第52話 痛み

 最初に感じたのは『痛み』だった。

『痛み』はいつでも自分の隣にあって、自分を縛り付けていた。

 幼かった頃、何か些細ささいなことで養父は自分を殴った。自制の利かない酔っぱらいの一撃は強烈で、幼い体は容易に傷ついた。

『もう少し加減しておやりよ! 死んじまったら元も子もないだろ!』

 養母は笑いながらそう言っていた。それは彼女の優しさなのだと過去の自分は思っていたが、今から考えるともっと利己的な理由からくる言葉だったのだろう。

 自分が死ねば働き手が無くなる。そんな打算からくる言葉。

 ああ。今解った。自分が酒に対して消極的な理由の根は養父母だ。

 彼らは自分に全てを押し付けて、日がな一日酔っていた。それが悲しかった。恨めしかった。だから。だから自分は酒が、『キライ』だったのだ。


「……痛、い」

 口に出すと、はっきりと自覚する。足が腕が羽が──全身痛みのない箇所など無いように痛む。この痛みが消えるなら。酒で良いから口にしたい。いいや、それよりも。

『治癒水』を入れていたポーチにのろのろと手を伸ばす。中に入れていたモノは全てがぐちゃぐちゃで、『治癒水』のびんは割れていた。

「……」

 ああ。ここは……どこだ?

 落胆しながら隻眼を巡らす。

 暗い場所だ。あまりに暗くて、何も見えない。複数の気配が身じろぎする音が聞こえる。

 頬に感じる、石造りの床はわずかに濡れている。首から提げている王珠が、胸元に当たって痛い。

 口の中は潮の味がして、ひどく喉が渇いた。それから、何かがすえたような強烈な臭いが鼻をつく。

 ──ここは、船の上じゃないのか?

 自分は助かったのか? でも、どうやって? 船はどうなった? 嵐は? ラファ=ハバールは?

 まず、必要なのは情報だ。そのために明かりが欲しい。レーキは痛みに軋む体をゆっくりと起こした。ああ、背中がひどく痛む。

「……『ルー……』……」

 人差し指の先に小さな明かりを点す。ざわりと周りの気配が動いた。

『光球』に照らし出されたのは、薄汚れた人の群と石造りの狭い部屋。三方は窓のない壁に囲まれ、最後の一方はやはり窓の無い木製の扉で閉ざされていた。この部屋は光の射さぬ暗闇の中だ。

 成人が三人も腕を広げれば壁に届いてしまうその部屋の中に、十数人がひしめいていた。

「ルー……!!」

 誰かが呟いた。人の群は一斉に『光球』を見つめている。その表情はみな一様に怯えていた。

「ルー? リレ エスト ウェネーフィクス……!?」

「クィド トゥ イク……ウェネーフィクス……!!」

 人々の話す言葉はレーキの耳に入るものの、なにを言っているのか意味は分からない。どうやら共通語ではないようだ。

「……ここは……どこだ?」

 レーキは痛みをこらえて、一番近くに居た女性に話しかけた。

 泥でもかぶったのだろうか。汚れにまみれたぼろ切れのような服を着た女性は、その格好には不釣り合いなほど、真新しい金属製の首輪をつけていた。

 垢じみた顔を『光球』に照らされて、女性は「ヒィ……!!」と声を上げた。

「……オ、オディ イルッド! アヴィルラ メ! クィア ノロ モルティム!」

 彼女が叫ぶ言葉も、レーキには理解出来ない。共通語でないことは確かだが、よくよく聞けば、彼らの言葉は天法の呪文にどこか似ているような気がする。

「教えてくれ、ここは……どこ、だ? 俺の言葉が、解るか?」

「……イルッド!! ク、クィット ディシス!!」

 駄目だ。女性は怯えて悲鳴をあげるばかりで、耳を貸してはくれない。

 せめて、何か器があれば。身を苛む痛みを緩和する『治癒水』を造ることが出来るのに。レーキは床を這い進んで器を探した。怯えた人々はレーキを避けるように身を引いていく。

 腕を動かす度、足を進ませる度、全身に痛みが襲いかかってくる。レーキは、歯を食いしばって痛みに耐えた。

 どうにか部屋の隅で、手のひらに収まるほど小さく縁の欠けた椀をみつける。

「『アク……』、『治癒水パナケア=ドローレ』……」

 椀を手に取ると清潔な水を造り、それを『治癒水』へと変えた。痛みに苛まれていない普段なら数分もかからずに出来る手順なのに。今は集中することすら難しい。

 どうにか出来上がった『治癒水』を、口に運ぶ。それは、ひどく苦かったが、喉を下って胃の腑にたどり着くにつれて、痛みはゆっくりと落ち着いていった。完全になくなった訳ではない。ただ少しだけマシになった。

