痛覚は難しい
「あいたっ!?」
【イタリア共和国カンパニア州 ナポリ海軍基地】
「おやおや。大丈夫かい」
ゴールドマンは苦笑した。開いたドアの直撃を受けたのはリスカム。平謝りする下手人を許すと、彼女はこちらを振り返った。
「平気。平気だけど、痛いよゴールドマンおじさぁん……」
「君は昔からそそっかしいところがある。気を付けたほうがいい」
「うん……」
人間だったら鼻先が赤くなっていただろうが、そこは毛に覆われた知性強化動物。色は変わっていなかった。
「でもゴールドマンおじさん。どうしてちょっとぶつかっただけなのにこんなに痛いの?五千メートルからパラシュートなしで落ちてもへっちゃらなのに」
ゴールドマンは苦笑した。リスカムが言っているのは過去に行われた神格の訓練のひとつである。元々無改造の通常人でもその高度から飛び降りて助かる場合があるが、適切に訓練を受けた神格なら無傷で着地可能である。破壊された巨神から敵の目を逃れつつ脱出する訓練の前段階としてモニカが考案したものだった。人類側神格最多の被撃墜記録を持つ彼女ならではで、近日中には他国の人類製神格との合同訓練でも教育するとかなんとか。
「それは脳が予め覚悟を決めて、アドレナリンが出ているからだな。対する今は全くの不意打ちだった。それでもリスカム。君なら事前に察知できたはずだぞ。つまり不注意の結果だ」
「ふぇ……」
涙目になるリスカム。予備知識無しには、二百キロ先の駆逐艦を外部からの支援なしに撃沈出来る超生命体にはとても見えまい。
「そもそもなんで、私達には普通の人とおんなじ痛覚があるの……?いらなくない?子供のときはともかく」
「そんなことはない。痛覚は難しいんだよ。これは脳で生じる複雑な知覚だ。例えば手を怪我すれば、そこから脊髄へ、そして脳へ伝わりようやく痛みの知覚が生じる。体に損傷を生じる危険性がある刺激なら、痛み受容体という特別な神経繊維が活性化されるんだが、こいつはたまに誤作動する」
「誤作動?」
「ああ。例えば唐辛子なんかに含まれるカプサイシン。こいつは冷たい感覚を担当するVRPV1という受容体を活性化させるので冷たいと感じるんだ」
「なんでそういうことが起きるんだろう」
「生命進化は場当たり的だからね。ある機能を持つ物質を別のことに流用するなんてのは当たり前に行われている。迂闊にひとつ、機能を省けばどこに影響が出るかわかったもんじゃないのさ」
「そっかあ」
「脳で痛覚情報を受け取ると、2つの経路でそれは伝わる。ひとつは感覚的な識別だ。熱いのか冷たいのか。物理的な衝撃なのか。強さはどうか。もう一つは感情的な処理をする脳領域だ。
最終的にはこれらの情報は大脳皮質に辿り着く。そこで感覚的な識別と感情が統合されて痛みの知覚になる。
さらに、ここで考慮しないといけないものがある」
「まだあるの?」
ゴールドマンは首肯。
「認知的、経験的なものが痛みの知覚には大きく影響する。さっきの例なら、五千メートルの高さから落ちる君は覚悟が出来ていた。痛みを予測していたわけだ。だから耐えられた」
「なるほどなあ……」
「ところで、のんびりしてていいのかい?」
「あっ!」
慌ててドアから出ていくリスカムを、ゴールドマンは優しく見送った。
―――西暦二〇二五年三月。リオコルノ完成から二年目、人類の保有する神格の総数が三桁に達した翌年の出来事。
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