カンブリア・ヒルズ
大橋 知誉
黒い球 (1)
ノートパソコンの画面の右端に小さな黒い点を見つけたのは三ヶ月前のことだった。画面にゴミでもついたのかと思ってティッシュで拭いてみるも取れない。ボールペンか油性ペンのインクでも飛んだのかな?とその時はそれ以上気にせず忘れてしまった。
それから数日後に、その黒い点が少し大きくなっていることに気がついた。ゴマより少し大きめの、黒くてまんまるの染みだ。
モニターに傷でもついてるのかな?嫌だな…と思ってよくよく見てみると、画面についているのではなくて、なんとそれは、数ミリ離れた空中に浮いているのだとわかった。
あまりに真っ黒なので、平面なのか立体なのか判別が難しかったが、どうやら完全な球体をしているようだった。
素手で触るのは少し勇気がいったので、プラスチックの定規でツンツンしてみたところ、浮いた状態のまま動くようだった。
しめたと思ってそのまま少しずつ動かして、生活の邪魔にならない部屋の隅へと持っていった。
ちょうど目の高さになるよう調整し、改めて観察してみると、先程はなかった微かな渦のようなものが、黒い球の周りにできていた。
渦はゆっくり回転しながら黒い球へと吸い込まれているようで、数秒見ていたら、スルスルと黒い球へと入って消えてしまった。
その後しばらく球を見ていたが、それ以上の変化はしなかった。
何だろうこれは…何か新種の虫だろうか??
それから数日間、その物体を観察していたが、何の変化もないまま時が過ぎ、ちょうど年末になったので、1週間ほど実家に帰らねばならなくなった。
留守の間、この黒いやつをどうしようか悩んだ。今年は予定があると言って帰るのをやめようか…。
いやいや、両親は元気とは言え高齢だ、こんなもののために正月に会わずに後で後悔するのはごめんだ…。
こいつを部屋に放置して長期間家を開けるのは少々不安であったが、外に出してそれっきりになってしまっても何だか寂しい。
しかたない、このままにして行くか…。
どういう理屈かわからないが、妙にこの物体が好きになりはじめていたのだ。
これまでも大して変化はないのだから、大丈夫であろう…。
こうして僕は、そいつを放置して実家に帰った。
実家ではいつもの通りに親戚が集まり賑やかな正月だったが、僕は家に残してきた黒いやつが気になって、ずっと心ここにあらずの状態で過ごしていた。
そんな俺の様子に気がついたのは母親だけで、何度か気にかけて声をかけてくれたが、黒い球のことを話すわけにもいかず、何でもない、大丈夫だからとその度にはぐらかしていた。
母親は失恋でもしたのではないかと踏んでいるようだったが、残念ながら僕にはそんな浮いた話はないのだった。
母さん…俺は女の子より黒い球が気になっているんだよ。。
長い長い正月休みが終わり、僕は1週間ぶりに我が家へと帰ってきた。
そして真っ先に例の黒い球を確認した。
黒い球は、ちょうどピンポン玉くらいの大きさになっていた。
相変わらず光も反射しないほど真っ黒だ。この大きさになると、この黒さは異常に思えて少し怖くなってきた。
で、よくよく見ると、球の周囲がもやもや揺らいで見えることに気がついた。
何かガスのようなものが出ているのだろうか? それとも球がものすごく熱くなっているとか?
