第24話 世界の命運

 夜遅く寮の部屋に帰ってきたレーキに、アガートは何も聞かないでいてくれた。

 たずねる代わりに、体を拭くための布とスープと柔らかなヴァローナのパンを差し出していつものように茫洋ぼうようと笑う。

「……アニル姉さんがね、『こいつを君に食わしてやれ』ってさ。君、姉さんに好かれてるなあ」

「姉さんが? ……ありがとう、ございます……」

「お礼は姉さんに言うと良い。オレじゃ無くてねー」

 スープは腹に入ると体を芯から温めてくれるほどに熱くて、アガートが自分のために法術を使ってくれたことがうかがえる。夜食を口にして、レーキは初めて自分が空腹だったことに気づいた。

 久しく忘れていた感覚だ。飢えを感じずに日々を過ごすことの出来る今の自分は、とてつもなく幸運なのだと、レーキは改めて思った。

「……俺、放課後はしばらくセクールス先生の所に通うことになりました」

 温かな食事で人心地がついたレーキは、ぽつりぽつりとこれまでの経緯をアガートに告げる。

 この人にはもう黙っていられない。話した後に待っているのが拒絶であろうとも、このまま何も告げずに居ることがひどく卑怯な気がした。だから、話した。

 今朝、教室で起こったこと、自分が盗賊団で養われていたこと、呪いのこと、セクールスに言われたこと。

 全てを黙って聞いてくれたアガートは、がりがりと髪をかき回して珍しく困ったような表情を浮かべた。

「……うーん。そいつは相当危険な呪いだぜ、レーキ。君の肩に世界の命運が乗っかるんだ」

「……え?」

 アガートが突然言いだした言葉にレーキは面食らってしまう。話が飛躍しすぎていて、レーキには何のことか解らない。

「……世界の、命運?」

「例えばさ、君がこれから生きて行ってさ、もし、もしもだぜ、有りとあらゆる人々──この世界に生きる人々を、天王を、竜王を──とにかく生きとし生けるもの全てを愛するようになったりしたら、どうなると思う?」

 そんなこと、考えてもみなかった。ただ愛しく思う人々を守りたい。それだけがレーキの望みだったと言うのに。世界中の人々を愛する。そんなこと、どんな博愛に溢れた天王てんおうにだって無理というものだ。

「……待ってください! そんなことあり得ないです!」

「そーかなあ。あり得ないなんてそれこそ『あり得ない』ぜ。そして、そうなったらこの世界に住む全ての人々は君と運命共同体って訳だ」

「そ、そんな……!」

「……でもね。そこにこそ『付け入る隙』って奴があると思うんだ。死の王だって君と一緒に全ての命を刈り取る訳にはいかないだろう? だからさ、死の王に会ったら言ってやると良い。『俺はこの世界の全てを愛している』ってさ」

「……思ってもないことは言えませんよ……」

「ははは。その為にもまず、死の王に会わなきゃねー」

 アガートの冗談めいた物言いに、レーキは力なく言葉を返した。アガートはうーんと大きく伸びをして笑いかける。不意にその表情が真剣味を帯びた。アガートはレーキに改めて向き直った。

「……変なこと聞くけどさ。……オレはさ、今この時、君の運命共同体かい?」

「……?!」

 ずきりと核心を突かれた気がした。掴み所が無い笑顔の裏で鋭く観察し、賢く洞察するのがレーキのルームメイトだった。そのことを改めて思い知らされる。

「……ごめん、なさい。きっと、そうです。あなたのことをずっと尊敬しているし、一緒に居ると師匠のそばに居たときのように安心します。それを『愛』と呼ぶのかどうかは解らない、けど……あなたには死んで欲しくない。ずっとしあわせで笑っていて欲しいって思います」

