第42話 箱のなかで

 熱海港に停泊させていたボートで、ロイが小島にもどったのは午後七時になろうかというころであった。

 ボートの上で幾度か倉田に電話をしたものの、いっこうに繋がらず、折り返しの着信すら来ていない。ただでさえ成増と名を偽っている男とともにいるのだ。

(なにかされてるとか、ないよな)

 嫌な想像ばかりが頭を巡る。

 ジーンズのポケットに手を突っ込み、中のものをぐしゃりと握る。

 ボートから降り立つと、シンと静まり返った島に気が付いた。なんだろう。妙に静かだ。

 と、おもったところでハッとした。

 そうだ。ふだんはそこここで聞こえる子どもたちの笑い声が聞こえないのだ。そういえば倉田が雑談のなかで「八月の盆前から、社員が夏休みをとって本土に戻るのだ」と言っていたっけ。

 そのため、ロイが請け負った警備業務も、この期間は開店休業状態でも問題がないのだ、とも。

(本土じゃあまり思わねえけど)

 ロイは周囲を見渡す。

(人が少ない島ってのは、ちと不気味だな)

 なまぬるい海風をうけて身ぶるいした。とにかくいまは、一刻も早く倉田真司を探さねばなるまい。

 いまいちど電話をしようと、携帯を取り出したときであった。

「保坂さん?」

 と、背後から声がした。

 この声は知っている。一般棟管理人の倉敷ぼたんだ。

「どうも」

「こんばんは。なんだ、保坂さんもてっきり夏休み取られたのかとおもってました」

「ああ──いや。倉敷さんこそ、いま一般棟はだれも使ってないのに夏休みとらないんすか」

「いえいえ。お休みいただいてますよ、べつに本土に行く用事がないだけで」

 といって、ぼたんは照れたようにわらった。

 この島にいる方が退屈だろうに、よほどこの島が気に入っているらしい。いまも波止場に立ちすくみ、揺蕩う波間に微笑する。

 その横顔がゾッとするほど美しくて、ロイはあわてて目をそらし「そうだ」口を開く。

「倉田さん見た? 戻ってるはずなんだけど」

「ええ、さっき。あの成増って方と小此木さんといっしょに」

「はあ──…………え、小此木?」

 ロイは眉根をひそめた。

 そうなんです、とぼたんが弾けるようにわらった。

「ずっと船頭さんがちがう人だったから、てっきり辞めたのかと思ってたんですけれど。今日の夕便が小此木さんで、もうびっくりしちゃって」

「それでどこ行った?」

「あ。たぶん……旧棟に。船から降りなかったので」

「────」

 聞くやロイはボートにもどる。

 あそこは海からしか行けない。

「なにかあったんですか?」ぼたんが寄ってきた。

「いや大丈夫」

 ありがと、とロイはエンジンをかける。

「保坂さ──」

「倉敷さん」 

「は、はい」

「あんたぼうっとしてるから一応忠告しとくけど、オレと倉田さん以外の一文字社員は、あんまり信用しない方がいい。とくに小此木──彼、手が早いみたいだから」

「あ、……」

 分かりました、とつぶやいたぼたんの頬が紅く染まるのが、日の沈んだ闇のなかでもわかった。

「じゃ」

「保坂さんのことは」

「え?」

「信用していいんですか」

「は」

「守ってくれるってことですよね?」

 唐突な質問の意味を理解しかねて、おもわず見つめ合う。

 守る、とは。単純に聞き取れば小此木から守るという意味なのだろうが、どうも彼女のこわばった表情を見ているかぎり、それだけではないような気もした。しかしここで問答をつづけると時間を食う。いまは一刻も早く旧棟へ向かわねばなるまい。

