名もなき朝の写真《北星秀、最期の撮影》

市來 茉莉

1.さよなら、ルミナリエ

 いつものことだが、辞めるというとオーナーに驚かれる。


「辞める!? 何故、写真のためなのか」

「はい、そうです」


 レストランオーナーである社長が面食らったまま、口を開けて言葉を失っていた。

 だがこの方もわかっているから、余計に驚いているのだと秀星も理解していた。


「申し訳ありません。四年間、お世話になりました」

「いや、……写真が第一だとは聞いていたし、趣味……いや、頑張っていることも知っていたよ。でもな、そのために働いていたんだろう。ここを続けながら、写真を撮っていたほうが生活ができるだろう」

「そうしますと、なかなか北海道には行けませんので。今回、思い切って決意をいたした次第です」

「はあ……、そう……か」


 社長室のデスクに悠然と座っていた彼が項垂れている。そして唸っている。

 いつか写真のためにここを辞めるかもしれないことは伝えていたから『その時がきた』と思っているのだろう。


「代わりにと言ってはいけないかもしれませんが、篠田がもうメートル・ドテルを任せられるかと思います。年齢的にもこれからキャリアを積んでいくのによい頃合いかと思います」


 また社長が唸っている……。


「そうだな。よく仕込んでくれたと思ってる。育ててくれて……。いや……、なかなか、下の者にその地位を譲れるもんじゃない。こういうときは、下の者がその地位を与えてくれるところへ転職していくもんだよ。あるいは君のような男なら、他の店に引き抜かれて行くもんだ」

「この仕事は続けるつもりです。生きていくことができませんので」

「だったら……」

「ですが。今後は北海道で暮らしていきます。それが念願でした……。両親も看取りましたし、法事なども落ち着きました。家族はなく、もう自分しかいません。篠田に任せられると思ったのも決意することができたひとつです」


 つまり秀星は身軽になってしまったのだ。それが拍車をかけた。あとは仕事をきちんと始末して発つことをすれば、念願の北海道住まいをすることができるようになったのだ。


 社長が震えた息を吐いたのを聞く――。


「休みを与えると言ったら? 十日でも半月でも……」


 引き留めてくれているとわかっている。有り難い申し出だが、特例は真面目に働いている他スタッフにとっても、良くない影響を運んでくるきっかけともなり得る。

 だから秀星はきっぱりと伝える。


「北海道で生活をすることが、次の写真活動でやりたいことなのです。申し訳ありません」


 眼を長く伏せ、彼がやっと決意してくれる。


「わかった。……後釜もきちんと置いていってくれる責任も果たしてくれている。でも、惜しいよ。もちろん、写真も応援している。気が済むまでやって、また神戸に戻ってくるなら声をかけてくれ。力になるよ」


「ありがとうございます。そして、お世話になりました。たくさん我が儘を聞いていただきました。感謝しております」

「すべて、責任をもってやってくれたからだ。そのうえで、写真をやっていたからだよ。むしろ、ギャルソンのほうが本職で天職だと俺は思っているくらいだよ」



 天職じゃないんです。僕の欲望のための仕事なのです。


 それすらも秀星は躊躇わず社長に告げた。

 かわらぬ決意に社長もなにも言わなくなった。






 スタッフに退職することを知らせた日のこと。

 その夜の仕事が終わり、ロッカーでギャルソンの制服から私服に着替えていると、その篠田が食ってかかってきた。


「はあ? 北海道に住みたいから辞めるってバカなんですか、嘘ですよね!? おかしいですよ、絶対に!」


 篠田は自分より少し年下、この店で出会ったギャルソンの後輩だった。

 熱血漢で意識が高く、そばにいる目上の秀星には、いつも食ってかかってくる。

 そんな熱い男に対して、秀星はいつもしらっと単調に流す。


「そうだよ。前から言っていただろ。僕は写真で生きているから、そのうちにここも辞めるかもしれないよと」

「バカにしているんですか!」


 いつも『バカ』という言葉を先にぶつけてくるヤツだったから、ひっそりと心の中でため息をついている。

 でも否定もできない。秀星は自分で自分のことを『バカ』だと認めているからだ。


「僕がいる間に、僕からメートル・ドテルの地位を奪う――だったよね。それができないうちに僕が逃げていくと、怒っているんだろ。僕を負かさない限り、篠田君は僕からバカと思われていると怒っているんだね。だとしたら、初めて僕は君のことをバカといいたよ、篠田君」


 俺も君もバカだ。

 大事なものに対して馬鹿になる。

 秀星は写真で、篠田はメートル・ドテル。彼こそが、この店に対して崇高な精神を傾けて働いてくれる真のメートル・ドテルだ。仕事を愛しているバカではあっても、『バカ』になんかしていない。

 それを彼にわかってほしいと、秀星は思っている。


 バカと言い放ったとはいえ、それもいつもの熱血漢からの勢い。

 淡々とした秀星の切り返しに我に返った篠田が、すぐに申し訳ない顔になってしゅんと肩をすぼめ小さくなる。


「誰もが桐生さんしかできないと思っているから、全信頼を寄せて任せているんですよ。それを捨てる? あっさり捨てられるものだったんですか。俺たちの店よりも、写真が――」


「僕には写真がいちばん大事。いつもそう言ってきたよね。それに篠田君。次のメートル・ドテル、社長に推薦しておいたから。僕が辞める日までOJTとして実務研修をしてもらうよ。それが終わったら、この店のメートル・ドテルは正式に君だ。君の目標が叶うんだよ。やってくれるよな」


 彼が驚いた顔で呆然と立ち尽くしている。

 ついに念願のメートル・ドテル、給仕長という地位が手に届いたからなのだろう。


 着替え終わり、ロッカーのドアを閉めた時には、彼もなにも言わなくなり、そのまま秀星を解放してくれた。



 深夜になった神戸の街へと出て、秀星は帰路につく。

 生まれは神奈川の小田原。この神戸に流れ着いたのは、かの有名なルミナリエを写真に撮りたかったからだった。

 あの光は美しく鮮やかだが、どこか儚く、そして追悼という哀愁を感じさせる。それを写真に撮りたくなって流れ着いた。


 四年。その間に年老いた父と母を続けて看取った。今年の冬、父と母を想って撮ったルミナリエ。そこで秀星は神戸での活動を終える決意をしていたのだ。


 独りになったいま。身軽になったからこそ、常々念願だった北海道へ移住することにした。

 まだ就職先は決まっていない。

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