「……君は全く……難儀なんぎな呪いを受けたもんだねぇ」

 しみじみとアガートは呟く。もう一度がりがりと長く伸び放題にした髪をかき回し、意を決するようにまぶたを閉じる。

「……正直言うとね、オレは怖い。死ぬのとか初めてだし、一生に一度のことだろ? 緊張するよね」

 相変わらず冗談めかして告白するアガートの表情はいつになく真剣で。レーキは何も言えなくなってしまう。

 誰だって死ぬことが恐ろしい。ましてや他人に死期を握られるなんて、自分だったら堪え難いことだ。それなのに。アガートは微笑んだ。

「……でもね、嫌じゃ無いんだ。その呪いは言ってみれば君がオレに向けてくれた好意そのものだから。残念なのはその呪いが解けない限りオレは君を一人でとり残してしまうだろうってこと。君はさ、結構寂しがりだからさ、オレが死んだらきっと泣いちゃうんだろうなーって思うとね」

 ぱちんと片目をつぶって、アガートが笑う。それが恐怖を吹っ切る為の強がりだとしても、アガートは笑っている。

 もっと早くに、呪いのことを告げろとなじられても仕方が無いと思っていた。この部屋から出て行って欲しいと言われても、仕方が無いとも。それでもこの人は笑っている。笑って、レーキの行く末を案じてくれる。

「本当に、ごめんなさい……俺はこの天法院てんほういんに来るべきじゃ無かったかもしれない。そうすれば……少なくともあなたに迷惑をかけることは……」

 レーキに返せるものは、ただ謝罪の言葉だけで。生き抜くたびに、年を数えるたびに、失えない人が増えて行く。

 だったら僻地へきちの小屋にもって静かに隠遁いんとんしていた方が、これから出会うはずだった人々のためになるのかもしれない。そんな考えが心に芽生えて息が苦しくなる。

 ぎゅっと胸を押さえて俯いたレーキに向かって、アガートは優しく、幼子に諭すような声で語りかけた。

「なあ、レーキ。動き出した時間は戻らないんだよ。オレたちが出会ったことを白紙には出来ないし、ここに来なければ君は呪いを解く方法に近付くことも出来なかった。……そもそもね、人ってやつは一人では生きられない生き物なんだ。だから君はこれからも誰かに出会って、その人を愛して、一緒に歩いて行って良いとオレは思うぜ。それが『人生』ってもんさ。呪いがあろうと無かろうとね」

 アガートはいつでもレーキが欲しかった言葉をくれる。未来を指し示してくれる。他人を思いやって笑うことが出来る。年齢はレーキとさほど変わらないはずなのに、ずっと強靱で柔らかな心を持っている。

「少なくともオレは君に出会えて良かったと思っているし、君もそうだと良いと思うほどには君のこと気に入ってるぜ」

 もいちどぱちんと片目をつぶって、アガートはいつも通り茫洋とした微笑みを浮かべた。

 泣くのは呪いが解けたとき、そう決めた。だからレーキは涙を流す代わりに堅く唇を噛んだ。

「……ありがとう……アガート……!」

 万感の思いを込めてただ一言。いつでも何度でも言いたかった一言を。レーキは泣き顔の代わりに笑顔で告げた。



 夜が明けた。

 朝の鐘が鳴って目覚めれば、レーキは今日も『赤の教室・』へと向かう。そこに何が待ち受けていようとも、行かねばならない。天法士てんほうしとなるために。

 レーキがいつものように教室に入った途端、話し込んでいた生徒たちが静かになった。

「おはよう」

 一言だけつぶやいていつもの席に向かう。生徒たちは静かにその行動を見つめている。

 それは予想通りの反応だったから。レーキの決意を揺るがすようなことでは無い。

 法術の教科書を机においた。師匠がくれたあちこちがすり切れた大切な本。その手触りがレーキの心を鼓舞してくれている。何を言われようとどんな仕打ちに遭おうと、この教室を離れる訳には行かない。授業を聞き逃す訳には行かないから。

 ──師匠、俺に勇気をください。全てをやり遂げるだけの力をください。どうか、どうか!