「……は、あ……」

 椀を石造りの床に下ろして、レーキは『光球』を消した。痛みを抑えても、体力が完全に回復したわけではない。レーキには休息が必要だった。少しだけ。少しだけ眠りたい。

 レーキは知らない言語でざわめく人々を後目に、床に倒れ込むように眠りに落ちた。



「……ソルジット! アーラ=ペンナ!!」

「……ぐぅっ?!」

 どれほど眠ったのだろう。深い眠りの底にいたレーキは、鋭い痛みをみぞおちに感じて目を覚ました。

 レーキは痛みに身をよじり、混乱しながらまぶたを持ち上げる。二人の男が自分を見下ろしていた。

 一人は獣の特徴の濃い獣人の男。彼は松明を手にしている。もう一人は無精髭を顔中に生やした人間の男。彼は丈夫そうな鎖を携えていた。

 男たちは部屋の中にいる人々に比べたらまだ清潔な服を着て、首輪はしていない。

 無精髭の男はレーキの髪を掴んで、そのまま彼の身を無理やり引き起こした。レーキは男のなすがまま、顔を上げる。

「ノクィスト イクト エスト ウェネーフィクス?」

「……ネ! イズデム エステ!」

 男はレーキの顔を覗き込みながら、部屋にいた人々に何かを尋ねた。人々は男たちに何かを訴える。言葉が解らない、と言うことがなんとも、もどかしい。

「何を、言って……いるんだ……?」

「……ターチェ! ……ヴェニ!」

 無精髭の男は荒々しい手つきで、レーキの首元に巻かれていた金属の輪を掴んだ。

 それで、レーキはやっと部屋にいた他の人々のように、自分も首輪をしていることに気がついた。

 無精髭の男は素早くレーキの首輪に鎖をつけて、彼を部屋から連れ出した。

 狭い部屋の外は、同じような部屋の扉が幾つか並ぶ通路になっている。床には水がたまり、それが腐ってひどい悪臭がする。

 薄暗い、粗雑な石造りの壁には松明が並んでいた。おかげで、どうにか転ばずに歩くことが出来た。

 男たちに引かれて、レーキは天井の低い通路を進んでいく。

「……どこに、行くんだ?」

「ターチェ!」

 レーキの問いは、一喝によって封じられた。黙々と、通路の先に向かう。

 そこには、先程の部屋よりは大きな部屋が一つ。ここは地下なのだろうか? この部屋にも窓はない。松明で照らされた部屋の真ん中には、人一人が横たわってもまだ余裕のある四角い石製の台が設えられていた。

 石の台には鎖のついた枷らしきものが固定されている。

「ここは……?」

「ターチェ!」

 無精髭の男は『黙れ』とでも言っているのだろうか? 男たちはそのまま、レーキを台の上に突き飛ばした。

「……くっ!? 何を……っ!?」

 二人がかりで、慌てるレーキを仰向けの姿勢で石の台にくくりつけようとする。

 このまま石の台に囚われる訳には行かない。レーキは手足をばたつかせ、無精髭の男に向かって『金縛り』を放った。

「エト ホク ガイ エスト! ヴィレ ウェネーフィクス!!」

 獣人の男が叫ぶ。レーキは彼にも素早く『金縛り』をかけた。

 身動きのとれなくなった男たちを、台のある部屋に置き去りにして、レーキは首輪から鎖をはずして走り出す。金属の首輪自体は繋ぎ目が見つからず、手探りで外すことが出来なかった。

 台のある部屋の先には、上り階段が見えている。レーキは必死になってその階段を上った。襲い来る痛みに、何度も気力が萎えそうになる。

 必死に階段を上りきると、そこには重い金属製の扉が立ちふさがっていた。肩を扉に押し当てて目一杯、力を込める。

 鍵はかかっていないようだ。次第に扉は油の切れた蝶番の音を響かせて、開いていく。

 外は昼間なのだろうか? 扉の隙間から溢れてくる光が、薄暗い地下の明かりに慣れた隻眼に眩しかった。

 上階は地下と違って木造で、内装は地下よりもずっと清潔で、乾いていた。

 樽や木箱がきちんと並べて置いてある。それはどこか商店の倉庫を思わせた。

 レーキは地下へと続く、重い金属製の扉を押して閉じる。念のために『封錠』の天法をかけて、容易には扉が開かないようにする。

 ああ。痛みが、特に背中と羽の痛みがぶり返してくる。

「……はあ、はあ、はあ……っ」

 肩で息を継ぐ。脂汗が額を伝い落ちる。

 逃げなければ。ここから逃げ出さなければ。そんな本能に従って、レーキは痛む体をだましだまし、倉庫の外に運んでいく。

 倉庫の外は廊下が左右に伸びている。右はすでに壁が見えていた。先程の男たちの仲間に出くわさぬよう、慎重に左の廊下を進んでいくと、そこには正面に木製の洒落た扉と、右側に木製の質素な扉が有った。

