第92話 冬の旅人

 レドが勤め先の食堂の一人娘と結婚したいと言いだしたのは、レーキが五十二歳、レドが二十六歳の年だった。

 一人娘はレドより少し若い二十三歳。ローリエと言う名のその娘は、わずかに獣人の血を引く人間の娘で、レドと並ぶと確かに似合いの二人だった。

 いずれはレドに食堂を継いで貰いたいと、ローリエの父親はレーキに言った。

 レドは腕の確かな料理人に成長していた。一時期はアスールの王都に修行に出ていたが、今は隣町の食堂に勤めている。

 レーキとラエティアに、反対する理由はなかった。

 木洩こもれ日が美しい初夏の午後、ローリエはラエティアが譲った婚礼衣装を着て華燭かしよくてんを挙げた。ローリエは、手直しすることなくラエティアの婚礼衣装を着られたのだ。

 二人の子供たちが結婚して家を出ても、レーキの家には弟子たちが入れ替わり立ち替わりやって来た。

 素直な子、手の掛かる子、内気な子、元気が取り柄の子。どの弟子たちもみな個性豊かで、レーキとラエティアは感傷に浸るいとまもない。

 レドがローリエと結婚した翌年。二人の間に長男のリエールが生まれた。

 その後を追うようにカァラとルーの間にも女の子の孫、ノワールが生まれる。

「レーキもとうとうお祖父じいちゃんね! わたしもお祖母ばあちゃんだけど!」

 ラエティアはそう言って明るく笑った。

 レド以来、久々に見る赤ん坊は小さくてふにゃふにゃと柔らかくて。

 恐る恐る孫たちを抱いたレーキは、こみ上げてくる愛しさとこの子たちを絶対に守らねばならないと言う決意にあふれた。

 巣立って行った弟子たち、今手元にいる弟子たち、そしてカァラとレドの家族。レーキの家族は随分と数が増えた。『山の村』で独り生きることで必死だった頃には、思いも寄らなかった現在いま

『家族』とは、自分を殴りつける者でも、搾取さくしゆする者でもない。誰一人として欠けて欲しくない大切な者たちだった。


 時は行き、過ぎる。

 まだ、死の王の訪問は無い。

 レーキが六十二歳になった冬。その冬は秋からやけに風が強くて、森の木々は早々に葉を落とした。初雪がちらつくのも早かった。

 古傷が疼くように痛む。寒く長い冬になるだろうと、経験からレーキはそう思う。

 今年は薪を多く用意しておいた方が良いだろう。弟子たちに手伝わせて、レーキは秋から暇を見つけては薪を作った。

 近頃は、薪割りをするだけで関節が恨みがましいきしみ声を上げる。書物を読もうと思っても、目がかすんで思うように文字を追えない。

 レーキはいつしか、自分が確実に老いていることに気づいた。ラエティアも、歩く速度や話す速度が、若かった頃と比べれば随分ゆっくりになった。

 老いることは構わない。人は誰もが老いて行くのだから。だが、気がかりは死の王の『呪い』。誰かの訃報が届く度、レーキは身が縮む思いがする。

 自分より年上の恩人たちは、仕方がないと思える。先に生まれた者が先に死ぬ。それは自然な摂理だからだ。

 さいわいなことに家族も友人たちも、欠けた者はほとんどいない。みなそれぞれの国で、街で、日々の生活をおくっている。

 一体いつまで、弟子たちを預かれるだろう。と、近頃レーキは考える。自分に残された時間はどれほど有るのだろう、と。

 今、レーキの手元にいる弟子は二人。どちらも十二歳の少年で、一人は人間、一人は獣人だった。そこに、年が明けたらカァラの一人娘ノワールが加わって三人になる。

 来年十歳になるノワールは、母の羽を受け継いで、夜の闇よりも暗い黒色の羽をもって生まれてきた。母に似て好奇心旺盛おうせいな賢い子だ。彼女も良い天法士になれるだろう。

