1-3 僕には探偵に払うお金の持ち合わせがない。
「お金は、ないんです」
僕は魔女の肩をつかんでその歩みを止め、虹色の目を真正面から見て、屈辱的な事実をはっきりと宣言せねばならなかった。
お金は、ない。
僕の懐にはカッターナイフと交通費しかなく、これらはどちらも、魔女に差し出すにはためらわれるものだった。
そもそも探偵への依頼料など、高校生の身分で用意できるものだろうか? 僕は相場さえ調べていなかった。なぜなら支払うつもりがなかったからだ。
僕の当初の予定はこうだ――
姉殺しの犯人を探してほしいと探偵に依頼する。そうして僕から色々なことを聞き取っていくうちに、姉を殺すことなど不可能だということが探偵に伝わる。
すると探偵としては『犯人など探しようがない』というまっとうな反論をしてくるだろう。そこで僕はこう切り返すわけだ。
『いいえ、違います。姉は殺されたんです。たしかに死んだと、僕は知っています』
支離滅裂だが、それでいい。僕が探偵に望むものは調査ではなく狂気の証明だ。
魔女を名乗るような頭のおかしな探偵に『あいつはたしかにおかしかった』と言わせればその時点で僕の計画の通りなのだから。
だが、その『こちらから事情を話す』というフェイズが、極めて魔術的な手法によりスキップされてしまった。
さらに、僕が人殺しをほのめかし、そのために利用しているのだと明かし、ついには『このままでは共犯者になるぞ』という旨のことを述べても、この魔女はまったく引き下がらない。
倫理観というブレーキが、ない。
保身という安全装置が、ない。
僕は僕の狂気を証明する人材に、ある程度の常識を期待していた。
人のものを盗むのはいけない。人を殺すのはいけない。出会ったばかりの頭のおかしい高校生と共犯になりたいわけがない。――そういう常識だ。
だけれど僕の計画は、『相手が魔女』という理由によってすっかりご破算になったのだった。
……念のために確認しておきたい。
僕は、魔女なんていう与太話を信じてはいなかった。これは間違いない。
あくまでも魔女を名乗る頭のおかしい人を求めていただけだ。これも間違いない。
だから、相手が本物の魔女である可能性など、一考さえしていなかった。
……いや、想定している方がおかしいだろう。
僕は狂気を装いたいだけの――狂気なんて装うしかないと思っているだけの、悲しいほどにまともな人間なのだから。
気付けばあたりは夕暮れに染まりつつあった。
……魔女の足を今このタイミングで止めたのはただのなりゆきだけれど、助かった。
このまま歩き続けると大通りに出る。そろそろ下校時刻になっているから、きっと、僕と同じ学校に通う人たちがそこには大勢いるだろう。
僕はなるべく彼らとでくわすのを避けたいと思っていた。
なぜって……理由は多くあるが、その最たるものは、学校をさぼっているからだ。
僕が制服姿でスクールバッグを持っているのも、狂気の証明の一環にすぎないのだ。
魔女の探偵事務所に実際に行ったのだと目撃されるために、高校生が平日の日中にまず出歩かないあたりを、高校生だと全方位に示すかたちで出歩いているにすぎない。
しかしこの姿を同じ学校の生徒に見られるのはばつが悪いというか、面倒くさいというか……クラスメイトにでも見つかろうものなら、弁解すべきことが増えてしまい、はっきり言うと、わずらわしかった。
魔女はじっとこちらを見ている。
気まずいにもほどがあった。魔女を直視できない……視線を逸らせばそこには、車が停まっているのを一度も見たことがないさびれたコインパーキングがある。
錆びた金属のフェンスに囲まれたそこの周囲は背の高い茶色い雑草がぼうぼうに生えていた。
それは土のところだけではなく、パーキング内の地面のあたりにも侵食している。生命の力強さを感じさせた。あの強さが僕の心にも欲しいと切に思った。
百パーセント僕が悪いだけに、極めて居心地の悪い沈黙が続いている。
顔を背けたまま、魔女をチラリと見る。芸術品のような顔面はまっすぐにこちらを向いていて、そこにはなんの表情も浮かんでいない。
気まずさに押しつぶされて、肺から悲鳴だか弁明だかわからないものが漏れかけたタイミングで、ようやく魔女は口を開いた。
「君、説明書とか読むタイプだよね」
「え? ま、まあ、わりと読みますね……?」
「……なるほどね。目に入れてたけど意識に入れてなかったんだ。ふぅん」
「なんですか……」
「安心していいよ。私は、探偵業でお金はとらないんだ」
「え? そうなんですか?」
「うん。支払いについての項目として、ホームページに明記してあるよ」
……そりゃあ。
僕が魔女の探偵事務所なんていうものをどうやって見つけたかといえば、インターネットで頭のおかしそうな探偵を探す過程で、そのホームページにたどり着いたからなのだが……
魔女の口から実際に『ホームページ』なんていう言葉が出てくると、なんだか夢が壊れる気がした。
そのみょうに現実的な単語が発せられたせいか、ふと現実的な疑問がわいてしまった。
「あの、探偵業でお金をとらないなら、生活費とかどうなさっているんですか?」
「コンビニバイト」
「魔女がコンビニでバイトとかしないで」
「でも、魔女も生きているんだよ」
「探偵業なり魔女業なりでお金をとったらいいのに」
「それはできない。なぜなら、需要がないから」
「需要」
「そう。需要。月々の決まった額の収入は、魔女や探偵という職業では得られない」
「そりゃあそうなんでしょうけど……そもそも、コンビニバイトは成立してるんですか? あなたのことを直視するのには、資格がいるんでしょう?」
「『私』を目的とすればそうだね。でも、コンビニで店員を『店員』以上の存在として認識すること、そんなにある?」
「ああ……」
つまりは背景に徹する限りにおいて、彼女は人として営むのになんの支障もないということなのだろうか?
よくわからない。……この、謎めいた、直視しがたい、芸術品のような女性にも、生活があって、ダイレクトメールとかが来て、給料が振り込まれて、というのは、想像しがたいというか、したくなかった。
コンビニで『いらっしゃいませ』とか言って欲しくない存在ランキングがあるとすれば、魔女はけっこう、上位の方に位置するだろう。
というか……
「すいません、一つだけ、あと一つだけどうでもいい疑問を解消させてください」
「まあ、いくらでもいいけど。一つだけね。君が言うならそうしよう。歩きながらでいい? あんまり足を止めてると目的の人物と合流できなくなるでしょ?」
「ああ、はい。歩きましょう……それで、あの……髪の長さとか、注意されないんですか? その長さの髪はあらゆる職業で『切れ』と言われると思うんですけど」
「そうか、君には私の髪が長く見えてるんだったね。色は黒だっけ。心配ないよ」
「え?」
「そんなわけで、君から徴収する依頼料は金銭ではないんだよ」
唐突に話が依頼料の方向へと振られた。
……いや、たぶん、これは、僕が『あと一つだけ』と質問の数を区切ったからだ。『あと一つだけ』の質問が終わったので、話を戻した。それだけなのだろう。
とはいえその話題の転換についていけるほどの切り替えのよさが僕にはなく、あっけにとられているうちに、魔女は補足説明じみたことを始めた。
「依頼料については……今、スマホかなんかで検索すればわかるんだけれど、おすすめはしないかな」
「……ええっと……それは、見てしまうとなにか、悪いことが起こる、みたいな?」
「いや。支払うものがなにかわからなくて、まごついている君の姿が面白いから」
「嗜好の問題⁉︎」
「嗜好品というか生きる糧なんだけれどね。……まあ、検索するなら止めないけど、私のやる気は間違いなく落ちるね。もっとも、ここからやる気を出すべき工程が一つもないので、問題はないのかもしれないけど……」
「そういえば達成してるって言ってましたけど、犯人が誰で、どこにいるかは、わかってるんですか?」
「え? 今さらその質問をするの? 私が君のことをなんでもわかっているというのは、すでに共通認識だと思ってたけど」
おどろかれた。
……そして、たしかに、こんな質問は、なんとも白々しい。
僕は、狂気の証明として探偵のもとをたずねたにすぎない。
彼らに調査など、最初から求めていなかった。
つまり、それは。
「君、犯人の顔も名前も所在も、連絡先さえ、知ってるじゃない」
……そういうことに、他ならなかった。
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