春・第40話 壊れるかもしれないわたし②だから……お願いだよ
静けさの中、病室のドアが開いて真心の声がした。
「ゆしか」
確かな気配を感じるが、ゆしかは顔を窓の外へ向けたままにした。
「ごめんね、昨日に続いてわざわざ。なんせ、動けなくてさぁ」軽く声だけでおどけてみせる。
「いや、ちょうど良かった」
真心の声は心なしかいつも以上に低いトーンで、やや緊張している。
「……顔を見たら……泣いちゃうと思うから」
皮肉なほどの青空に向く声は、微かに震えている。
「このまま、わたしから先に話していいかな?」
背後の足音はすぐ近くで止まり、迷ったような間の後、「いいよ」と言った。
今朝方の『話がある』というメッセージに、真心はひと言、『俺もある』と返してきた。
ゆしかはずっと、考えてきた。
真心のためになにができるか。どうすれば真心に恩返しができるか。
最初にくれた言葉だけではなく、真心と過ごした全ての日々が、ゆしかにとっては綺麗に切り取ってアルバムに収めておきたいような時間だった。
一緒に見た作品に対し、ムキになって言い合った。
同じ部屋でそれぞれ会話もなく、ただ漫画を読み続けていた。
ゆしかが起こした暴力的解決に対して、困ったような顔で叱ってきた。
ゆしかがあの手この手でアプローチするのを、必死でかわしながら嫌がってはいなかった。
数え切れないほど一緒に食事をした。
紅葉も見て、桜も見た。
自分のことを話してくれた。一番大事にするって、言ってくれた。
(悲しませたくない。つらい思いを、させたくない)
心から思った。だから、自分の願望を優先せず、結論を出した。
「ずっとね……考えたんだ。今からでも、わたしが真心を傷付けない方法を。どうするのが一番いいかなって……本当に、今まで生きてきた中で、一番本気で考えた」
ゆしかは一回、鼻をすすってから続ける。
「でね……いくら考えても、行き着く先は同じで。冷静に考えればふざけんな、って内容なんだけど……何度考えても、どういう考え方をしても……最後は、そうなっちゃって。
ねえ真心。
その、おかしな内容を……言わせてもらってもいいかな。
真心は怒るかもしれない。今度こそ、心底呆れるかもしれない。
けどわたしには、どうしてもそれしか見つからなかったんだ。
聞くだけでいい。聞くだけでいいから……聞いてほしい。怒ってもいいから、言わせて?」
「……言ってくれ」
真心は静かに即答する。声から緊張はなくなっていた。
ゆしかは呼吸の分だけ一拍置いて、震える声で続けた。顔はまだ窓へ向いている。
「わたし、真心が大好きだよ。大事だよ。真心の前では、ずっと笑っていたかった。
けどね、最近……毎日、薬とか検査とか、抜けてく髪の毛とか……そういうので、身体だけじゃなくて、心も変わっていくのが解る。どんどん弱く、脆くなっていく。
だから、わたしは、約束ができない。
わたしはもしかしたらこのまま、死ぬかもしれない。
そうじゃなくても、壊れてしまうかもしれない。すぐにじゃなくても、こんな風に思うわたしは、いつか、決定的に駄目になってしまうかもしれない。
だから真心を安心させてあげられない。
わたしなら大丈夫だよ、強いから、前のひとみたいには絶対にならないよって言ってあげたいのに……言えば、嘘になる」
そこで、声が詰まった。ゆしかは言い淀む。
続くのは決定的なひと言であり、内容は決まっている。だからこそ何度も息を飲み、吐き、嗚咽を堪えながら呼吸を整えた。
「わたしは真心を裏切らないって、心から自信を持てない」
ゆっくりと首が動き、振り向く。初めてその目が真心を捉える。
「だから……お願いだよ、真心」
既に顔はぐしゃぐしゃに歪み、塗りたくったように涙が頬を濡らしていた。それにもかかわらず、瞳は、はち切れるように見開かれている。
「壊れるかもしれないわたしと……………………………………一緒に、生きて?」
血を吐き出すように漏らしたひと言は、涙に濡れてほとんど輪郭を失っていた。
病室から、音が消えた。
聞き取れないほど微かに弱々しく響いた声を聞いた真心の瞼が、極限まで見開かれた。
全て持っていかれた。
用意していたはずの言葉も、覚悟も、意志も思考もなにもかもが、暴風に飛ばされる藁束のように為す術もなかった。真逆の言葉を予想していた。
はじめに反応したのは、唇だった。小刻みに振動していた。
次は目尻だった。冗談のように激しく蠢いた。
たちまちその発作は全身に広がり、気付いたときには手を伸ばしていた。同時に、
『君が一緒に生きようと言ってくれたなら、俺はどんな苦しみにだって耐えられたのに!』
かつての自分がフラッシュバックし、粉微塵になって綺麗さっぱり消滅した。
涙が溢れる。
否、とっくに溢れ尽くしている。熱く、熱く、洪水のような量の液体が頬を、顎を、首までをも洗い流す。指がゆしかに触れる。引き寄せる。傷付けないような優しさで、だけど決して離さないと伝えるような切実さで抱き締める。
真心の腕の中に、すっかり細くなったゆしかがいた。
ありったけの本音で絶叫する。
「それが聞きたかったッ!!」
それから、ふたりで泣いた。
まるで世界が壊れると知ったように、または生まれた直後のように。
もうここが病院であることも、時間の経過も、泣いている理由も忘れ、ただ触れる肌の感触と温もりだけで胸が一杯で、頭の中にはほかのものがひとつだって入り込む余地はない。
喉が焼き切れるほど互いの名を呼び、細胞のひとつひとつがあなたを必要としていると叫び、その存在を果てしなく肯定した。
どれくらいの時間が経ったかも解らないほど夢中でしゃくり上げてから、真心とゆしかは身体を離し、ぐしゃぐしゃになった顔同士に再会した。
呆然とした表情で見つめ合う。
長い沈黙の後、先に声を出したのは、ゆしかだった。
「……ねえ、真心」
しゃっくりと一緒に出た呼びかけに、真心も鼻をすすって応じる。
「……ああ」
まだ涙を混じらせつつも、ゆしかは僅かに落ち着いた口調で、訊いた。
「……なんで、タキシード? その薔薇はなに?」
真心は真っ黒な燕尾服と真っ赤なタイを身に付け、それ以上に赤い薔薇の巨大な花束を右手に持ったまま、ゆしかを抱き締めていた。
「ああ……」
真心は今まで忘れていた、という口調で天井を見た。
ワンテンポ大口を開けて止まってから、芝居がかった動作で一歩後ろに下がる。
そしてベッドの上のゆしかに跪き、
「結婚しよう、ゆしか」
おもむろに花束を捧げて笑った。
「家族になれば、俺がお前の世話をするのを誰にも反対させねえ」
間ができる。
真心のドヤ顔に目も口も丸くしたゆしかは、さっきとは全く違う理由で頬を震わせる。
「ば」
数秒後、爆発するように噴き出した。
「馬鹿じゃないの!? そ、そんな理由で、まさか、その格好で外歩いてきたとか!? わ、笑うと点滴針打ったところ痛いんだからやめてよっ、あはははははっ!」
感動した眼差しでこくん、と頷かれる……。
というリアクションを期待していた真心は半眼で苦笑いをして、顔を引きつらせた。
「……ネタじゃないんだけど」
「マジとか、逆にウケる! や、ヤバい。お、衰えたふ、腹筋が……死ぬっ! 笑い死ぬ!」
それはしばらくぶりに真心が聞いた、ゆしかの笑い声だった。
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