ふうせん
栗須帳(くりす・とばり)
第1話 春、とある土曜日
店内に流れる大音量の音楽に混じって、様々な電子音がけたたましく鳴り響く。
そこに時折流れるアナウンス、勢いよく移動する玉の音が重なり、凄まじい不協和音が奏でられていく。
そこは、かつて娯楽の殿堂と呼ばれていたパチンコ店だった。
カラン……カランカラン……
「ふうぅっ……終わってしもた……」
白髪頭をかきながら、おじいさんが一つ大きな溜息をついた。
「今日は全然入らへんなんだな……えっと、何時や……もう9時半か……あんまし熱ぅなってこれ以上
そう言って、よれよれのハンチング帽をかぶったおじいさんは、もう一つ溜息をつくと立ち上がり、出口へと歩いていった。
カツ……カツ……カツ……
店に隣接する立体駐車場の階段を、おじいさんがゆっくりと上っていく。
店内の喧騒から解き放たれた駐車場は、まるで別世界のようにひっそりと静まり返っていた。
ポケットから煙草を取り出して火をつけ、白い息を溜息と一緒に吐き出す。
「あ~おいし……」
そう言って少し腰を伸ばし、もう一度白い息を吐いた。
「疲れたなぁ……」
カツ……カツ……カツ……
「ほんま、年寄りにはこたえるわな、この階段は……ええっと、車は……」
階段を上り終えたおじいさんが、辺りを見渡した。
「ああ、あったあった。最近物覚えも悪ぅなったけど、この車は古ぅて特徴あるさかいにな、すぐ分かるんや……ええと、鍵は、と……」
パン……パン……パン……
「ん……?」
静かな駐車場に、何かが軽く跳ねる音がした。
おじいさんが足元を見ると、小さな赤いボールがあった。
「赤いボール……なんや、なんでこんな所にボールがあるんや」
「こっちこっち! そのボールこっち! ほって! ほって!」
「ん……?」
声のする方向を見ると、そこには小さな女の子が手を振ってこちらを見ていた。
「子供がいてる……なんでこんな時間に子供がいてるんや……」
そうつぶやきながら、おじいさんはポケットから携帯灰皿を取り出し、煙草をもみ消した。
「ああそうか……父親か母親がここでパチンコやってるんやな……こないな時間までほったらかしにして、かわいそうに……まだ年かて、なんぼもならんでこの子……」
おじいさんの目元の皺が、少し深くなった。
「こっちこっち! ボール! ほってほって! 早く!」
「はいはい、年寄りにボール取らしてからに……はいボールやで、ボール」
ゆっくりとしゃがんでボールを取ったおじいさんが、女の子に向かって両手で投げた。
パン……パン……パン……
おじいさんが腰をさすりながらつぶやいた。
「やれやれ……さ、帰ろか」
パン……パン……パン……
「ん……?」
おじいさんが再び足元を見る。そこにはまた、女の子が投げたボールがあった。
「また来たがな」
「こっちこっち! ボール、こっちやって!」
「またかいな……ほぉら、ボールやで。ちゃんと持っときや」
おじいさんが女の子に向かってボールを投げる。
「これで終わりな。おっちゃん、もう帰るから。な」
そう言って、おじいさんは車の鍵を開けようと女の子に背を向けた。
パン……パン……パン……
「あらまた……お嬢ちゃんあのな、年いったら膝や腰曲げるん大変なんやで、痛いし。
それにおっちゃんしんどいからな、堪忍して。もう帰るから、ほぉら、これで最後やで」
すると、ボールを受け取った女の子はおじいさんのそばに来て、ボールをおじいさんに向けて言った。
「遊ぼ」
「は?」
「遊ぼ」
「いや……あのな、お嬢ちゃん。おっちゃん、もうしんどいさかいにな、帰って寝たいねん。せやから……な」
そう言って女の子の頭を撫でると、おじいさんは再び女の子に背を向けた。
車のドアを開けるおじいさんの耳に、女の子が遠ざかっていく足音が聞こえた。
「やれやれ……」
パン……パン……パン……
「あらまた」
おじいさんが呆れた口調でつぶやいた。
「お嬢ちゃん、堪忍してくれへん? あのな、おっちゃん家に帰りたいねん」
おじいさんがそう言うと、また女の子は近付いてきた。
「……そんなに遊びたい? お父さんは遊んでくれへんの?」
「お父さんパチンコ」
「はぁ」
「お父さん、パチンコしてるから遊んで」
「……」
小さく溜息をつくと、おじいさんは観念したように言った。
「……子供と遊ぶ
ほんだらお嬢ちゃん、ちょっとだけな。ちょっとだけやで。お父さんももうじき戻ってきはるやろ。その間だけ相手してあげるわな。
そやけど年やからな、あんまり派手なんは無理やで。何すんの」
「サッカー」
「サッカー……は無理やで……蹴ってもどこ飛んでいくか分からんしな。
ほんだらおっちゃんがボールほってあげるからな、投げあいっこしよ、な。
ほいなっ……蹴りなっちゃうのにこの子は……歩き回るんも年寄りにはこたえるんやで……
はいはい……よっとせ、やっとせ……
……なぁお嬢ちゃん、そろそろ堪忍してくれへんかな。おっちゃんほんま、これ……けっこう……えらいんやで……」
静まり返った駐車場で息を切らし、ぶつぶつ言いながらも、おじいさんはしばらく女の子に付き合った。女の子はおじいさんに何度も何度もボールを投げ、声をあげて笑っていた。
そうこうしている内に、女の子の両親らしき二人が駐車場にやってきた。
「あ、お嬢ちゃんよかったな、お父さんとお母さん、戻ってきはったで。
すんまへんなぁ、帰ろうとしてたらお嬢ちゃんが遊んでって
そう言っておじいさんが、女の子に赤いボールを手渡した。
「ほんだらお嬢ちゃん、バイバイな。お父さんとお母さんも帰ってきはったし、おっちゃんも帰って寝るわな。
……これ、服、引っ張ったらあかんて……また今度、な。
……って……引っ張ったらあかんて……」
「遊ぼ! もっと遊ぼ!」
「トモコ! 人に無理
父親の怒鳴り声に、トモコと呼ばれた女の子が体をビクリとさせ、そして小さくうなだれた。おじいさんは慌てて、
「な、トモコちゃん。お父さんもこない
そう言って、その場から逃げるように車に乗り込み、エンジンをかけた。
ガラガラガラ……
色褪せた白いバンの、乾いたエンジン音が響いた。
「やれやれ……」
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