 いや、天法士になれずとも良いのだ。ノワールと共に暮らし、彼女に自分の知識と経験の一端を与えることが出来れば。それだけでレーキは満足だった。

 レーキはノワールがこの森の村にやってくる日を、心待ちにしていた。


 森の村に本格的な冬がやってきた。

 近頃、ラエティアの体調が優れない。彼女は軽い風邪をこじらせて、そのままベッドにいることが多くなった。

 その事をカァラへの手紙にしたためると、カァラは予定を前倒しして、ノワールを連れて森の村へやってきた。

 冬には珍しい、うららかで暖かな日の昼下がり。レーキの家に向かうなだらかな坂道を、ふたつのシルエットが登ってくる。

 ベッドの上で窓の外を眺めていたラエティアが、「まあ!」と久々に明るい声を出した。

「あの子たちよ、レーキ。あの子たちが来てくれたの!」

「ああ。そうだ、ティア。カァラとノワールだ」

 ベッド横の椅子に腰掛けていたレーキは、二人を出迎えるために立ち上がった。

「お祖父さま!」

 戸口で娘と孫を出迎えたレーキに、ノワールはうれしそうに飛びついた。

随分ずいぶん大きくなったなあ、ノワール。見違えたぞ」

「わたし、もうすぐ十歳です、お祖父さま!」

「そんなに大きくなったのか! お前ももう立派なレディだなあ」

 こうして、ノワールに会うのは二年ぶりか。レーキは目尻を下げて、得意げに胸を張る小さな孫の頭を撫でた。

 娘と孫は温かそうな冬の装いだが、いつまでも屋外にいさせる訳にいかない。

「カァラもノワールも。さあ、早く中に入りなさい。部屋の中は暖かい」

「ありがとう、父さん。途中でね、レドくんのお店に寄ったの。それで肉入りシチューを分けて貰ったから温め直してみんなで食べよう!」

「そいつはありがたい。昨日焼いたパンと野菜スープもあるし、アラルガントのお義母さんにいただいたチーズとウバブドウ果実酒ワインもあるぞ。弟子たちも呼んで飯にしよう」

 ラエティアの父親であるシャモア氏は、五年ほど前に亡くなった。八十の年を目の前にして、眠ったまま二度と目覚めなかった。

 夫と父親を失ったアラルガントの人々は失意に沈み、ラエティアも悲しみに耐えられぬようによく泣いていた。

 シャモア氏の妻である、ラセット夫人は今でも健在で、末息子のラグエス夫婦と一緒に暮らしている。

「うん。でも、その前に、母さんに会いたい。母さんの具合はどうなの?」

 カァラは分厚い冬用のコートを脱ぎながら、気遣わしげにレーキを見つめた。

「……手紙に書いた通りだ。悪くはないが良くなってもいない」

「そう……父さんは? 体調はどう?」

「絶好調とは言い難いがな、どうにか生き延びている」

 静かに、レーキは告げる。その様子が痛々しいのか、カァラは眉を曇らせて眼を伏せた。

「父さん、あのね。私しばらく、ここにいて良い?」

「ああ、構わない。部屋は空きがあるからな。……さあ、母さんが起きている内に顔を見せてやってくれ」

 カァラは「うん」と頷いて、ノワールと共にラエティアがいる寝室に入っていった。


 カァラとノワールがやって来たことで、ラエティアは大層よろこんだ。久々にベッドから起き上がり、みなで同じ食卓を囲んで夕食を食べた。

「ノワールちゃんは、本当にカァラちゃんが子供だった頃にそっくりね!」

 確かにノワールは、髪の色も羽の色も母親に良く似ていた。ただひとみだけは父親であるルーに似て、銀にも青にも見える。

 ラエティアが懐かしい昔話を始める。レーキは何度も頷いて、カァラの逸話を弟子に披露する。当人のカァラだけが「もう、やめてよー!」と恥ずかしげに顔を手で覆った。

 翌日から、ノワールはレーキの弟子の一人になった。年下とはいえ同年代の女の子がいることで、先輩である二人の弟子たちは一層張り切って授業を受けるようになった。

 レーキは苦笑するが、カァラは朗らかに「あら、ノワールはかわいいもの。当然」と笑った。

 静かだったレーキの家は、春の花が咲いたように賑やかになった。ラエティアも、日ごとに元気を取り戻して行っているようで。レーキは安堵する。


 カァラとノワールがレーキの家にやって来てから、一ヶ月。

 その日はひどく寒くて、レーキは朝から体調がすぐれなかった。

 灰色の雲から絶え間なく雪がこぼれ落ち、森を白銀が覆い尽くす。雪は夜の間に降り積もり、それでもしんしんと止む気配はない。

 昼も間近だというのに。垂れ込めた雲は低く、辺りは薄暗く、全ての音が雪に食い尽くされているように。家の外は静寂に満たされている。

 そんな雪空の下、雪をかき分けて森の道を一人の旅人がやってくる。

 旅人はレーキの家の明かりを見つけると、安堵で白い息を吐いた。

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