腕と脚の力はさすがに限界。
背筋に至っては今にも血しぶきあげて吹き飛びそうな感覚だ。
額には脂汗。
「うっせーよ、俺だってこんな形で抱きたくねえよ! お前がのんびりやってる間にどんどん重くなっちゃってんだよ! なにこれ? 俺にすっげーデブでも乗ってんの!?」
アレックスの自由を奪う重圧。
まともに体勢を維持できないぐらいに負荷がかかっていた。
ヒコは何も言わず部屋中を覆う濃厚な紫のガスみたいなものを見渡している。
「無意識……のチカラですか。今どんな状況なのでしょう」
カノンも見渡しながら聞いた。
「え? それ聞いちゃう? 言っちゃっていいの?」
「つ、つまり……?」
ヒコはニヤリと笑って、
「
「は?」
思わず声が上ずるカノン。
答えを聞いてもいまいち状況が掴めない。
狭間。多元界の狭間。
世界と世界を繋ぐ通路の外側。
どこでもない世界。暗黒。
広い宇宙の星と星の間の空間のような得体の知れない場所。
狭間には連盟が管理している場所も数箇所はある。
主にフラットランド=
そんな管理されてる場所でさえ、狭間側から抜け出し他世界に渡るのは不可能と言われている。
いま、その狭間。
しかも管理もされていない無数にある狭間のひとつにいることになる。
完全に数多の世界と隔絶された。
抜け出せない穴に囚われたようなものだ。
考えただけでゾッとする。
まさに浮力を失ったポッドで深海の、それも奥深い海溝へと沈んでいる気分。
目の前にあるのは永劫の闇みたいなもんだ。
「心配すんな。いま狭間にいるってだけよ。行先も決めないでポータルを生み出して使うとよくあることだ。ビビるこたぁ~ない。
そうだなー、最悪ここで俺らは終わるだけ」
「なるほど……最悪そうなると。しかし最期の時をお兄様と過ごせるのなら本望です」
カノンのある種の強がり。
でも本音でもあった。
「大丈夫。そうはならないよ。無意識に生み出されたけど、それはミコが無意識の中ではどこかに行きたいと思ったからだし。
しかもミコはこの八華の世界しか知らない。ってことは狭間に繋がっちゃったけど、そこから街のどこかに繋がって戻れるってことだ」
「素晴らしい読みです」
「戻らなかったら?」
アレックスが体勢を立て直しながら苦悶。
「だから最悪の場合になる」
「マジかよー……。そうなったら最後にミコちゃん抱きしめて逝くかー」
ニコニコ顔が戻っている。
現状、その最悪の事態の真っ只中だが、
いつだって、状況を楽しむ。
それが街賊だ。
嵐の中でも歌うような伝説的海賊に習った気質。
「ただ問題は……」
「なんですか? お兄様」
「ミコが死にかけてるってことだな」
紫に染まる部屋は心無しかまた温度が下がった。ドロドロと溶けだすキャンドルだ。
メルトダウン。
世界がこのまま溶けだすんだ。
深い紫の慟哭。ひび割れた空間が何者かの目に見えて身震い。
沈む、沈む、沈む。
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