春はさよなら
春・第31話 名前は要らない①いいマムシドリンク、知ってるぜ
「岩重さん、なんか若返ってません?」
満開の夜桜の下で、缶チューハイを片手にそう言ったのは真香だった。無事志望校に合格して都心でひとり暮らしを始めたが、引っ越し屋を使わず宅配便だけで引っ越したので、
「まだ全然物を持って行けてなくて。当分、ちょくちょく帰ってきて荷造りです」
ということらしい。どういう流れか、ゆしかのサークルの花見に便乗し、参加している。
期せずして真心の会社の同期十数名も、同じ場所で花見をしていた。ここは地元では定番の花見、特に夜桜花見のスポットで、城跡の外周部、石垣に沿って桜が咲き乱れている。
「日和さん、未成年じゃねーのか」
真心が呆れた目で指摘すると、真香は
「大学生っす」
と答えになっていない返しをして、頬を膨らませる。
「はぐらかさないでください。ね、ゆしか先輩。変わりましたよね? なにが変わったんだろ?」
真香自身は、一度受験期に黒くした髪を前より明るいブラウンに染めて、ストレートに背中まで流している。ただし元々化粧もこなれていて、ファッションへの意識も高いので、大学生になったからと言って前と見た目はそう変わらない。
「髭じゃね」
斜め向かいでさきイカを囓りながら、いつもどおり色気の欠片もないゆしかが言った。
「え? 元から髭なんて……ああ、無精髭! 確かに、汚く散らかってたのがつるつる!」
「そんな風に思ってたのか……」
真心は正面からじっと観察され、なんとなく気まずい。
「でも、それだけですか? なんか他にも……」
目を細めた顔を近付けられ、真心は上体を引く。シャンプーの甘ったるい香りがした。
「目元じゃね」ゆしかがビールを飲んでゲップをした。
「……なんか変わりました? 相変わらず目つきは悪いですけど」
「放っとけ」
「あ、でも、犯罪者感が薄い! 前の『殺して埋めます』って感じが、せいぜい下着ドロです!」
「日和さん、俺君になんかしたっけ?」
「最初からこの子は悪気のない暴言吐きだよ」ゆしかが横から解説する。
「そ、そうなのか」
「で、先輩。正解は?」
「目の下の隈が薄くなった。前より安眠できるようになったからじゃない?」
「へぇ……」
覗き込むように真香が上目遣いを向けてくる。
「んー、確かに? よく見てますねえ、さすがに。でもなんです? 枕でも変えました?」
「や、べ、別になにもないよ。そもそも俺は不眠とかの自覚なかったし、こいつが勝手に」
「一緒に寝てるだけだよ」
「はぁああっ!?」
声を上げたのは真香ではない。
真心の後ろで杯を重ねていたはずの同期、遠江麻子である。鼓膜を守るように耳を塞いで目を閉じる真心の腕を掴んで、遠江は猥褻物を見るような顔を向けた。
「いいい岩重君、いつからそんなチャラ男になったの」
「ちゃ、チャラ男?」
「ここんとこ確かに若返ったなーと思ったら、まさか……若い子のエキスを貪ってたなんて」
「ひとを吸血鬼みたいに言うな! つーかんなこたしてねえよ!」
「だって、寝てんでしょ? でも、相変わらず付き合ってないんでしょ?」
「やだ……岩重さん酷い」
睨み付けてくる遠江に続いて、真香まで軽蔑の視線を向けてくる。
「なんか誤解してるぞ! こいつは……」
「誤解ぃ? ゆしかちゃん、寝てないの?」
「寝てます」
「ほら寝てるんじゃないの!」
激情に駆られた遠江は、真心の鼻をつまみ上げてくる。
「私、軽い気持ちで純情をもてあそぶ男とか本当許せないんだよね……!」
「だ、だから違うっつーの……」
「ゆしかちゃん、気をつけたほうがいいよ。こいつ、髭剃って目元が若干柔らかくなったら、会社の女子の中でちょっと評価が上がり始めたから」
「そうなんですか……」ゆしかが目を丸くした。
「確かに、実は意外とイケメン寄りですよねー、どちらかと言えば。イメージ変わったなあ」
真香が褒めてるのかなんなのか解らない評価を下してくる。
「まあまあ、そんなに岩重ばかりを責めるのはよそうよ」
遠江の逆サイドから真心の肩を叩いたのは、遠江の夫、國谷である(会社では夫婦別姓)。
「真のチャラ男がなにを言ってもフォローにはならないと思うけど?」
冷酷な視線をぶつける妻に、國谷は愛想笑いを浮かべる。
「國谷さん、浮気したんですか?」ゆしかが呟くように訊く。
「そ、そんなわけないだろう。俺はあーちゃんだけを」
「じゃあどうして合コンに行ったのかな?」
「だ、だからあれは数合わせだって……」
「やましいことがないなら事前に言えばよかったんじゃない?」
「言ったら『行くな』って言わない?」
「言うわよ。当たり前じゃない」
「理不尽だ……」
理不尽か? と真心は遠江に肩入れしたくなったが、ここで國谷にいなくなられては困る。
「國谷のことは置いておいてだな、俺はチャラ男なんかじゃない」
話題を自分のほうに戻す。このまま逸れてくれる可能性もあったが、誤解されたままというのは望むところではない。
「そうだ岩重。大事なのは心だよ。お前はゆしかちゃんを大切に思ってるのかどうなのか」
「そりゃもちろん、大切だ」
「おお!」
迷わず即答した真心に、國谷が目を輝かせる。遠江も真香も驚いたように目を丸くしていた。
「それって『友達として』とか言わないよね?」
「ああ。俺にとってゆしかは代わりのいない女だ」
「……なんだ。誤解ってそういうことか」
遠江が真心の鼻面から手を離す。真香が「先輩、驚いてませんね?」と訊くと、ゆしかは「や、もう知ってるから」と真顔で返した。
「だったら早く言いなさいよ。付き合ってるんでしょ?」
「や……付き合ってない」
「……ああ?」
再び遠江の目に怒りが宿る。
「両想いで、ヤッてんのに、付き合ってない?」
胸ぐらを掴まれて首を絞められながら真心は叫んだ。
「だからそれが誤解だ! ヤッてねえ!」
間ができる。
屋外なのに真心の声がこだまして、一瞬、周りの他のグループの視線まで集まった。
「ヤッて、ない? そうなの?」
再び周囲の集中が散開し、止まった時が動き出すように遠江がゆしかに訊いた。
「まあ、それは……断られましたから」
「お前なに言ってんの!?」真心が本気で慌て出す。
「なに? どういうこと? 意味が解らないんだけど?」
やや混乱気味に遠江が額を押さえる。代わりに意気揚々とし出したのは國谷だ。
「いやあーちゃん。俺は解っちまったぜ。これは男にしかピンと来ねえ話だ。まさにピン、と」
「なによ?」
「おい岩重、そうならそうと言ってくれればいいのに」
「……はあ?」
真心の肩を抱いた國谷が手のひらをメガホンにして、しっかり周囲に聞こえる声量で囁く。
「いいマムシドリンク、知ってるぜ」
「お前は絶対になにかを勘違いしている」
「やだ岩重さん……なんかやだ……」
「若い子にそういう軽蔑を向けられるのは誤解でも傷付くから、勘弁してくれないか」
真香にドン引きの目を向けられた真心は、傷心を隠せない。
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