あっそびましょー!
ギルバートの職場は、
部屋の中にあるものといえば、重厚な机と、黒い本革のイスだ。
応接セットの、三人がけソファは高級感があるが、そのほかに豪華な調度品などは見当たらない。
いちばんの特徴は、
三時間ぶりに戻ってきたが、出てきたときとなんら変わらずに、机には書類が山積みだ。
いつもなら見て見ぬふりをするが、最愛の妹からエールをもらってきたばかりなので、やる気はじゅうぶんだ。
書類を認可・不認可にわけ、演習や合同訓練の報告書に目をとおす。
サインが必要な書類は、百枚はくだらない。
ギルバートはそれをひとまとめにして、執務室の中央――カーペットが敷かれた、床におく。
いちばん上に彼のサインが書かれた書類を乗せて、手のひらでおさえつけた。
「
ヴンと音がして、ギルバートの手のうえにオレンジ色に光る魔術陣があらわれた。
「
魔術陣が、発光してはじける。
光がおさまると、書類すべてに「ギルバート・ブレイデン」のサインが複写されていた。
これはサインのしすぎで
インクに自分の血を混ぜることで、サインに微々たる魔力がやどる。
それを感知して、指定した書類すべてに複写をおこなうというものだ。
王立と名がつく建物内は、基本的には魔術が発動しない造りになっている。
しかしギルバートの執務室は、そのかぎりではない。
「カーペットの下に、魔術陣を書いておいて、正解だったな」
複写されたサインを見ながら、ギルバートが満足そうに独り言ちる。
そのうえ、その魔術陣を使用できるのは、最初にそこで魔術を発動させた者のみ、という制約つきだ。
膨大な手間をかけても、その恩恵を受けられるのは、たったのひとり。
そのため魔術陣を設置するのは、よっぽどの理由があるときに限られる。
ギルバートがカーペットの下に魔術陣を書いたのは、
ある晩、疲れのピークを通りこしてハイになり、ここに魔術陣があったら良くね? ととうとつにひらめいた。
難解な古代文字を模写するだけの、体力が残っていたことが勝因だ。
せっかく書いたのだから、水をこぼしたぐらいで消えてもらっては困る、とついでにカーペットに
それが、魔術陣が完成して、さいしょに発動させた魔術となった。
ちなみにここに魔術陣が書いてあることは、いまのところ国王には秘密である。
処理済みの箱に書類を入れて、
期間は来月の二十日から二十六日。
日付を書きいれた瞬間、バンッと扉が開いた。
「ギールーくん! あっそびましょー!」
ノックも無しに執務室の扉を蹴りあけたのは、白衣を着た猫背の青年だった。
ぼさぼさの黒髪は、目を
黒ぶちめがねのレンズにはよごれが付着し、それで前が見えているのかと問いたくなる容貌だ。
両腕でかかえてきた大掛かりな装置を、断りもなしに机の上におく。
間一髪で机の書類を抜きとったギルバートが、声をあらげて彼の名をよぶ。
「ブラットリー!」
「ちょっとさー、ここに
ブラットリーは
そこだけ弾力がありそうな、緑色のなぞの
「ことわる。でていけ」
「手のひらを、ここにつけてねー」
ブラットリーはいきなりギルバートの右手をわしづかみ、ぐいっと装置に押しつけた。
ぐにゃりとした感触に、ギルバートの腕が硬直する。
「はい、ぱっくーん♪」
「うわっ!?」
緑色が急にふくれあがり、ズブリとギルバートの手首まで埋まる。
直後カチカチに固くなって、押しても引いても手を抜くことができなかった。
「おい! 俺の手を解放しろ!」
「あ、ついでだから、
「人の話を――」
「はい、あーん」
「ぐっ!?」
むりやり口内に器具をつっこまれ、ギルバートがむせる。
それを気にも留めず、ブラットリーは器具を抜きとると、ギルバートの
「いつ見ても
その声音に悪寒を感じたギルバートが、自由なほうの手でブラットリーを払いのける。
風を切る音がしたが、ブラットリーが
彼はニヤリと笑いながら、降参するように両手を上げた。
「おびえなくても、えぐらないよぉ」
「どうだか」
「いま欲しいのは、魔力と血液だから」
ブラットリーは注射器を取りだす。
「どーこーかーらーとーろーうーかーなー♪」
「
へんな箇所から採血されてはたまらない、とギルバートは腕を突きだす。
どうしておとなしく言うことを聞いているかというと、騎士団に所属する
魔人じたいが珍しいこともあり、検診を請けおう王都魔術研究所の職員からは、
ギルバートの担当は、この猫背の青年、ブラットリー・マクスウェルだ。
王都魔術研究所の副所長でありながら、医師免許を所有する。
マクスウェル
魔術の研究に関しては王都一と
「はい、おしまーい」
ギルバートの血液がはいった
「じゃ、痛いけど、がんばってね」
「は?」
ブラットリーが、パチンと指を鳴らす。
ギルバートの腕を拘束している装置が、ブィンと
「おい、まさか――ぐッ!」
急激に魔力を抜かれる感覚に、ギルバートの息がつまる。
体中を針で刺されるような激痛に、脂汗がふきだした。
「んふふ。
「獲物っていうな!」
ブラットリーは上半身を装置に乗りあげながら、笑顔で試験管のフタをあけた。
「汗、もらっとくねぇ」
いうがはやいか、ギルバートの額から、勝手に汗を採取する。
「いってぇ! くそっ! 壊す!」
それどころではないギルバートは、左手でもたつきながら
「あっ、だめだめ! ギルくんの
ブラットリーが、ギルバートの左手をつかむ。
両手のブラットリーと、片手のギルバートでは、力の差は歴然だった。
そのうえ、ギルバートの握力は、痛みのために弱まっている。
ブラットリーは軽々と剣を抜きとると、ソファにむかって投げすてた。
「俺の剣を、乱暴にあつかうな!」
「あ、なみだも取れそう」
「おまえ、一発なぐらせろ!」
「あはは、やってみればぁ?」
そのとき執務室の扉がノックされたが、ギャーギャーとさわぐふたりは、まったく気づかなかった。
「ギルバート団長、入りますよ」
あらわれたのは、副団長のエリオット・ローガンだ。
入室一歩で、目のまえの光景に足を止める。
机をはさんで、上官と猫背の白衣がもみ合っている。
またか、というあきらめに似た感情しか起こらなかった。
エリオットに気づいたふたりが顔をあげる。
「エリオット!
「やっほー、リオくーん」
同時に呼ばれ、エリオットはふたりに問う。
「どういう状況ですか、これは」
「箱が、俺の手を離さない!」
「今ねぇ、八十六パーセント」
要領を得ない答えに、エリオットがいぶかしむ。
「いってぇんだよクソがッ!」
ギルバートがさけんだかと思うと、やけくそのようにこぶしを机にたたきつける。
苦痛の表情で目をきつく閉じる彼に、エリオットはかけよった。
「なにが起きているんですか!?」
うなるギルバートが、頭をかかえこむように机につっぷす。
埒が明かず、エリオットはブラットリーを問いつめる。
「ブラットリー副所長、どういうことですか」
「忠犬リオくんだぁ」
「茶化さないでください」
チーン! と装置から電子音がした。
「できたぁ!!」
ブラットリーがぱっと顔を輝かせて、装置から金色のなにかをとりだす。
それと同時に、ギルバートの手首の拘束が解ける。
ようやく痛みから解放され、ギルバートは利き手をおさえながら、脱力するようにイスにもたれかかった。
「だいじょうぶですか?」
エリオットの問いに、ギルバートがためいきをつく。
「利き手がしびれて動かねぇ。握力がもどったら、ブラットリーをたたき
剣をとられたことをおもいだし、ギルバートは、とっさにたちあがる。
直後、ぐらりと世界がゆれた。
気がつくと、天井を見ていた。
「あ……?」
「ギルくん、おはよー」
のぞきこんでくるブラットリーの顔をおしのける。
なんでソファに寝ているんだ、と疑問におもいながら、ギルバートは身を起こす。
ブラットリーがとなりに座って、たのしそうにわらう。
「二分三十九秒、気をうしなっていたよ」
「……こまけぇ」
「忠犬リオくんは、軍医を呼びにいきましたー」
「いらねーっつっとけ」
額に手を当てると、カシャンと聞き慣れない金属音がした。
右手首にいつのまにか金の
ふしぎな
すきとおる宝石に、複数の魔術陣が埋めこまれているのがみえる。
これがただの
「……
魔術の発動を、補助する道具を、術具とよぶ。
ブラットリーは術具を作るのに長けており、試作品を持ちこんではギルバートに使わせようとする。
「ギルくんの、瞳の色に合わせたんだ。きにいったぁ?」
ブラットリーの
「転移魔術陣に……固定魔術? なんだこの術式」
「名付けるなら、
「ほんとうか!?」
「使ってみたくない? みたいよね?」
「そう、だな」
転移魔術は、難易度が高いだけではなく、多くの魔力が必要だ。
もしブラットリーの言うことが本当ならば、帰りの魔力の心配をしなくていいことになる。
「そうと決まれば、
ブラットリーが、ギルバートの腕をひっぱって、ソファから立ちあがらせる。
ギルバートが、
「なぜ転移室だ? そこに飛ぶのだから、ほかの場所から試すべきだろ?」
王立の建物内は、基本的には魔術が発動しない造りになっている。
帰還の腕輪をためすなら、いったん外に出る必要はあるが、転移室に行く必要はない。
「ええー? せっかくだから、長距離ためしてみようよぉ」
ブラットリーが楽しそうにわらう。
その笑顔に、ギルバートはとても嫌な予感がした。
長距離をためす――つまり自分はいまから、どこか遠いところに飛ばされる。
そこから帰還の腕輪を使って、帰ってこいということだ。
「まて! 俺をどこに転移させるつもりだ!」
ブラットリーが首をかしげて、あ、と声をあげた。
「わすれてた。はい、討伐命令書」
「は?」
「国王からの、おとどけものでーす」
「貸せ!」
ギルバートは、ブラットリーの手から書類をひったくる。
見慣れた朱印は
なぜブラットリーが持ってきたのかは疑問だが、それよりも王命の内容に目を見張った。
「国境の山で、大型魔獣の目撃情報……単身討伐命令だと!?」
魔獣とは、鳥獣の特別変異種だ。
野生動物にくらべ、骨格が発達し、凶暴性が増している厄介な相手だ。
大型とつくものは、だいたいが建物ほどの大きさをしている。
「クソジジィの在位は23年か。もうじゅうぶんだろ」
ギルバートは殺気をこめながら吐き捨てる。
机に置かれていた剣をつかみ、鞘におさめた。
そんなギルバートの前に、ブラットリーが立ちふさがる。
「脅威になりうる大型魔獣を、単身討伐できたら、すごい偉業だよねぇ」
「なにがいいたい」
「ごほうび、もらえるかもよー」
ブラットリーが、もう一枚、書類をかかげる。
ギルバートが書いていた、休暇申請書だった。
「おまえ、いつのまに!」
「おっと」
ひょいと頭上にかかげ、ブラットリーがわらう。
猫背の彼だが、実は身長が高い。
ギルバートの涼やかな碧眼を見下ろしながら、ブラットリーは口をひらいた。
「ぼくもねぇ、むりやり魔力を抜きとったこと、わるいとおもってるんだよ?」
「で?」
「
ブラットリーは目を細めて、ギルバートにささやく。
「こんかいの定期健診の結果しだいでは、ギルくんには長期休みが必要って診断書が、出るかもしれないよねぇ?」
「……おまえ」
「かしこいギルくんが、いまから向かうのは、どこかな?」
にっこりとほほえまれ、どこか負けたような気持ちでギルバートはつぶやく。
「……行けばいいんだろ」
「はーい! 転移室に一名様、ごあんなーい!」
これで
忠犬がもどってくるまえに事がうまく運び、ブラットリーはほくそ笑みながらギルバートの背中を急かすように押した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます