春・第38話 手遅れだった②人生で最も激しい絶叫

           ▽


 真心は瞼を開く。

 いつの間にか眠っていたのか、それともずっと起きていたのか自分では解らない。

 春も半ばとは言え、山間部の夜は寒い。身体は冷え切り、うずくまった姿勢で身体はがちがちに硬くなっていた。


(……もう………………………………疲れた)


 手を伸ばしても決して届きそうにない。あのときがそうだった。

 もはや考える力は失われ、目も口も虚ろに開かれている。視界は真っ暗だ。


(…………やっぱり……無理だったんだ……)


 なにもかもを投げ出そうと思った。

 もはやなにひとつ心の底からは信じることができないのに、中途半端に信じたいなどという思いを捨てられないから、苦しむのだ。

 既にあのとき、壊れてしまったというのに。


(とっくに死んだも同然だったのに……そんな俺自身を、見て見ぬ振りをした。

 棚上げまでして、時間稼ぎした)


 ゆしかの言うとおりだ。ゆしかは真心のなんでもないし、気遣わせるような態度を取ってしまうなら、面会など行くべきではなかった。だったら最初から。


(そうだ……ゆしかも言ってたじゃないか)


『関わってしまって、ごめんなさい』


(……出会ったことが、間違いだったんだ)


 結論が出て、真心は考えることをやめる。そして瞼を完全に閉じる。

 それからまた長い静けさを挟んで、ようやく気付く。何故僅かでも、意識が覚醒したのか。

 ぶぶぶぶ……ぶぶぶぶ……と、スマホが断続的に震えているのだ。

 何度も、何度も、一定の間隔で、途切れることなく微弱な振動を身体に伝えてくる。


(……目覚まし?)


 セットした覚えはない。緩慢な動作で胸に手を入れ、ジャケットのポケットから取り出す。画面のロックを解除し、画面の眩しさに顔をしかめた直後、目を疑う。


『新着通知 967件』


 スパムメールでもひと晩でこんな件数にはなるまい。一瞬唖然とし、かじかんだ指で中身を確認しようとする。

 それは写真だった。

 SNSのトーク履歴を埋め尽くす枚数の写真が、驚くべきことに、未だに件数を増やし、流れ込み続けている。文字のメッセージはなかった。

 画像の内容は、たったひとつ。ひとりの男が、写っている。


(……なんで……………………?)


 差出人は、『鹿』だった。


(なんで……俺?)


 ゆしかが送ってきた数百枚、いや千枚を超える写真を見た。

 その全てが真心の写っている絵であり、全てがゆしかの撮ったものであることを、確認するまでもなくひと目で理解した。

 いつ撮ったのか知らないものも多く、フレームの中の真心はゆしかに振り回されて怒り、困り、泣き、悩み、あるいは笑っている。

 それら全てにたったひとつ、共通するものを発見して、真心は愕然とする。


(なんだよ……これ)


          △


 ひとりになって以降、仕事以外の真心の時間は、『物語』で埋め尽くされた。

 きっと酒飲みだったら酒に、ギャンブラーならパチスロか競馬に溺れたことだろう。

 だが元々、物語オタクと言っていい人種である。空いた時間を埋め尽くすように、漫画や小説を読み、アニメや映画を見た。昼も夜もなく、狂ったように、まるで既に己の人生は現実にはないと言わんばかりに、幾百の物語の中に自らを溶け込ませた。


 そして極限まで我慢した後に排泄するような勢いで、ネットにレビューを書き殴った。

 そんな生活がもはや一時凌ぎではなく、日常と化して大分経ったころ……真心の書いた内容に、メッセージが届いた。


『できればTHさんの見解をお聞きしたいのですが……』


 それが、『鹿』さんだった。

 鹿さんの視点は個々の登場人物の心情に切り込むものだった。単なる消費ではなく、ネタにして盛り上がるテンションでもなく、どこか切実だった。物語の中に『生きるための大切ななにか』を求めるような、作り手の込めた魂をすくい上げて抱き留めるような印象を受けた。


