小野島診療所

羽鳥湊

診療所の日常

 街に一軒しかない診療所では、内科とか外科とかそういう細かいことを言っている余裕はない。

 行けばなんでも診てくれるし、かかりつけもなにもそこでしか診察を受ける余地がない。他の病院までは車で1時間半以上かかるこの地では、セカンドオピニオンなど遠い世界の御伽噺。


 院長先生と、その息子の若先生が診察する診療所は、連日老人の溜まり場になっている。

「おーくーすーり、だしときまーすーねー」

 耳の遠い患者ばかりで自然と診察の声は大きくなり、それは診察室の壁を超えて待合室まで聞こえてくる。

 だから基本的にプライバシーなどというものはない。

 他の患者の状況が深刻でもそうでなくても、それがつつぬけ。

 それがこの『小野島おのじま診療所』である。


「はい。足曲げるよー。ここ、痛い?」

 若先生こと小野島真治おのじままさはるは三十八歳。

 医大を出てから数年都会の病院に勤務した後、そろそろ帰ってきて欲しいと懇願していた院長こと父の正明まさあきの説得によりしぶしぶ帰郷して、診察を手伝っている。


「痛いよ先生」

「どの辺が痛い?」

「全部」

「足のどの辺?」

「だから全部」

「足全部?」

「いや体全部」

「うーん…。そうじゃなくってさあ…」

 毎日毎日あちこちが痛い患者は基本的に医師の話を真剣に聞いていない。待合室でのお喋りが主な目的なのである。これでは治るものも治らないと真治は頭を抱えているが、患者は細かいことを気にせず毎日通ってくる。

 だから診療所はいつも賑わっている。 

「加藤さん。次は来週でいいって言ったでしょ」

「そんなこと言ったって、痛かったんだもん」

「薬効かない?」

「飲んでね」

「痛かったらちゃんと飲んでって言ったでしょ」

「でもこの痛みがあんな薬ごときじゃ治んねえよ。若先生、素直に言ってくれ。俺、もう長くねえんだろ?」

「加藤さんはただの骨折です」

「またそうやって隠して。あちこち痛いんだぞ?」

「歳をとってるんだから仕方ないでしょ。で、どうする?注射するの?」

「注射は、嫌だな」

「じゃあ、診察だけでいい?」

「若先生、触りもしねえでおしまいかい?痛えんだって。酒飲まねえと寝れねえんだよ」

「触ったら痛いでしょ。しかも、お酒は飲んだら駄目って言ったでしょ。この前出した薬を飲み切るまでは駄目です」


 毎日繰り返される、同じ内容の会話。

 それでも真面目は真治は丁寧に診察をする。

 相手にすることを諦めている正明と違い、真剣に話を聞いてくれる真治は患者に絶大な人気を誇る。診察時間はなかなかトイレにも行けないほどだ。


「じゃあ、俺が寝れなくてもいいのかよ」

「だから、薬を飲んで下さいってば」


 今日も診察室の外では笑い声が聞こえる。

 みんな元気じゃないかと投げ出したくなる気持ちを抑えて、今日も真治は目の前の患者とカルテと向き合う。


「分かった。じゃあ、明日また来る」

「来なくていいです。来週またお会いしましょうね」

 本当に。お願いだからと真治は心の中で付け足した。


「はーい、加藤さん診察のお会計お願いしますぅ」

 お上品な受付の原田薫子はらだかおるこ(通称薫子さん)は、ピンク色が大好きな五十五歳。

 ショッキングピンクではなくパステルなピンクが好きな薫子さんは、物腰もふんわり柔らかい。


「処方箋は?」

「加藤さんは処方箋、出てないですねぇ」

「薬もらえないのかい?」

「この前、お渡ししませんでしたっけ?」

「もらったけど。今日もせっかくきたのになあ」

「うふふ。お薬いっぱいもらってもしょうがないでしょう」

「そりゃそうだ。がはは」


 いつもの冗談にも愛想よく返せる優しい薫子さんは、患者さんにも人気が高い。

 お人好しの真治先生と、優しい薫子さんの人気で、この診療所はいつも賑わっている。

 患者さんは二時間でも三時間でも名前が呼ばれるのを待つし、診察が終わったからといって素直には帰らない。家族が迎えに来てようやく重い腰を上げる人も少なくない。


「すいませーん。うちのおじいちゃん来てますかー?」

「あ。ほらお迎えきたよ幸雄さん」

「はいはい。じゃあお先に失礼」

「またねー」

 まるで小学生の帰り際のような別れの挨拶に、薫子さんは微笑む。

 診察室では真治が一生懸命大きな声を張り上げている。

「だからこの目薬をー」

「え?めざし?」

「めーぐーすーりー!」


 ちなみに院長は院長室で口を開けてお昼寝している。

 小野島診療所の日々は、こうして過ぎていく。

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