Stage 01 First Game

「私」の日常 ①

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」――


 人はそう言うが、喉に酷い火傷の痕を残した者には分からない。私の元へ巡ってくる朝は、未だに輝かしさを失ったままだった。


「おはよ、レイ」

「……おはよう」


 目をこすりながらリビングへとやってきた母を一瞥し、テーブルについた私……氷崎ひさきれい は自分のグラスに水を注ぐ。


『天気予報です。今週は全国的に晴れの地域が多くなりそうですが、東海や関東は低気圧に覆われ、先週よりも気温の低い日が続きそうです』

「……」


 器へ移したヨーグルトを無機質に口へと運びながら、私はテレビに映る映像と新聞の一面を流し見していた。


「新聞取ってきてくれたの? ごめんねーお母さんがお寝坊さんで」

「別に。私が見たかっただけ」

 冷房を点けるべきか迷う室温の中、時間は緩やかに進んでいく。


『続いてのニュースです。一昨日、都内の進学校で起きた自殺未遂と見られる事件ですが、今朝新たな情報が――』


 不要な情報を遮断するようにテレビを切り、その場から立ち上がった。

「もういいの? もっとたくさん食べないとバテちゃうよ?」

「要らない」

「ええ……そうじゃなくても、ただでさえほっそりしててお母さん心配なのに」

「そんなこと気にしなくて良いから。自分の支度したら?」

 食い下がる母に構わず、私はキッチンへと食器を洗いに行った。意地を張っているわけでもなく、私には本当にこれで十分なのだ。


「はぁ……」

 歯を磨いたら最低限肌の手入れをしたのち、制服に着替えていく。


 楽しいこと、会いたい人……どこにも存在しない。分かっていても、私は毎日学校に行くし、毎日ここへ帰ってくる。

 ボタンを留め、ハイソックスの長さを整えたら、最後は紺色のカチューシャ。



 私は今日も、生きなければならない。



 午前七時一二分。妹を起こしに二階へ折り返す母を横目に、住処を後にした。


「……行ってきます」

 重い扉を開ければ、乾いた風が銀灰色の長髪をなびかせる。



────────────────



「ねえ見てあれ……氷崎(ひさき)さんじゃない⁉」


「えっほんとじゃん……うわ、背高っ!」


「近くで見てもやっぱり綺麗だね……」


「その上勉強も運動も凄いんでしょ?」


「完璧な人ってほんとにいるんだねー」


 ある女子高等学校の校舎4階、教室と窓に挟まれた廊下。

 何てことのない普遍的な場所なのだが、そこを歩く私は大勢の生徒の注目の的となっている。まるでランウェイを歩くファッションモデルみたいに。

 私がいるだけで、周りの人達は騒ぐ。自分でそうは思わないけれど、私はこの高校の中で最も美人だという評価を受けているらしい。

 それに加えて、彼女たちの言うように成績は常に上位、運動も決して苦手な方ではない。故にどんなときも、何をしていても、いくつもの視線を感じるし、少しばかり声援も飛んでくる。

 本来は喜ぶべきことなんだろうか。多くの人に自身の存在を認められるというのは、きっと喜ぶべきことだろう。

 だけど、少なくとも私にとって良いことはない。言ってしまえば煩わしいだけ。自分が他人からどう見られ、思われているかなんて気にもならないし、他人の事にも興味はない。自分を恥じるようなことのないように生きていられればいい、そう思っている。

 正直なところ彼女たちにはこんなことは辞めて自分のことに時間を使ってもらいたい。

 それに……


「でも、ちょっと怖いよね」


「何か私たちとは違う世界にいるみたいで、話しかけづらいっていうか――」

 彼女たちは私を持て囃すだけ持て囃しておきながら、近づくことはしない。何のためにそんなことをするのか、私には理解できないし、したいとも思わない。

 結果、自分以外の誰にも興味がない私は、ここへ入学して以来孤立しているといっても過言でない。このクラスに私の友達というものは一人も存在せず、そのような立場にいる私の日常生活は決して活気付いたものではない。


 私の人生を色で表すなら、くすんだ灰色から変わることはないだろう。


 校舎の外へ出ると、丁度下校時刻を知らせるチャイムが鳴る。

 放課後といえばほとんどの場合、風紀委員の仕事をするかそのまま下校するかのどちらか。部活動なんてものはやろうと思ったことがない。

 いずれの場合も、私は真っ直ぐ下校をする。自宅までの道のりを淡々と同じ歩調で進む、ただそれだけ。

 一緒に寄り道をするような人はいない。作ろうとも思わない。


「あれ……今、氷崎さんいなかった?」

「気のせいでしょー」


 吹き抜ける風の音も。道路を行き交う車両の音も。はたまた遠くから微かに聞こえてくる、楽しそうに話し歩く他の生徒たちの声も。

 私にはただの雑音にしか聞こえない。

 高校周辺を超えてからは、可能な限り人通りの少ない、薄暗く静かな道を歩くようにしている。それもあってか、私の足音はより虚しく単調なリズムで響く。

 その音を漏れなく耳に入れる私の感情も、少なからず空虚なものになるのは想像に難くないだろう。

 それでも、沢山の生徒の目につきながら帰るよりは余程良い。そう思うことにしている。

 どんな時だって、私は一人だ。


「ただいま」

 自宅に辿り着いた私は、ゆっくりと玄関のドアを開ける。

「おかえりー。リョウカが遊んでほしいって二階でずっと待ってたよ」

「……そう」

 声を掛けてきた母の方を振り向きもせず、私は冷淡な返答をする。私を出迎える彼女の声が常に雲のように柔らかく和やかなものだから、私の声は一層素っ気なく聞こえてしまうだろう。


 私の住んでいる家は、何の変哲もない普通の一軒家。特段裕福でも貧困でもない。

 母と、妹と。

 ただ毎日、食卓を囲んで。

 家を出るときと帰ってきたときに一言告げて。

 まだ小さい妹が遊んでほしいとかまってきて。


 私にとっての日常はそれだけ。たったそれだけなのだ。


「……」

 洗面台の前に立った私は、意味もなく顔から水を被る。濡れた前髪の張り付くような感触を味わうとともに、考え事に暮れた頭をリセットする。


 ――それでも今、私は寂しいなどとは微塵も感じていない。


 傍から見れば毎日を無為に過ごしているような私でも、辛うじて趣味と呼べそうなものはあるのだ。タオルで顔や手を拭き終えると、私は学生鞄を持って自分の部屋へと階段を上っていく。


 果たしてへ向けた感情が「好き」であるかどうかは分からない。だけど、一つだけ確かなことがある。

 その趣味に没頭している間だけは、煩わしいものが一切なくなり、私が「私」でいられるのだ。

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