一九九九年、七の月


 ぼくはすっかり、無気力で自堕落な日常に戻っていた。


 自宅に戻るなりベッドに座り缶チューハイを開ける。

 定時に解放されたもののそれはそれで将来だとか、仕事だとか、漠然とした不安と向き合わざるをえず、気分が落ち込みそうだったからだ。


「……頑張ってみるか」


 なにか起きている。

 もしかしたら、中西は有名監督、美和は呪われたアイドルになるかもしれない。

 そうなれば、予算も増えて、チームスタッフも増えて、ぼくも少しはやりがいを見いだせるかもしれない。

 そうでなくても、なにか変わるかもしれない。

 かもしれない、かもしれない。だが、可能性はゼロじゃない。


 アルコールのおかげでかろうじて楽観的な気分になり、足元も怪しくなったところで早々に寝支度をはじめることにした。十一時には眠りに沈めるだろう。しかも、明日は遠出の予定あわせて、午後出社となっている。

 アラームに起こされない平日の朝――擦り切れた社会人にとって極めて甘美で背徳的な響きである。

 眠りにつくだけだというのに、ぼくは大事なイベントがはじまるかのごとくワクワクとしていた。


 そこに水を差したのは、インターホンの音だった。


 こんな時間に?

 隣人だろうか。

 セキュリティなど皆無の安アパートの二階だ、変質者の可能性だってある。

 様々な疑問を浮かべながらベッドから玄関まで一直線の廊下を千鳥足で歩く。


 見知らぬホームレスなどがそこに立ってニヤニヤしている様などを想像し、覚悟しながらドアスコープを覗いた。


「……ん?」


 いた。

 何かはわからない。

 見慣れた玄関外、コンクリートの床と手すりだけのはずだった風景に、人影が伸びていた。

 隣の部屋の前あたりに立っているのだろうか。人影はゆっくりと左右に揺れながらその場に佇んでいる。

 ドア越しに、ぶつぶつと喋る声が聞こえた。性別こそわからないが、大人の声だ。


 気が違っているのかもしれない。嫌なものを見たな。かかわりたくない。

 ぼくはそう思いながらドアから離れた。


 あまり長いこと居座るのなら、隣の家のやつが警察なり大家なりに連絡するはずだ。なんにせよ、朝になったらいなくなっているだろう。

 ぼくはやっつけにそう納得することにした。

 なにより、久々に訪れた心地よい酩酊を手放したくはなかった。


 ベッドに横になって目を閉じる。

 眠りに落ちるまでのまどろみの中で、ふと昔のことを思い出していた。

 唐突の回想だった。

 もしかしたら、ぼくなりに予兆や不安を感じていたのかもしれない。


 *


 一九九八年。

 ぼくが小学校に入りたての七歳の頃。


 記憶に焼き付いている光景といえば、本屋の店頭に山積みされた世界終末予言に関連する書籍や、映画『リング』のヒットを記念したポップだ。

 時はオカルト・ホラーブームの真っただ中だった。


 かの有名なノストラダムスの予言では、一九九九年、七の月に人類滅亡。

 続いてブームになったマヤ歴の予言では二〇一二年の十二月に世界滅亡が示された。

 いまなお『太陰暦では二〇二〇年』『この予言はあの事件を言い当てている』といった記事を見かけるほどである。

 他にも、携帯電話の普及もあって呪いの手紙が復活し、チェーンメールなんかも流行った。いわゆる特定の日までに受け取った媒体をコピーし、また別の誰かに送らなければ呪われてしまうという伝播スタイルの都市伝説だ。

 振り返ってみれば、最新機器がもたらした新たな生活様式と、終末予言が呼び込んだ古い伝説が入り乱れ、融合し、新たな化け物たちが次々に生まれた時代だった。


 当事者たちにとって、新たな化け物たちは娯楽であり、流行であり、商売道具であり、この時代は黄金期だったのかもしれない。

 だが、子どものぼくからしてみれば、あまりにも不安や恐怖を煽るものが多すぎる時代でもあった。


 小学校に入りたてのぼくは、ノストラダムスの予言を恐れ、中学校に入ればマヤ歴の予言に怯えた。幽霊や宇宙人にも震えあがっていた。

 ぼくは、未知の敵を知ろうとした。調べ、知り、また怯えた。

 それがぼくの青春の大部分だった。

 意外かもしれないが、あの頃のぼくはオカルトやホラーが大の苦手だったのだ。とにかくなんでも真に受けた。言い換えれば、純真で素直だったのかもしれない。


 だから、人類は一九九九年、あるいは二○一二年、そうでなくとも近いうちに滅びるものだと思い込んでいた。

 少なくとも生きているうちに恐ろしい事件は起き、ぼくは長生きできないのだと。

 大人になれない。だから、将来への努力は無意味なのだと。


「どうせいつか死ぬ」


 そう言って回った。


 そんなぼくが日々の生活でやることといったら、父が使わなくなったビデオカメラ片手に日々の映像を撮っては消すことばかり。

 家族はそれを『ビデオ日記』と微笑ましく呼んでいたが、ぼくは『遺書』のつもりだった。きたる大災害を生き延びた未来人、あるいは地球外生命体に向けたメッセージだ。

 きっと未来では、ぼくのビデオは博物館で再生され、異星人の子どもが見るのだと想像していた。ぼくは存在しない誰かのために、一生懸命、滅びる予定の世界を駆けまわった。自分のことなどおざなりだった。


 結局、マヤの予言の翌年、相変わらず滅びなかった世界でぼくは諦めとカメラ依存を抱えた大学生となった。

 意思決定の仕方も、人間社会での生き方さえもわからないうちに、気が付けば、二十歳になり、未来も定まらないまま卒業し、オカルトオタクの社会人になった。

 同時に、幽霊や宇宙人への畏れも薄まっていった。現実主義者になったわけではない。

 いつまでたってもぼくの前に現れないオカルトが、遠い憧れになってしまっただけだ。


 ぼくの青春は、存在しないものに振り回されて、拗れるだけに終わった。


 どうしていまさらこんなのことを思い出すのだろう?

 ありもせんことを真に受けて人生狂った哀れな連中――そんな中西の小言はいつものことだ。


 答えには、角守燈子が思い浮かんだ。

 ぼくにも彼女のように未知の力があったら。あるいは、彼女のような、霊感やメビウス症候群などといった数奇な運命を背負った人間がそばにいたのなら。

 もっと思い描いていた、アニメや漫画に感化され、拗れきった青春が送れたのではないだろうか。


 ああ……だけどもう、いまのぼくには無理だろう。

 一九九九年の大人たちのように、遠い憧れになったオカルトでさえ金に換算する材料でしかなくなったのだから。


 もう遠い憧れを追う力なんて、残っていない。

 だからせめて、暴走しながらも進んでいく中西の夢追いにのっかろうとしている。


 まったく寄生虫根性、甚だしいやつだ。


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