すっかり球をいじる専用になってしまった定規を取り出しツンツンしてから、球に触れた面を触ってみるも、特に熱などは感じなかった。
これはもう、僕ひとりでは処理しきれないと判断し、友達のケンタを呼んだ。
ケンタは同僚のエンジニアなのだが、学生時代に物理学を専攻してた天才だ。彼ならこれが何だか知っているかもしれない。
例の物体を見せると、ケンタはしばらく黙って球を見ていた。そして肩をすくめた。
「何だろうこれ。僕にも全く見当がつかないよ。」
ケンタはいろいろな角度から球を観察し、定規や紙、ハンカチ、スプーンなど、様々な素材のもので、つついたり動かしたりしていた。
「そういえば、この周りに渦のようなものが出たことがあったと言ってたね?」
僕がうなずくと、ケンタはポケットから煙草を取り出すと火をつけた。この部屋は禁煙だったが、ケンタが何か思いついたのだろうと僕は黙って見ていた。
ふーっと煙草の煙が黒い球にかかると、シュルシュルシュルと煙が渦を巻き、球に吸い込まれていった。それはまるで高性能の空気清浄機の吸い込み口のようだった。
「なるほど…」
ケンタはポケットから携帯灰皿を出し火を消すと、振り返って言った。
「これは僕の知っている限りで、この世に存在するいかなる物体とも似ていない。つまり、未知の物体である可能性が高い。
まずは、この色だけど、どんな光も反射していない、つまり光を吸収しているんだ。紫外線なども吸収しているのかは肉眼ではわからないが…。
それから、いろいろな物でも触れてみたけど、その中には球と目立って反応するものはなかったようだ。断言はできないが、そんなに危険な物ではないのかもしれない。
ただ、こいつが浮いている原理が全く不明だし、こうやって動かせるのがまた謎だ。動かす時の感触が面白いね。」
そう言ってケンタは定規で球を左右に動かした。
「動かしていると、少し抵抗を感じるよね。これは、何と言うか、硬めのゼリーの中でビー玉を動かしているような感じだ。この物体と空気は、ちょうどそんな関係なのかもしれないね…。」
ケンタが定規を手渡して来たので、僕も感触に注目しながら球を動かしてみる。確かに、言われてみればそのような感じだ。
「あと、煙草の煙だけど、おそらく細かい粒子のものだけ吸い寄せるような性質があるのかもな。定規やハンカチはくっつかないから特定のものだけに反応する静電気とか磁力みたいなものかな?わからないな…。
渦を巻いていたということはこの物体はもしかしたら回転してるかもしれない。直接触ってみたらわかるかもしれないけど、触らない方がいいような気がする。」
触れない方がよいというケンタの意見には僕も同感だった。こいつをどうするのか、ケンタとあれこれ話し合ったが、もう少し僕の部屋で観察を続けようということになった。
それなりの機関に報告するべきなのかもしれないけど、場合によっては回収されて二度と戻ってこないかもしれない。
ケンタの提案で、密閉式のガラスのビンを買い、その中に球を保管することにした。人の頭くらいの大きさのビンだ。
すくうように球を入れ蓋をすると、球はビンの中央で停止した。
翌日、仕事を終えると、ケンタもまっすぐに僕の家へ来て球の観察を続けた。男二人がガラスのビンを黙って覗き込んでいる。物知り顔をしていた母さんもこんな状況は想像できまい。
「何か、少し振動してるように見えないか?」
そうケンタが言った瞬間だった。ベチャっと音がして、球がはじけた。 黒いような、紫のような、ちょうどナスのような色をしたドロドロで半透明の液体がガラス面に飛び散った。
うわっと声を上げ、僕たちはビンから離れた。特に危険はなさそうなことを確認すると、僕らは再びビンを覗き込んだ。
幸いにもガラスは割れていないようだった。密閉されているので中の液体も外に出ていないようだ。飛び散った液体は粘度が高そうで、びろーんと伸びながら下へと流れていた。その様子はまるで子供がいたずらで使うスライムのようだ。
「割れるとは予想外だったな…。ビンに入れて正解だった。この形状になると下に流れるんだ…。」
ケンタは相変わらず冷静に観察を続けている。僕は球が割れてしまってがっかりだった。ものすごい喪失感。
世にも珍しい黒い球は、ビンに汚らしくへばりつく、ありきたりなベローンとした物体へと変化してしまった。
二人はしばらくナス色のスライムを観察していたが、それ以上の変化は短時間には起こらないと判断すると、ケンタは自宅へと帰って行った。
翌朝もスラムは同様の状態だった。またあの黒い球に戻っているのではないかと少しだけ期待していたが、そんな安易な展開はもちろんなかった。
僕はスライムの写真を撮ると、ケンタにメールで送っておいた。
