第53話 いとしいあの子

「わたしの身体に投与していたものが、母体の元というか、つまり細菌だったんだと言ったのです」

 と、ちとせは言った。

 一般棟管理室内にはシンと沈黙がよぎる。倉田とロイは呆然とちとせを見つめるしかない。彼女は淡々とした口調でつづけた。

「なにを投与していたのか、具体的には知りません。でも一文字孝正が言うには、いろいろとブレンドをしている段階だと。いまにスゴいものが育ち上がると、悪びれもせずに」

「あ、アンタの体内で細菌を育ててたっていうのか。まさか──」

「ええ。当時のわたしはろくにものを考えるということを知りませんでしたから、さんざん助けてもらったのだし、その恩返しが出来るのならばそれもよいと思っていました。その細菌によって、わたしの身体に変化が起きるようになったのは、それから十年ほどあとのことでしたしね」

「その十年間、アンタずっとモルモットをやってたのか?」

 ちとせは無言でうなずいた。

「あれっと気付いたのは三十歳を迎えたころのことでしょうか。自分の身体が年を取らなくなって、傷の治りも早くなっていったんです。ふつうは年を取ると逆なのに──変だなとおもったんですのよ。でもそれを正蔵さんに言ったら、彼はとっても嬉しそうにして、成功だといったの」

「成功?」ロイは眉をしかめる。「一文字はなにを作ろうと」


「不老不死のもと」


「…………」

「孝正と正蔵は、手段を問わない“不老不死のもと”を作ろうとしていたの」

 バカな、と倉田がさけぶ。

「それが薬でなく細菌だと? どういう思考でそうなる!」

「単純に考えたらそうなのだわ。人は絶えずおこなわれる細胞分裂によって、新たな自分になってゆくけど、年月を経るにつれて細胞が酸化して分裂せずに死滅していく。じゃあ細胞が常に活性化していたら? 年月を経てもなんら変わらず、若いころとおなじような細胞の働きをしていたらどうなるかしら。わたしに投与されたものがなんだったのかは知らないけれど、結果的に細菌が細胞にすべて擬態するという奇跡が生まれたの」

「…………」

「とはいえ、不死についてはまだ課題も残っていましたけれど。だからって、菌を宿すわたしを殺すわけにもいかないでしょう。でも、その頃から世界情勢が変わってきた。日本は戦争をはじめた──」

「そ、それがなんだと」

「だから、ころしてもいい人間ができたということです」

 嗚呼、と倉田はうめいた。

 細菌の発現に一文字正蔵が絡んでいることは成増が睨んだとおりであったが、まさかその父親の代から始まっていたとは。

 しかしだとすれば、正蔵は感染者の生態をすべて知っていたのではないのか。ロイはその疑問を問いかけた。

「わざわざ成増さんを引き抜いてまで研究していたのは、まだその先に目的があったからなのか。感染したら腐敗するっていうのも、一文字家は初めから知ってたの?」

「いいえ。母体からでなく、母体感染者からの二次感染で感染した者たちが腐り落ちていくというのは、正蔵さんも知りませんでした。なにせそれまではわたしからだれかに移すなんて、危険なことはできませんでしたもの。南硫黄島での出来事が初めてだったそうです」

「まてよ、じゃあ一番初めに南硫黄島で見つかった母体感染者──つまりパイロットは、アンタと関係ある人だったってことだ。これまでほかに感染させねえよう気を付けていたのに、どういう経緯で感染したんだよ」

 そういや、と倉田も口を挟む。

「そもそもパイロットの名前すら俺たちゃ聞いてなかったな。……」

「──恩田一」

「え?」

「パイロットの名前ですわ。出産のときに助けていただいた恩を忘れまいと一文字から漢字をとって、ハジメ」

 わたしの息子です、といって、ちとせがうなだれる。ロイは絶句した。

「あの子が、戦地へ飛ぶ前にわたしのもとへ立ち寄ってくれたときのことです。離れたくなかった。経緯はどうあれ、あの子はわたしにとってたったひとりの家族でした。どうか無事に帰ってほしくて、生きてほしくて、だからわたしは祈りを込めてあの子にキスを……それが、よくないことだと気付いたのは、あの子がふたたび空へ飛んだあとのことです」

「────」

「南硫黄島に不時着したパイロットがいると聞いたとき、どうかあの子であってくれとおもいました。そしたら、あの子だった。わたしの息子だったんです! いてもたってもいられなくて、何度も正蔵に頼み込んで、やっと研究員としてあの子に会うことが出来た。あの子もわたしを母と呼んでくれた。でも──」