「……おはよう、レーキ。もう具合は良いの?」

 はじめに沈黙を破ったのは、意外なことにエカルラートだった。彼女はおずおずと、言葉を発した。

「……エカル、ラート……?」

 その声にレーキは驚いて顔を上げた。エカルラートは心底からこちらを案じているようで、その表情は心配を湛えて曇っている。

「おはよう。レーキ」

 エカルラートに続いてグーミエが挨拶を返してくれた。彼はいつもより少し硬い表情かおをしてレーキを見ている。

「……!」

 グーミエはレーキのそばまで歩み寄って、硬い表情のまま、すうと息を吸い込んだ。まるで覚悟を決める前のように。

「……ねえ、レーキ。みんなが聞きたいと思うから僕が代表して聞くよ。君が盗賊だったってシアン君の話は……本当なのかい?」

 レーキはすぐに言葉を返せなかった。それは本当のことで、どうすることも出来ない自分自身の過去だ。

「……ああ。本当だ。俺は盗賊団で養われていた」

 レーキは努めて平静に事実を述べた。そうすることしか出来なかった。一瞬ざわりと教室が色めき立つ。グーミエは小さくため息をついて頷いた。

「そうか……では、これは僕が聞きたいから聞くよ。今の君は盗賊なのかい?」

「いいや、違う。俺は天法院の学生で……王珠おうじゅを授かって天法士てんほうしになるまでは学生だ」

 グーミエが真剣な顔で聞くから。レーキも背筋を伸ばして答えた。それがレーキに出来る精一杯だった。

 そうだ。違う。俺はもう盗賊じゃ無い。帰りたいと願って帰れる場所はもうあの砦じゃ無い。

 少しの沈黙のあと。グーミエは大きく頷いて顔を上げる。その表情は先ほどとは打って変わって晴れやかで、憂いをどこかに置いてきたようだった。

「……そうか。なら良いんだ。……僕もそうだから。君と同じ、王珠を授かるまでは学生だよ」

「……!」

 今度はレーキが驚愕きょうがくする番だった。手酷く拒絶されたとしても仕方が無いと、覚悟を決めていたのに。グーミエは笑っていた。優等生らしい、はにかんだ笑みを浮かべてレーキを見ている。

「あ、の、わたしも! ……わたしも同じよ、レーキ。王珠を授かるまでは学生なの」

 エカルラートが、授業中にそうするように手を上げて発言する。その顔があんまり一生懸命で、レーキの胸に言葉が詰まる。そう言えばエカルラートの質問に答えても居なかった。

「……ありがとう、エカルラート。……具合はもうすっかり良いよ。昨日は大声出して、ごめん。……みんなも、ごめん」

 内心のことは解らない。レーキが盗賊であったことにいきどおっている者もいるだろう。ただ彼の謝罪を手酷くねつける者は、その場に誰一人居なかった。

「……おやおや。なぜ貴様のような薄汚い盗賊がこの神聖な教室に居るんだ?」

 たった一人の例外を除いて。

「シアン・カーマイン……」

 レーキの呟きを聞き逃さず、シアンは眉をつり上げた。

「私の名前を気安く呼ぶなよ。盗賊」

 昨日の意趣返しとでも言うのか。始業の鐘間近に教室に入ってきたシアンは忌ま忌ましげに吐き捨てた。

「昨日教室を逃げ出してそのまま学院を去ったと思っていたのに……なぜ貴様はここに居るんだ?!」

 レーキを指さして、シアンは詰問するように、あるいは弾劾するように叫ぶ。

「……天法士になるために。この教室で法術を学ぶために。俺はここに居る」

 決意とともに静かに告げたレーキに向かって、シアンは怒りを隠しもせずに喚き立てた。

「まだそんなことを……!」

「……なあ、教えてくれ。俺がお前に何をした?」

 レーキは席から立ち上がった。純粋な興味が湧いてくる。何故シアンは俺を目の敵にするのだろう? 何故俺をいとうのだろう? シアンと対峙たいじしたレーキは凪いだ心のまま問うた。何故?と。