ケンタはスライム状の物体にも興味がある様子だったが、残念ながら今日は大事な接待があるとかで観察には来れないとのことだった。
ケンタがいない時に変化が起きないでほしいなと思いつつ、僕はまっすぐ帰宅し、スライムの様子を確認した。
スライムは変化していた。びろーんと伸びた面から、ひょろっと1本の細長い腕が伸びていたのだ。
僕は写真を撮ってケンタに送った。接待中のケンタはすぐに写真は見れないだろうけど、気になるようなら家に来るかもしれない。
まじまじとスライムを見ていると、こいつには意思みたいなものがあるような気がしてきた。まるでビンの外へ出してくれと言っているかのようだ。
見れば見るほど、スライムがビンから出たがっているかのように思えてきた。その思いに心全体が支配されそうに感じて恐ろしくなったので、僕はテレビを見て気を紛らわせることにした。
しかし、テレビの内容は全く頭に入って来ず、どうしてもスライムが気になって気になって仕方なくなってしまった。
どうしようもないので、再び僕はスライムが入ったビンを持ってきて、リビングのテーブルの上でじっくり観察することにした。
形状は先ほどと変わらない。真ん中からひょろっと腕が伸びている。出してあげた方がよいのだろうか…。
僕は悩んだ末に、スライムをビンから出すことにした。
普段あまり使っていない調理用のバットを持ってきて、ビンのフタを開けた。密閉されていた空気がポンと音を立てたがそれ以外は時に何も起こらなかった。匂いもしない。
ビンをさかさまにすると、ものすごくゆっくりと、スライムが落ちてくるのがわかった。
ずるずるずるずる ねばぁあぁ~
数十分かけて、スラムはバットの上に出てきた。腕が痛くなったが、僕は辛抱強く全てのスライムが落ち切るまで待っていた。
バットの上に出ると、スライムはのっぺりと平らになり、先ほどの腕は見当たらなくなった。
見ていると、とても美しい物体だなと思い始めてきた。僕はどうしてもこのヌメッとした表面に触ってみたくて仕方ない気持ちになった。
三十分ほどその気持ちと格闘していたが、とうとう負けてしまい、僕は、スライムに手を触れた。
その瞬間、得も言われぬ快感が僕の身体を駆け巡った。
指先から伝わる高揚感!!!!
おお、なんと幸せなことか!!!!
僕は我を忘れて、スライムを触っていた。そして、気が付いたら二体の人形のようなものを作っていた。
手元に完成した人形を見ると、途端にこの物体に触れているのが忌まわしく思えた。
一刻も早く手を放したい!!!!
先ほどの高揚感は嘘のように消えてしまっていた。僕はパッと手を離すと、たまらず洗面所で手をゴシゴシ洗った。
バットの上の人形のところに戻ると、信じられないことに人形が動いていた。いつの間にか、バットの中には箱庭のようなジオラマのような可愛らしい庭園ができていて、人形たちはそこをウロウロ歩いていたのだ。
僕は人形から目が離せなくなり、すっかり彼らの虜になってしまった。
それからの記憶が僕からはすっぽりと抜け落ちてしまっている。
気が付いたら病院のベッドの上にいた。
ここからはケンタに聞いた話だ。
あの夜、僕とは連絡が取れなくなり、翌朝も出社しなかったので、心配になった同僚数名で僕の部屋へと来たらしい。
鍵が開きっぱなしになっていたので、入ってみると、そこには僕の姿はなかった。リビングのテーブルの上には調理用のバットが置かれており、その上には粘土で作った妙な形のものが乗っていたそうだ。
ケンタは、その粘土細工の形にどこか見覚えがあり、思い当たったのが、公園の滑り台だった。僕の家の近くの公園には、独特な形の滑り台がある。その粘土細工は、へたくそな造りだが、その滑り台に似ていたというのだ。
そこで、みんなでその公園へ行ってみると、僕が意識不明の状態で滑り台の傍に倒れていたというわけだ。
僕が作っていたのは人形だし、触っていたのは例のスライムであって粘土ではない。ケンタがスライムと粘土を見間違うはずがないので、僕の家には確かに粘土があったのだろう。
僕の部屋は事件性がないか警察によって調べられたのだが、ケンタたちが見たという粘土細工は、既になくなっていたそうだ。
部屋には僕とケンタたち以外が入った痕跡はなく、謎が残るものの、警察は調査を打ち切り、僕が一時的に精神を病んでしまったという結論になった。
黒い球は消えてしまったので、あれが何だったのか今となってはわからないが、人知を超えるものであることは確かだ。
僕らは再びあの黒い球に出会うことはできるのだろうか?
それはまだ、誰も知らない。
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