「でも?」

「あの子が呼ぶ母は、母親の意ではなかったんです。あの子はもう、すでに意識を細菌に預けてしまっていた。あの子にとっての母は母体細菌のことであって、二度とわたしのことを生みの母と思うことはない状態になっていたんです」

 ちとせは泣き崩れた。


 ※

 沢井さんはどう見ます、と立花が問うた。

 東の水平線から上がり来る朝日に目を細め、泡立つ波飛沫を甲板から眺める平成の平塚八兵衛は、ふんと鼻を鳴らす。

 昨夜の電話を思い出している。

 ──あくまで実行犯という意味です。

 と、電話口で語った倉田と名乗る男は、確信に満ちた声色であった。一族経営のなか突出して発言力をもつという男。やはり、一文字の闇にもそれなりに触れてきたということか。

「どうもこうも、俺ァはなっから恒明がクロだとしか見ちゃいねえ。だが証拠があがらねえ。……倉田のいうとおり実行犯とやらがいるのだとすりゃ、そいつから恒明が殺人教唆したって証言をなんとしても炙り出す必要がある。そういう意味では、倉田の証言で俺の機嫌は決まるってわけだ」

「そりゃあ、なんとしても証言してもらわんといけなさそうですねえ」

「当たり前ェだ。ここにきて渋るような素振りなぞ見せようもんなら、横っ面ァぶん殴ってでも吐かしてやる」

「ちょっと、そういうのやるとまた警察がわるく言われるんスから。やめてくださいねお二人とも!」

「ちょっとした意気込みだよ、馬鹿」

 と、沢井はけろりとわらう。

 ──のを、船室の隅で聞くのは響とエマである。

 朝一で島へゆくために乗った早朝便で、昨夜電話で話した刑事と乗り合わせた。それは前日の会話で分かっていたことではあったが、ただでさえ電話口で「倉田です」と嘘をついている現状、エマは居心地がわるくて仕方ない。

 沢井の意気込みを聞いていたエマは、無言のまま、となりに座る響の肩を何度も叩く。

 なにがおかしいのか、響は深くうつむきながらクックッと肩を揺らしてわらった。

「笑いごとじゃないわよ銀也さんッ、横っ面ぶん殴られるわよ。嘘なんかつくからなんだか居心地までわるいじゃない!」

「いいじゃないですか。真司さんが島にいるのは嘘じゃないんだから。この話は、あの島でやらねば意味がない」

「だったら素直にそう言えばよかったのよ」

「しかし深く興味をもってもらう必要があった。だからといって響銀也に興味を持たれても困るでしょうが」

「そりゃ──たしかに調べられたらアウトだけど」

「おれは極力喋りませんから、エマが真司さんのフォローを頼みますよ」

「銀也さんは、……警察の方になにをしてもらいたいの?」

「そんなもの決まってる」

 友の無念を晴らすんですよ、という響の顔は明るい。

「友、」エマは眉をひそめる。「成増さんね?」

「ああ。彼は細菌の出どころが一文字にあると確信していた。ゆえに、一文字を犯罪者として糾弾しようとしていた」

「まさか。こんな細菌のことを世に知らしめようとしてたってこと? そんなことしたら世間が混乱するわよ」

「そりゃあ、細菌についてを実際に公表しようものならね。するまでもなく軍が潰したでしょうし」

「細菌についての糾弾じゃないの?」

「彼が言いたかったのはあくまで、一文字正蔵が大量殺人を犯したということ」

 成増は、と響は哀しげに微笑んだ。

「ただいたずらに優秀な研究者仲間たちが死んでゆくのがゆるせなかった。それが彼の正義だったんです」

「そんな倫理観がある人とは意外だわ」

「世間はどうでもいいが、仲間には情に厚い奴でしたよ」

「……変な人」

「エマにはわかるまいよ。キミと比べたらヤツはあまりにも、人間として欠けた部分が多すぎた」

「でも銀也さんは、すきだったのね」

 エマはわらう。

 響も照れたようにわらって、

「すきだった。……」

 とうなずいた。

 だからおれは、と続けた彼の瞳には強い光が宿る。


「彼の正義を貫かせてやりたくてね」


 ゴウン、と船が揺れた。

 気付けば船は、東南東小島へと到着している。

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