 一瞬ことばに詰まってから「ああ」と顔を背けた。

「守りますよ。もちろん」

「ほんとうに」

「まあ男のオレがしてやれるなぁ、そのくらいなんで。……」

「────」

「もう行きます」

 と。

 ロイは逃げるように旧棟に向けて船を走らせた。舵を切る際、波止場に立ち尽くすぼたんをちらと見た。見なきゃよかったと後悔した。

 彼女はなぜか、涙を流していたから。


 ※

 ──これ、杉崎さんが持っていたものです。

 ──ロイさんにお渡ししときます。

 ──どこの鍵か、親父なら分かるかもしれない。


 倉田家を出る間際。

 和真がこっそりとロイに手渡してきたものがある。どこのものかは不明だが、錆びた鍵と一枚の紙である。

 『軍人ニ渡スナ』──。

 父親が帰宅しなかったいま、だれに渡すべきかと悩んだ末、和真は律儀にほかの軍人に知られぬようロイに渡してきたのだった。

 親父のこと頼みます、と言い添えた彼は、まだ会って数日も経っていないというのに、初対面の頃よりすこし大人びたようにも見えた。

(鍵、ね)

 ジーンズのポケットに手を添えた。

 小振りながら、ずっしり重い。舵を取る。まもなく旧棟近くである。

「あっ」

 ロイが声をあげた。

 停泊場にはすでに一艘の船が停まっていた。見慣れた定期船のものである。ぼたんが言ったとおり、夕便の定期船でここに直接向かったようだ。ボートを船のうしろに着けて、ロイは足早に島へ降り立った。

(どっちだ──)

 周囲を見回す。

 正面に聳え立つ『箱』の入口錠前が地に落ちている。左に群生する背高泡立草に、かき分けられたようすはない。一行はこの箱のなかだ。

 ロイは音を立てずに箱へ寄り、中を覗く。

 わずかにボソボソと話し声が聞こえる。だれの声かは分からない。わずかに口角をあげ、ロイは携帯を取り出した。

「……たのむぜ」

 発信する。

 無論、相手は倉田真司の携帯だ。

 自分の携帯から発信音が聞こえてまもなく、箱の奥からけたたましい着信音が聞こえてきた。

(いた!)

 ロイは発信をそのままに、音のする方へ一気に駆けた。

 この方角には焼却室入口がある。あの角をまがれば、一文字彰のいるあの──。

「倉田さんッ」

 と。

 叫んで角を曲がった瞬間、ゴッと鈍い音がした。同時にじわりと額に広がる鈍痛。よろけた身体をふんばってむりやり前を見ると、携帯を片手に額に手を当ててしゃがみこむ倉田真司のすがたがあった。

 ロイの視界がじわりと滲むや、


「い、いってえ~~~~~~ッ」


 同時に叫んだ。

 額が焼けるように熱い。奥からバタバタと駆けてくる足音がする。音のなかに大丈夫か、とか真司さん、とか口々に心配する声が交じる。

 滲む視界が捉えたのは、三人の男たち──。

「あだぁあ──ろ、ロイくんか?」

「とんだ石頭だ、あんた……」

「そりゃあこっちの台詞だよッ。頭蓋骨にヒビが入ったかとおもったぜ!」

 と、叫ぶ倉田。

 はたと気づいて、ロイはあわててその腕を掴んだ。思いのほか元気そうで、別の意味で視界が滲む。

「そ、そうだ倉田さん。あんたこんなとこで何やってるんだよ!」

「おお。……わざわざ来てくれたか!」

「とうぜんだろッ。あんな、急に消えるみたいに島に帰られちゃこっちだって」

 言いかけて気が付いた。

 倉田の背後にある三人の男の影。暗闇に慣れた目が、その影に輪郭をつけていく。

 成増、小此木、彰まで──?

「なっ、なんで」

「まあ待て。ちとこの短時間でいろいろあってな。君にも一から説明するから、とりあえずここを出ようぜ。ここは暗すぎる」

 と、倉田がよっこらせと立ち上がる。

 倉田さん、とロイは泣きそうな顔でその顔を覗き込んだ。

「無事だよな」

「────ああ、もちろん」

 倉田はうっそりと含みのある笑みを、ロイに向けた。

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