第8話


 懐かしい草の匂いが鼻腔をくすぐる。耳を澄ませば聞こえてくるのは風に揺れるせせらぎ音。


 地平線の彼方まで稲が続き、見る者を魅了する黄金の大地。


 太陽の光と無限に広がっているのではないかと思わせる蒼穹の空。


 そんな空に悠悠自適に飛び回る小鳥や、稲から稲へと飛び移る羽虫達が、まるで外敵などいないと言わんばかりに自由に踊っている。


 ここはまるで宗教家が口を揃えて目指している理想郷そのものだ。


「これは……」


 気が付くと、カールはそんな見慣れぬ場所に立っていた。


 視界いっぱいに広がる黄金の景色は、今まで見てきたどんな素材よりも輝きに満ち溢れ、奇蹟的な光景として網膜に焼き付けられる。


「美しい……」


 それ以上の言葉は不要だった。


 これまで人は、自然に対して常に敵対行動を取ってきた。


 住む家を作る為に木を伐採し、村や街を作るために大地に生きる他の生物達を追い出す。


 更に欲に塗れた権力者が楽しむ為だけに、必要以上の生物を犠牲に出すことも多々あるだろう。


 どこまでも強欲な生き物である人間は、己の快楽を優先し、自然に生きる生き物達から様々な物を奪っていった。


 そんな中、人の手の加えられたことのないこの大地は正に圧巻で、どこまで人間が罪深い生き物かを叩き付けられるような気がした。


 傍若無人で自己中心的な人物。会う人間のほとんどがカールの事をそう評価する。


 そんな彼でさえ、この世界を崩してはいけないと心の底から思わさせられた。


「いったいここは……? それに私は確か……」


 直近の記憶を手繰り寄せようと、米神に指を当てて考えこむ。


 はっきり覚えているのは、あまりに幸せな一日であったため、橋の上で高笑いをしていたところまでだ。


 だがその後にも何かがあった。それは間違いないのだが、その何かをどうしても思い出すことが出来ない。


「くっ……何故だ、何故思い出せないのだっ!」


 思い出そうとすると何故か胸が苦しくなる。


 まるで巨漢の太い腕に抱かれているかのような、非常に暑く窮屈な感覚だ。


 その圧力はとても心地の良いモノとは言えず、不快な気持ちを全面的に押し出していた。


「ん?」


 そんな時、上空からひらひらと舞い落ちてきた純白の羽の存在に気付く。


 錬金術に使えそうな素材だと見れば体が勝手に反応してしまうカールは、咄嗟に手が動き掴み取った。


 吸い込まれそうなほど白いその羽根は、今まで見たこともない種類のモノで、不意にカールの心が跳ね上がる。


 そして一体どんな鳥の羽根だろうと期待を込めて視線を上げてみると、驚くべき光景を目にすることになった。


「ほう……」


 思わず感嘆の声が零れてしまう。


 視線の先にはつい先ほどまではいなかった筈の天使達。比喩ではなく、本当に天使がそこにいた。


 小さな、赤子程度の大きさしかない彼らは、背中に生えた小さな羽根をパタパタ自由に動かし、それはもう楽しそうに笑っている。


 これまでの長い旅路の中で、様々な生き物と出会い、様々な素材を見つけてきたが、天使を見たのは初めてだった。


 教会の聖書か娯楽用の物語にしか存在しないと思っていたが、どうやら現実にも存在したらしい。


 黄金の麦を愛おしそうに触れ、追いかけっこをする様子はまるで神話を描いた一枚の絵画のようだ。


 あまりに神々しい光の輝きに目を奪われてしまう。


 目の前に存在する美しい光景を前に、思い出そうとしていた過去など些細な問題のような気がしてくる。


 そうだ、思いだそうとしても苦しいだけならば、思い出さない方がいい。それよりも今はこの幻想的な景色を目に焼き付けることが重要ではないだろう。


 そう結論付けたカールはその場にどっしりと腰を落とし、満足げに寝転んだ。


 するとどうだろう、天使達が不思議そうな顔をして近づいて来るではないか。


 カールはそんな天使達を怯えさせないよう力を抜き、瞳を閉じる。


 それで安心したのか、天使達はそれぞれがペタペタとカールの頭や体に触れてきた。


 十ほどの天使達が恐る恐る触れてくるその小さな手は信じられないほど硬くゴツゴツしており、まるで鍛え上げられた戦士かオーガのように重圧のある安定感。


 何よりも先ほど目で見たときとは打って変わって随分と大きな手がカールの体を優しくまさぐり――


「待て、何かおかしい」


 違和感にパッと目を見開き勢いよく体を起こす。


 周囲にいるのは太陽のように輝かんばかりの笑顔で見つめてくる、マッチョ達がそこにいた。


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