「俺が盗賊だったことでお前が何か不利益をこうむったのか? 家族や知り合いが盗賊の被害にっていたというなら……俺には謝罪することしか出来ない。……すまない。でもその盗賊はおそらく俺じゃない」

 的外れなレーキの謝罪に、シアンはますます怒りを募らせているようで。褐色の頬に血が上っているのが解った。

「違う! そんなことはどうでも良い! ……貴様のような薄汚い盗賊が……薄汚い黒羽がこの教室で大きな顔をしていること自体が不愉快だ!」

 ああ、そうか。またもやこの羽、この黒い羽のせいか。シアンの本音、聞き慣れた罵倒ばとうにレーキはいっそ安堵する。

 ふっと皮肉く微笑みを浮かべて、静かに、聞き分けのない子供を諭すようにレーキはつぶやいた。

「そうか……解った。納得したよ。……俺は好んで黒羽に生まれた訳じゃない。お前のような羽色に生まれていればと思ったことも何度もあるよ。でもこれは俺には全くどうしようも無いことなんだ。だから謝罪もしないしお前の為にこの教室を出て行くこともしない」

 きっぱりと言い放ったレーキの隻眼せきがんは密やかな熾火おきびのように燃えている。誰がお前なんかに負けてやるものか。この羽に負けてやるものか。それはレーキが得た一つの答え。この羽のせいで何かを諦めるなんて、もう真っ平だ!

「貴様……!!」

 シアンが拳を固める。すぐさま利き腕の右でまっすぐに殴りかかってくる。

 わかりやすい軌道だ。武術の達人で無いレーキにも、容易く避けることが出来た。殴り返してやろうか。逡巡しゅんじゅんする間に自然と体が動く。横をすり抜けたシアンの拳を押さえて、そのまま腕を背中にねじり上げる。昔習った素手格闘術の応用だ。

「……殴り合いがやりたいなら教室の外でやれ」

 いつも通り、始業の鐘ぴったりに現れたセクールスは、呆れ顔で教室の戸口をあごでしゃくった。

「セクールス先生。……おはようございます」

 レーキがセクールスを見て腕を放すと、シアンは大げさにねじられた辺りをさすりながら教授に訴えた。

「先生! 私はこの薄汚い盗賊に暴力を振るわれました!」

「……私が見たのは貴様がレーキに殴りかかる所だったが。それより前に殴られたのか? 鳥人

「……!」

 生徒たちを決して名前で呼ばないこの教師が、セクールスが、生徒を呼んだ。「レーキ」と。

 ざわりと教室が色めき立つ。シアンですらあっけにとられてセクールスとレーキを交互に見ている。

「……ふん。さっさと席に着け。ガキども。授業の時間は短いぞ」

 教師の一言に、レーキは軽く手を払って何事も無かったように席に向かった。その通りだ。授業の時間は有限で無駄に使うことなど出来ない。

「ああ、レーキ、昨夜の話だが。早速今日の放課後から始めるぞ。帳面を付けても構わん。準備を整えて私の部屋に来るように」

「……はい。よろしくお願いします」

 深々とレーキは頭を下げた。昨夜の内にこの教師と生徒の間に、なにが起こったのだろう。どんな約束が取り交わされたというのか。生徒たちは興味を隠せずにざわめきだした。

「……うるさい。黙れガキども。これ以上騒ぐなら教室を出て行って構わんぞ」

 セクールスの叱責しっせきに生徒たちは仕方なく押し黙る。それでも好奇心を隠せずに生徒たちはレーキを注視していた。

 床にへたり込んだシアンだけが、ぱくぱくと陸に打ち上げられた魚のように呼吸しながら呆然としている。

「……ふん。それでは本日の授業を始める」

 セクールスの宣言とともに。その日の授業が始まった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る