(こんなひとが……いるのか)


 やり取りをするようになって早い段階でそう思った。それからかなりの量、密度でメッセージをかわすようになって……ある夏の日、会ってみないかと誘われた。


 会ってみたら中学生くらいの少年だったから内心驚いた。

 何故か大学生らしき男と殴り合いをしていて、どんなひとなのか解らなくなりかけた。

 でも事情を聞いたら、なんだかとても「らしかった」。


 突然好きと言われて……初めて成人で、女性だと知った。けど印象は変わらなくて、そのことが妙に可笑しかった。

 実は家が近所で、それから頻繁に押しかけてくるようになった。

 真っ直ぐな感情をぶつけられ、引っ張られた。振り回されるのを回避しようと、頭を使った。


 それは、土の中まで乾ききった鉢に、バケツで水を流し込まれるような日々だった。

 乾く速度よりずっと速いペースで、むしろ溢れないように水をいなし続けた。


『わたしは、真心が好きだよ。大好きだよ。はっきりと、一番大事だよ』


 踏み込まれ、感情を引き出される毎日は恐ろしく、それと同じ量だけ、感動的だった。


          ▽


 不意に、前方から光が射す。

 眩しさに思わず顔を上げると、山の向こうから、稜線の輪郭を輝かせる山吹色の光が、辺りを明るく照らしていく瞬間を目撃した。真横からの光線に顔を撫でられ、真心は金縛りが解けたように上半身をゆっくり起こす。両手は脱力しながら、無防備に陽を浴びる。


 写真の中の真心の共通点。それは、


(生きてる)


 死んだも同然、などとはほど遠い。

 いい感情も、悪い感情も関係なく……豊かな素の、感情があった。

 そして同時に、かつてゆしかに何気なく言った言葉が、確かな意味を持って浮かび上がる。


『写真って、写るのは撮られたほうだけど、撮ったほうも出るよな』


 一枚残らず、撮影者が、被写体に語りかけている姿が見えた。


(あぁ…………お前は、俺を……こんな風に見てたのか)


 そこには、滲み出るほど強靱で、切実な想いが溢れていた。


『わたし、あなたが好きだ』


『え、語っていいの? 朝までかかるけど、聞く?』


『『真心を好きなわたし』の存在が、許されますように』


『これまでの人生で、今が一番幸せです』


 ひとりでに、呟きが漏れる。


「……なにが、棚上げだ」


 その瞬間、ずっと噛み合わなかったパズルのピースが唐突に、どうして今まで解らなかったんだ、と思うくらい、これしかないところへはまった気がした。

 完全に無防備になった心に、横薙ぎの細やかな陽光が降り注ぎ、串刺しにしてゆく。

 そうだ、と思った。


「手遅れだった、とっくに」


 解りきっていた。ゆしかとの日常に、いつの間にか生かされていた。

 拳を握る。ねじり、絞り尽くすように、力が込められる。

 腹の奥からせり上がるものに突き動かされ、溢れそうになるのを堪えながら、真心は、片膝を突く。立てた膝に手を置き、もう一方の足の裏でも地面を踏む。膝を伸ばし、立ち上がる。


 全身が震えた。寒いからではない。

 まるで今まで注いでもらった水が逆流する感覚だった。血液が末端までくまなく巡り、毛穴から噴き出してきそうな錯覚すら覚える。少しでも気を抜いたら……いや。


 もう、耐えても耐えきれない。


「ゆしかぁっ!」


 抑えることをやめた瞬間真心は天を仰ぎ、人生で最も激しい絶叫を更新する。


「好きだ! 愛してる!

 お前が必要だぁああああああああああああああああああああっ!!」


 声は山の向こうまでこだまし、力強く響いていく。


 そこへたまたま軽トラが通りかかり、運転する農家の老人が「なんだなんだ!?」という顔で、低いエンジン音をうならせて通り過ぎていった。

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