 ここが店だとするならば、洒落た扉は店の表に通じる扉だろう。そこには確実に出口がある。レーキは念のため、質素な扉に小声で『封錠』をかけてから、洒落た扉をほんの少しだけ開けて、中をうかがった。

 そこはやはり商店のようで。身なりの良い数人の男女と、店員らしき恰幅の良い男が何やら言葉を交わしていた。

「ホック サフィス エスト。サルヴス エスト ボンヌゥム バロウム」

「クム ムルタ リン コスタ?」

 相変わらず、彼らが何を言っているのか解らない。聞き慣れない言語を翻訳する術など、天法にはない。

 レーキは一か八か、店の表に躍り出た。

「『金縛りパラリーゾス』!」

 客らしき男女と店員を一息に縛る。驚愕する暇さえ与えない。人数を広げると効果時間が短くなるが、仕方ない。逃れた者はいない。上手く行った。

「サルヴス フウジット!!」

 叫ぶ店員を後目に、レーキは店を飛び出した。


 店の前はまた、別の店。その隣もその隣も。ここは商店の連なる街中だ。

 表に掲げられている看板は、どれも読むことは出来ない。文字の形はどこかで見たことのあるモノだ。だが、どこでみたのか。思い出せない。

 ここは繁華街なのだろうか? 並んだ店も通りも賑やかで、人と亜人とで溢れかえっていた。

 店が並ぶ通りの奥は緩やかな坂道になっていて、ここから見るだけでも大きな建物が幾つかそびえている。

 その反対側は港なのか、小型の船と陽光に照らされて光る海が見えた。

 空は青く、雲一つ見えない。ここが一体どこなのか、それは解らない。だが、まずはあの店や男たちから逃れることが専決だ。

 レーキは翼を広げて、この場から飛び立とうと大地を蹴った。

 ──しかし。彼はひどい痛みに襲われて、飛び上がることさえ出来ずうずくまった。

 恐る恐る、黒い羽を広げる。右の羽は無事だ。傷もぎこちない所もない。

 では、左の羽は。

 関節の手前から先が見当たらない。羽を目一杯広げても、左は右の半分にも満たない。意識を失っている間に。鋭利な刃物かなにかで断ち切られたのかもしれない。傷口はすでに血が止まって、滑らかな断面をさらしていた。

「……あ……っあ……っ!!」

 広げた羽を見上げて、レーキは愕然と声をこぼした。ひどい痛みの正体はこれだった。これだったのだ。

「……あ、あ、あ……あああああぁぁぁぁ……!!!!」

 止めどなく隻眼から涙があふれ出る。どうして。どうして、こんな、ことに。

 幼い頃からこの羽がキライだった。こんなモノがなければ、と憎んだこともあった黒い羽だった。

 だが、いざ失ってみると、それは自分を自分たらしめていた、大切な欠片の一つで。

 なにが欠けても、自分は今の自分にはならなかった。その決定的なモノが欠けてしまった。

 どうしていいのか、解らない。レーキは逃げ出すことも忘れて、往来にうずくまった。

「……あ、あ、あぁ……!!」

 駆け寄ってくる人々の足音がする。ああ。恐らく羽を切り落としたのは彼らだ。

 彼らは人々をじめじめとした不潔な空間に押し込めて、首に枷をはめるような連中なのだから。

 逃れなくては。再び捕まれば、どんなことをされるか解らない。

 それに、自分はまだ生きているではないか。

 羽を失っても、二度と空を飛ぶことが出来なくても。自分は生きなければならない。

 ここで死んではならない。大切な人々のためにも。

 それでも嗚咽は止められない。レーキは泣きながら、地を這う。

「……カピト、カピト ホック!」

 声が近い。逃れなければ。身を起こせ。走れ、走れ!

 命令に従ってくれない体を叱咤して、レーキは立ち上がろうとする。

 その時。頭上から不意に、声が降ってきた。

「……アスネ ヴェネ?」

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