幸福論
扉が閉まり、静寂に包まれた部屋で、ギルバートは床をにらむ。
うつむいた自分の影で、視界は暗い。
想うのは、最愛の妹のこと。
ゆるやかな金糸の髪に、宝石のような碧眼、愛らしい顔立ちに、軽やかなしぐさ、澄んだ声音に、晴れやかな笑顔――。
それがにじんで、ギルバートは小さく息を吐く。
彼女を守るために、彼女に
それは果たして、守っていると言えるのか。
王家から婚約の打診が来れば、断るのは容易ではない。
だから婚約者をつくる――それ自体がこちらの都合でしかない。
稀代の魔人が認める人間がようやく現れたため、ブレイデン公爵家はこれを逃すつもりはない。
そう公言してしまえば、たしかに王家からの打診は回避できるかもしれない。
しかしアンジェリカに本当に好きな相手ができたとき、これを破棄したという
その可能性が否定できないこの案は、最善策といえるのか。
彼女が傷つくことなく、ずっと幸せに笑っていられる方法がきっとあるはず。
たとえば、そう。
この国を捨て、ふたりでどこか遠くへ――。
「……だめだ」
ギルバートは首を振る。
よみがえるのは、昨日の朝食の場面。
クリスティーナが、アンジェリカに学院の話を振ったとき、彼女はこう答えた。
――とても楽しいです。
アンジェリカには、アンジェリカの世界がある。
それを一方的に壊すべきではない。
しかし、彼女の自由が
どうする。
どうすべきだ。
――わからない。
わからないなど許されない。
なぜなら、アンジェリカの平和を壊すのはいつも――。
「……俺のせいだから」
稀代の魔人と
その力を我が物にしようと画策する
ギルバートのせいで、アンジェリカはたくさんの危険にさらされてきた。
どれだけ厳重に彼女を守ろうとも、稀代の魔人に魅入られた人間の執念は凄まじかった。
彼女のうなじには、消えない切り傷がある。
彼女の右肩には、消えない刺し傷がある。
そして彼女の心には、見えない傷が残った。
アンジェリカが愛おしい。
彼女の幸せを願うたび、泣きたくなるほど温かい気持ちになる。
アンジェリカがかわいそう。
彼女の境遇を想うたび、死にたくなるほど悲しい気持ちになる。
ふくらんでいくふたつの感情は、
「――俺は無能だ」
ひどい気分がして、きつく目を閉じる。
「……アンジェリカ」
どれくらいそうしていただろうか。
扉が軽快にノックされ、ギルバートは我に返る。
それでも気分は沈んだまま、
しかしどういう
「ギルバート様、入りますよ」
言いながらすでに足を踏み入れているロベルトに、ギルバートは恨めしげな目を向ける。
「……あいかわらず遠慮がない」
「私と坊ちゃんの仲ではありませんか」
ロベルトは軽口をたたくが、ギルバートの視線はすでに床に落ちたあと、うつむく姿にいつもの覇気はない。
ギルバートからわざと視線を逸らし、ロベルトは大振りな動作で部屋を見渡した。
「おや、
「……頼んでない」
「今回は衛生上の観点から、ビストロテーブルにご準備いたしますね」
つぶやく声音は聞こえないふりをして、ロベルトは二人掛けの丸テーブルに向かい、手早く整える。
野菜と肉団子を煮込んだスープに、やわらかい白パン。
白身魚のあんかけに、クリームソースがかかったオムレツ。
カットフルーツを添えたジェラートは、氷の
病み上がりの胃にやさしい昼食が、簡易的だが美しくセッティングされた。
「どうぞ、ギルバート様。立てないようでしたら、
「それには
あきれたように告げて、ギルバートが立ちあがる。
しっかりした足取りに、ロベルトはうなずく。
「東洋には『腹が減っては
ギルバートが勢いよく振りかえる。
「――なぜそれを。まさか、
「残念ながら、大成功です。壁にコップを当てて耳を澄ましておりましたが、
「……執事長が何をしている」
「執事長とは、ひまを持て余した管理職でございます。なにせここには優秀な使用人しかおらず、問題のひとつも起きやしない。坊ちゃんの世話ぐらい焼いていないと、すぐに
「よくよくまわる口だ」
「恐縮です。さ、温かいうちにお召し上がりください」
ロベルトにうながされ、ギルバートは椅子にすわる。
カラトリーには手を伸ばさず、湯気のたつ皿を見つめた。
「……なあ、ロベルト」
「何でございましょう」
「おまえはいま、幸せか」
「はい。坊っちゃんがお食事を召し上がっていただければ、もっと幸せにございます」
ギルバートは苦笑する。
「そうではない。――幸せとは何だ」
「これはまた難しいことをおっしゃいますね」
「難しい? おまえはいま幸せなのだろう? それを教えろといっている」
ふむ、とロベルトは考える。
「なにが幸せかは人それぞれ、それを言葉で表現できるとは限りません」
「一般論はいい。おまえの幸せとは何だ」
真剣にこちらを見つめる碧眼に、ロベルトは本心を告げる気になった。
「私は……そうですね。すべての業務を
「……それだけか?」
ギルバートが、拍子抜けしたような表情でロベルトを見やる。
ロベルトは、微笑んでうなずく。
「幸せとは、心が満ち足りている時間の積み重ねだと思われます。考察を重ねるより、ご本人に聞いてみるのが、いちばん早くて確実なのではないでしょうか」
ロベルトの提案に、ギルバートはため息をついた。
「もちろん、そうする。だがアンジェリカは、周囲の望むことを叶えようとする、実行力のある天使だ。家のために身を差し出すなんて言われたら、俺が公爵家を
目を見開いて
「ひとつよろしいでしょうか」
「何だ」
「アンジェリカ様が嫌がっていることに気付けないほど、ギルバート様の目は
「……は?」
ロベルトはさらに首をひねり、ついでに腕組みまでしてギルバートを見た。
「公女として一流の
「……まあ、そうだが」
「そしてアンジェリカ様が本心から嫌がることを強制しなくてはならないほど、ブレイデン公爵家は
ギルバートが軽く息を吐く。
「うだうだ考えてもしかたがない――そう言いたいのか」
「食事が喉を通らないほどお考えになる必要はない、ということです」
ロベルトの声音はやわらかい。
ギルバートは気持ちを切り替えるように嘆息し、顔を上げた。
「……週末にアンジェリカと話す。どのみち、そうするつもりだった」
ロベルトは朗らかに微笑む。
「でしたら、まずはご昼食を。アンジェリカ様がその大怪我を見たら、びっくりなさいますよ」
「わかっている。なんとしてでも、週末までには治す」
アンジェリカが通う国立魔術学院は寮生活だ。帰宅は原則、週末のみ。学生は身分に関わらず平等と定められており、公爵家の御令嬢であろうとも例外ではない。
「体調を万全に整えたのち、兄妹水入らずでご歓談ください。微力ながら、ご助力いたします」
ロベルトは深く一礼する。
ギルバートはうなずいて、整然と並べられたカラトリーに手を伸ばした。
体が動くようになったギルバートが出勤すると、
エリオットが何も言ってこないのをいいことに、必要最小限の言葉だけを交わす。ついでに書類を半分渡したら、無言で受け取り、ざっと目を通してそのうちの半分だけ返してきた。
ゼノのなにか言いたげな目線と、レスターの「冷戦ですね」との突っ込みは無視をした。
うでの怪我は、完治とまではいかないが、
ブラットリーから「ぼくが
第二騎士団との合同演習でストレスを発散したり、竜舎でベルに
そして、週末がやってきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます