春・第34話 答弁をする政治家のような②初めてがこれって、情けないなあ
ゆしかが目を覚ましたのは、夕方に差し掛かる少し前の時刻だった。
正確には、意識を失っていたわけではない。半分起き、半分寝ているような状態で長く苦しみに耐えていた。真心がなにかを言ってるのは解っていたが、内容までは入ってこなかった。
にわかに落ち着き、ぼんやりと天井を眺めていると、
「起きたか?」
キッチンから部屋に入ってきた真心が心配そうな目で寄ってきた。
「ああ……うん」
とっさにくぐもったような声しか出なかった。
「身体はどうだ?」
「なんか……筋肉痛の酷いやつみたいなのが、肩とか背中とか……あと、頭も痛い」
「寝汗を掻いただろうから、とりあえず水分を摂ったほうがいい。飲めるか?」
「うん……なんか、背中からお尻までびしょ濡れっぽい」
髪の毛先も洗ったように濡れていた。
真心から蓋の外れたペットボトルのスポーツドリンクを受け取ると、ゆしかはゆっくり、噛むように飲む。息継ぎをしながら、一気に半分以上を飲んだ。
それから熱を計ると、三十七度後半まで下がっていた。
「氷、替えようか」
真心が一度キッチンに戻る。そこで初めてゆしかは自分の衣服が乱れているのに気付いた。
脇に挟まっているタオルとビニール袋を取り出すと、温くなった水が入っている。
「ほらこれ。肌が冷えすぎないようにタオルに包めよ」
戻ってきた真心が氷の入った袋をふたつ手渡してくる。
「……この服は、真心が?」
「あ、ああ……すまなかったな。勝手に」
「や、それはいいんだけど……なんか、初めてがこれって、情けないなあと思ってさ」
「ば、馬鹿か」
微かに笑うゆしかに真心は目を見開き、その後で少しだけ安堵したような顔になる。そんなことを言えるなら大丈夫そうだな、と言うように。
「ああそうだ。お前、着替えたほうがいい。濡れた服のままだとまた身体が冷える。あと、なにか食えそうなら食え。一応卵雑炊を作ったが、この際アイスでもプリンでもゼリーでもいい」
言われたとおり、ゆしかは適当に真心がクローゼットの衣装ケースから引き出した部屋着に着替えて、アイスを半分食べて、雑炊を一口だけ飲み込んで、薬を服用してまた眠った。
もう一度意識が戻ると、真心は床に座って、ベッドの中に手を入れて俯いていた。自分の手をずっと握っていてくれたのだと気付いて、ゆしかは微かに笑う。
「真心」
呼びかけると真心はすぐに顔を上げた。眠っていたわけではないらしい。
「ゆしか。大丈夫か?」
こんなにいたわるような声を誰かに向けられたのは、いつぶりだろうと思った。
「……今、何時?」
カーテンは閉められており、電気は一番小さいナイトランプだけ点いている。
「日が変わったくらいだな」
「もう帰ったほうがいいんじゃない? 明日、仕事でしょ」
「そんなこと気にしなくていい。なんか飲めるか?」
じゃあ水、と言うと、真心は冷蔵庫からペットボトルの水を取ってきて、差し出してくる。
「凄いな。なんでも出てくる」
「本当になんでも出せるなら、とっくに治してやってるところだ」
真心は自虐的に笑う。
ゆしかは水を飲んで、真心にペットボトルを返してから、改めて指を伸ばした。
その手を真心が柔らかく握り返してくる。
「……ごめんね」
まだ起き上がるのは難しそうだったが、身体の痛みや苦しみは馴染むように落ち着いていた。
「なにを謝る」
「なんか、いっぱい。助かったよ」
「本当は時間外診療に連れて行くか迷ったんだ。でも日曜じゃ簡易的な治療しかできない可能性があるし、ここで安静にしてある程度容態が安定するなら、そっちのほうがいいと思って」
「うん。それで良かったよ」
「……少しは、ましになったか?」
「多分。朝よりはずっとね。熱は、解熱剤がある程度効いてる。また上がるかもしれないけど」
「ずっとここにいるから、つらかったらすぐ言えよ。できることは限られてるが」
「……ほんとう?」
「ああ。悪い……俺の知識じゃ」
「そうじゃなくて、ほんとうに、いてくれるの?」
「当たり前だろ」
「でも、仕事は」
「明日一日休んだって大したことはない。それに普段、有休使う機会なんてそうないんだ」
「……ありがと」
ゆしかは手のひらに目一杯の力を込めた。それでも普段よりずっと弱々しい。
「……行ってみたかったなあ」
細い息を吐いて、目を閉じながらゆしかは呟いた。
「桜か?」真心が申し訳なさそうな声色になる。「なんでそこまで行きたかったんだ?」
「多分知ってるよね。あの桜のこと。五百年、ずっと、そこにあったわけじゃない」
「……ダムの底に沈むはずだった、って話か」
「そう」
その桜は、元はとある村の寺の境内にある老木だった。
今から数十年前、ダムの建設によって村ごと水没する計画だったのを、今の場所へ移植した。
桜の木はただでさえ傷などに弱く、しかもその時点で樹齢四百年を超える老木の移植など不可能だという専門家の意見がある中、あらゆる最先端の手法を用いて移植が行われた。
当時はその無茶とも言える行為に、命をもてあそぶ所業だと批判も殺到したというが、半世紀以上が経った今、その二本の桜は今も春には淡く薄い花を空一杯に咲かせるという。
「なんか、凄いなって思ってさ。そういう生き方をしてきた桜が、どんなに力強くて、美しいか見られたら、なんか私も、元気になれるんじゃないかって」
「じゃあ、元々そんなに体調が悪かったのか?」
「いや? ただね、なんとなく予感があったんだよ。悪化するかもって。だから念のため、あやかっておこうかって思ったんだけど……間に合わなかったね」
自嘲するゆしかの額を、真心は軽く指で弾いた。
「いたっ。なんだよ……?」
「まるでもう元気にならないみたいな言い方するんじゃねーよ」
真心はおどけて言った。
「はは……そうだね。ちょっと気が弱ってるんだと思う」
「明日、動けそうなとき病院行くぞ。ちゃんと診てもらって、安静にすりゃすぐ治るさ。中途半端に治りかけて動き回るから、ぶり返すんだ。完治まで二十四時間監視するから、覚悟しろ」
「それは怖いね」ゆしかは笑って、真心と目を合わせる。「でもそしたら、クビになるよ」
「そうなる前に、治れ」
真心の声は揺るぎなく、優しい。
ゆしかは繋いでいた手をほどいて、指を絡め直す。目ごと笑いながら、まるで答弁をする政治家のような生真面目な口調を作って言った。
「前向きに善処致します」
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