追憶の果て、青の住処

静 霧一

追憶の果て、青の住処(上)

 

「何で来ちゃうのよ、もう」

 瑞葉はふんと白い頬を赤く膨らませそっぽを向いた。


「仕方ないだろう、俺もここに来るなんて思ってなかったよ」

 修也は彼女に向ってぽつりと呟いた。


「ねぇ、ここって不思議な場所じゃない?」

 彼女は遠くに沈みかける夕日を見つめながら、寂しげに言った。


「どこが不思議なんだ?」

 あたりを見渡すと、一面、水面であった。

 確かに不思議な景色ではあるが、修也にとってそれはどこかで見たことがあるような景色で、不思議という感情は湧いては来なかった。


「そっか、修也君はここ知ってるもんね。私はここしか知らないんだ」

 彼女は沈みゆく夕日を眺めながら呟いた。


 修也は何かを思い出そうとしたがしたが、一向に思い出すことができない。

 まるで、記憶に硬い錠が掛けられているようであった。


 ふと、目線を下げると彼女の左手にはこげ茶色のヴァイオリンが握られていた。

 それはまるで彼女の体の一部のように溶け込んでおり、ヴァイオリンもまた彼女と溶け込んでいた。


「ねぇ、修也君」

「どうした?」

「私ね、ヴァイオリニストになるのが夢だったんだ」

「そんなの知ってるよ。幼稚園生の時から言ってたじゃないか」

「そうだよね。修也君、私のことなんでも知ってるもんね」

 彼女は悲しげな表情を見せた。


「ねぇ、一曲演奏していい?」

「いいよ。久しぶりに瑞葉の演奏聞きたいな」


 そういうと彼女は微笑み、あご当てに優しくあごを乗せ、弓を構えた。

 ゆっくりとした音色が、澄み渡る空気を震わせる。


 それは瑞葉の好きな曲、「G線上のアリア」であった。

 音がヴァイオリンから零れだし、そして水の上をどこまでも滑っていく。

 指がなめらかに弦の上を踊り、弓を持つ白い腕が風を描き、まるで彼女が世界の中心であるかのような、そんな荘厳美さえ感じる。

 旋律が彼の思考のしがらみをゆっくりと溶かしていった。


「どうして……どうして……」

 そんな優しい音に、ふと、修也の瞳から涙が溢れ出す。

 彼女の顔は、微笑んでいた。

 彼の中で、記憶の錠がパキンパキンと音を立てて崩れてゆく。


『―――あぁ、そうか』

 修也はゆっくりと瞳を閉じた。


 ◆


「ねぇ、私ここにいってみたいな」

「えー、ここどこだよ」

「ボリビア!」

「ボリビア?」

「そう!ボリビア!」


 修也はため息をついた。

 今まで幼馴染だからと散々わがままを聞いてきたが、こんな大胆なわがままは初めてであった。


 高校2年生の7月、ちょうど梅雨の明けた初夏を迎えたころのことである。

 放課後の教室でスマホン画面を広げながら瑞葉が指を指していたのは「ウユニ塩湖」であった。


「おいおい、俺たちまだ高校生だぜ?そもそもそんな遠くまで行けないだろ」

「えー、行きたい行きたい」

「もー、うるさいなー。瑞葉お金持ってるの?」

 そういうと、瑞葉は得意げな顔をし、にししと笑った。


「金なら、ある!」

 そのどや顔が鼻についたのか、修也は舌打ちをした。

 だが、それは既知の事実であって否定することはできない。


 彼女はヴァイオリニストであった。

 ヴァイオリニストといっても、プロとして活躍しているわけではない。

 あくまでもその域はアマチュアではあるが、すでにその腕前はプロ顔負けであった。

 コンクールに出ては何度も優勝し、賞金を使うことなく貯め続けているのだ。


 修也と瑞葉は有名な私立高校の音楽科に所属している。

 瑞葉はその高校の弦楽器専門の特待生として入学しており、修也はその後を追いかけるように一般受験で入学している。


 修也は作曲専門であった。

 ピアノが多少弾けるものの、その才能は日の目を見ることがなく、それに早くも区切りをつけ作曲という道を選んだのだ。


 修也が作曲専門を選んだ理由も瑞葉にあった。

 彼女の才能は目覚ましいもので、難関といわれる曲でさえも、弾けてしまうほどの天才であった。

 それゆえにどこかいつも曲を弾く際は物悲し気な顔をしていた。


 以前、「どうして弾くときにいつも悲しそうなんだ」と聞いたことがあった。

 すると彼女は「だって、こんな曲うまく弾けたってこれは私の曲じゃないんだもの。みんなは感動してくれるけど、私はただ楽譜にそって演奏しているだけ。なんかね、つまらないの」と口にしたことがあった。


 修也はその意味が理解できなかった。


 凡才の彼にとって、難関な曲が綺麗に弾けるほどの喜びはない。

 拍手喝采を浴びることができたのなら、どれだけの嬉しさがこみ上げるだろうか。

 自分が凡才であることをどれだけ悲観しただろうか。


 だから、幼馴染である瑞葉には嫉妬もしたし、憧れもした。

 だが、当の本人である彼女がその先に見たものは虚無であった。


 天才の悲観を凡才が慰めるなど滑稽にもほどがある。

 そう思った修也は、自分が弾いてきたピアノの夢を捨て、そして新たに、彼女のために曲を作ると決心したのだ。


 そうはいっても、未だ彼女のための曲ができてはいない。

 どれもこれも当たり障りない平凡なものばかりで、修也の心はもはや消耗しきっていた。


 知ってか知らずか、そのタイミングで瑞葉はいきなりウユニ塩湖に行こうと言い出したのだ。

 修也は呆れはしたものの、本心は行ってみたいと動かされていた。


 彼にとって行く先はどこでもよかった。この枯れ果てた心が晴れてくれるのなら。

 そんなことを思いながら、修也は瑞葉の笑顔に釣られて笑いだす。

 初夏の爽やかな青い風が教室のカーテンをたなびかせ、外では小さく蝉が鳴き始めていた。


 ◆


 夏祭りの喧騒。花火の繚乱。

 まるで夢幻のような泡沫の夏の一時に、それは起こった。


『―――瑞葉が交通事故に巻き込まれた!』

 一瞬、電話口の瑞葉の祖母が何を言っているのかわからなかった。

 修也は急いで瑞葉が搬送された病院へと向かう。

 そこには瑞葉の祖母と学校のクラス担任である鷹羽がすでに到着していた。


「瑞葉は!瑞葉はどうなったんですか!」

「落ち着け高村!落ち着け!」


 鷹羽が必死に修也の肩を揺さぶる。

 その圧に押され、修也の取り乱した心が徐々に落ち着きを取り戻していく。

 未だ、手術中の赤い光が灯っている。


「警察からも状況だけは聞いているから、俺が言える範囲で伝えるが取り乱さないでくれよ」

 修也は無言で頷いた。


 瑞葉は父と母、そして弟の4人とともに夏祭りに出かけていた。

 その帰り道、車を運転中に信号無視をしてきたトラックと正面衝突をし、交通事故に巻き込まれたのだという。


 前方の席に乗っていた父と母、そして運転席の後ろ側の席に座っていた弟は即死。

 助手席後方の席にいた瑞葉だけがなんとか生存したものの、出血多量で危うい状況にあるという。


 あまりにも悲惨であった。

 その上、トラックの運転手は無傷であり、信号無視の原因が飲酒運転によるものだというのだから、こんなにもふざけた話はない。

 それから手術は5時間にも及び、手術中の灯りが消えたころには朝日が顔を出していた。


「なんとか助かりましたが……右腕上腕部の圧迫が酷い状態にあったために、止む無く切断を致しました」


 その言葉に待合室はシンと静まり返った。

 もはやそこに感情は介在しない。

 無言のまま、ICUへと行きつくが、そこには麻酔から覚めたばかりで意識の昏倒している瑞葉の姿があった。


 人工呼吸器を取り付けたまま、心電図のモニターが正常に心音を鳴らしている。

 恐る恐る瑞葉の顔から視線を下すと、そこに彼女の右腕は存在していなかった。

 修也の瞳からは涙が零れ落ちた。


 ◆


 平凡な日常が続くと思っていた。

 馬鹿みたいに笑いながら、必死に音楽を追求するあの日々が続くものだと思っていた。


 なんて呑気だったのだろう。

 彼女のわがままをもっと聞いてやるべきだった。

 不貞腐れていないで、もっと曲を作るべきだった。

 そして、もっとありがとうと言えばよかった。


 だがそれはもう叶わぬ夢。

 修也は薄暗い部屋の中で、独り蹲っていた。


 彼女はその後、亡き人となった。

 あの事故の後、手術により一命を取り留めた瑞葉であったが、自分以外の家族が死んでしまたこと、そして右腕がなくなったことにより、ヴァイオリンを弾くことができなかったことに絶望し、彼女は病院の屋上から身を投げた。


 病室に遺書は残っていなかった。

 テーブルの上には弦を切られたヴァイオリンと、弦を切ったであろうハサミだけが無造作に置いてあったのらしい。


 この時、修也の中の大切なものが弾け飛んだ音がした。

 修也の心が空になってしまったのも、この時からであった。


 彼の親は、彼を散々に慰めたが、そんなもので心が埋まるはずもない。

 高校はなんとか卒業したものの、必死に追い求めていたはずの楽譜はもはや紙屑同然の代物となってしまい、今では押し入れの中で埃を被っている。


 彼女がこの世からいなくなってから3年の月日が経った。

 あの日から、修也の時間は止まったままで、身体だけが大きくなっていった。


 大学へは進学することなく、実家でただただ惰性を貪っていた。

 何度も就職をしろと親からも言われていたが、高卒の行く当てなど肉体労働しかないと決めつけていたためか、就職をする気など滅法なかったのだ。


 だが、実家でゴロゴロするだけというのも気が引けたために、近くに出来たイタリアンレストランでのホールのアルバイトをはじめ、微々たる生活費だけは毎月入れるようになった。

 そんなある日の土曜日、昼休憩を取っていた修也は、同じくホールで働く2歳年下の星宮と珍しく休憩が被った。


 彼女は音大の学生であった。

 細くて白い指が印象的で、修也の目測通り、ピアノを専攻していた。


 修也の働くイタリアンレストランには、グランドピアノが一台置かれていた。

 店長曰く、ここを取り仕切るオーナーが大のピアノ好きらしく、経営するお店には必ずピアノを一台設置しているのだと聞いたことがあった。


 星宮はそこでよく、ピアノを演奏していた。

 音大に通っているだけあって、その演奏はレベルが高く、演奏後の店内はよく拍手が鳴り響いていた。

 その間、修也はよく厨房へと逃げていた。


 決して聞きたくないわけじゃない。だが、心が音を拒絶したのだ。

 そんなもんだから、星宮と休憩中に居合わせてしまうのは、彼にとって気が引けることであった。

 かといって休憩できる場所など事務所以外にどこにもない。

 重苦しい空気だけが事務所の中に淀んだ。


「―――あの、高村さん」

 突然声をかけられたことに修也は動転する。


「は、はい」

 思わず彼の声が裏返った。


「高村さんって、西朋高校出身なんですか?」

「え、えぇ、まぁ……」

「あそこ、音楽科めちゃくちゃ有名ですよね。何かやってらっしゃったんですか?」


 星宮は身を乗り出して質問を詰める。

 修也は体を強張らせた。


「いや、まぁ、ピアノと作曲を少しだけ……」

「作曲出来るんですか!すごいじゃないですか!どんな楽譜をお書きになるんですか!」


 星宮の熱が上がっていく。

 だが修也の心はその言葉に、だんだんと熱を失っていった。


「今は書いてないです。ピアノも弾いてません……」

「どうしてですか?」

「それは……」


 言葉を言いかけたその瞬間、事務所の扉がガチャリと空き、店長が顔を出した。

 その手には白いお皿が乗っており、その上にはまかないのトマトパスタが踊っていた。


「これ食って、午後も元気よく働いてくれよ!」

 そういうと、店長はまたすぐに厨房へと戻っていった。

 結局その日は何も話さぬままアルバイトを終えた。


 帰り道、深いため息が漏れだした。

 このままじゃいけないとわかっていても、修也にはその先へ進む勇気がなかった。

 進めばそのまま闇に転落してしまうんじゃないかと怯えていた。


 その日から、押し入れの中にしまったはずの楽譜がどうしようもなく気になってしまっている。

 聞こえぬはずの音が押し入れの隙間から漏れ出しているような気がして、修也は隙間が開かぬよう、ガムテープでしっかりと閉め切った。


 彼女のために書いた曲が、音を立てずにただ眠っている。

 たったそれだけのことなのに、修也は眠れぬ夜を過ごしていた。

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