第40話 七十年後の終戦

 島にいる、と父は言った。

 端的に用件だけを言い置いて電話を切ったのでくわしいことは分からなかったが、声色から察するに、退っ引きならぬ事情によって成増とともに東南東小島へと戻ったらしい。

 宍倉からの手紙で、成増への疑惑を深めた我々である。とくにロイは居てもたってもいられぬようすで、荷物をまとめはじめた。

 島にもどるのかとエマが問うと、

「もともと戻るつもりだったからな」

 とつっけんどんに返す。

「ひとりで? 危険だわ」

「なにがあったか分からない以上、一緒に来られる方が危険だ。手を貸してほしいときは連絡するから、それまではここで目立たないように待ってろ」

「そんな」

「じゃあこっちでも、できる限り情報を集めてみましょう」

 響はうっそりと笑んだ。

 その視線は、この家の至るところに向けられる。なるほどたしかに、この家には私がこれまで触れずにいた場所が多くある。天袋や床下収納など、ここに越してきてから一度たりとも開いたことがない。

 私も力強くうなずいた。

「なにか分かったら連絡します」

「ありがとう。よろしく」

 気をつけて、と。

 一同の見送りを背に、ロイは車で熱海港へと向かった。その車で熱海港から菅野を乗せてきたことが、もう遠い昔のことにおもえるが、振り返ればつい一昨日のことであった。

 場に静寂が走る。

 とたん、強烈な心細さを感じた。私にとっての精神的支柱である父と、博識な成増、さらには一同を取りまとめていたロイがこぞって不在ときた。

 エマもおなじくおもっていたらしい。胸の前で手を握り、不安げな瞳を響に向けている。

「銀也さん」

「さ、我々はまず腹ごしらえから入らねえと。食べ盛りどもの腹が泣きわめいちまう」

 と、響が菅野と杉崎を見る。

 気がつけばもう夕飯時である。いまだ私のなかにくすぶる一抹の不安。振り払うように頭を振って、私が「作ります」と台所へ向かう。

 響は手伝おう、と腰をあげた。


 ────。

 閑話である。

 これは、私と響が台所にいるあいだに交わされたことだとあとで聞いた。

 杉崎は仏間にいたらしい。

 仏壇の前には、自分の母親がおだやかにわらう写真が飾られている。ここを出るときに見た最後の笑顔よりだいぶシワが増えて年を食った。しかしそれも、戦後に母が生きていた証だとおもえばうれしくて、節榑だった手を合わせる。

「お母さまね」

 と、背後から遠慮がちに声がした。

 襖をわずかに開けて、ひょっこりエマと菅野がこちらを覗き込んでいる。もっと堂々と入ってくればいいのにとわらって、杉崎は身をずらした。

「ふしぎな話だわ」と、エマは座布団をよけて正座する。

「ほんとに。倉田のおじさまが連れてきた杉崎さんを拾ったのが和真くんだなんて。偶然にしちゃ出来すぎよ」

「きっと宍倉が引き合わせてくれたんだ」

「そう、かもね。銀也さんのときもそうだったんだもん。きっとそういうことなんだわ」

「ナオさんもおふくろさんに会いたいかい」

 と、杉崎がうしろを見る。

 しかし菅野は肩をすくめて「いや」と苦笑した。

「どちらかというと姉さんに会いたいよ」

「おねえさんか」

「うちの母はそらもう厳しくって。代わりに姉さんがやさしくしてくれた。まあ、きっともうお陀仏だろうけれど」

「…………」

 エマはうつむいた。

 こういうときにかける言葉は持っていない。よくロイには、雄弁だなんだと皮肉を言われるが、まったく聞いてあきれる。人ひとり支える言葉もかけられず、なにが雄弁なものか。語るにはまだ人生経験が浅すぎる──。

「なあエマ」

 ふと菅野が言った。

 あわてて顔をあげると、彼はじっと杉崎の母の写真を見つめている。

「なあに」

「きみの親御さんはお見合いだったの?」

「あ、ううん。職場で出逢って、紆余曲折あった末の大恋愛だったって聞いてるわ。ほんと聞いてるこっちが恥ずかしいくらい!」

「へえ。…………」

 と。

 つぶやいた菅野の双眸からぽろりと涙がこぼれ落ちた。エマと杉崎がギョッとする。

 どうしたのかと問いかける勇気もなく、とっさにハンカチを取り出したエマである。が、菅野はかまわずぐいと腕で涙を拭きとった。ぬぐっても、ぬぐってもこぼれ落ちる涙。ぱたぱたと畳に落ちた水滴が、じわりと染みをつくる。

 介抱しようと身じろいだエマの動きを、杉崎が止めた。その視線は菅野に向けられている。菅野のことばを待っているようで、エマもおもわず彼へ伸ばしかけた手をおろす。

 いまさら、と菅野は声をふるわせた。

「負けたってことを実感した。……堪えようと、おもったんだけどどうも」

「菅野さん」

「くやしくって、さあ。あんだけ戦って、敵機打ち払っても、やっぱし負けちまうのかって。かなわんのかってもう。おらぁくやしくってさ……」

「…………」

 当時。

 昭和二十年八月十五日正午、昭和天皇御自らの肉声をもって『玉音放送』がおこなわれた。これを聞いた当時の国民が抱いた感情は、およそひとつには絞れまい。憤慨、悔恨、喪失、安堵──。

 あれから七十年。

 この国は数十年の時をかけてふたたび立ち上がり、いまでは世界に通用する経済大国とまで成り果てた。その華々しい結果をむかえるまでには、戦後の先人たちがどれほどの辛酸をなめたことだろう。

 エマは知っている。

 日本が、国民が、敗戦という喪失感を時とともに乗り越えてきたことを知っている。敗戦国と呼ばれてなお、民が自国の誇りを失わず、戦後どの国よりも平和を目指すことができたと知っている。そしてそれは、命をかけて国や家族を守った彼らの想いを継いだからだとも。

 けれどここにいる軍人たちはどうだろう。杉崎も、菅野も、響も、──彼らはつい昨日まで戦っていた軍人であった。

 彼らにはまず、現実を受け止める時間が必要なのだ。

 でも、と菅野はしゃくりあげる。

「──エマの親御さんみてえに、国越えて、愛し愛されってできる世の中に、なってんだとおもうと、それはそれで嬉しくて……すっげ複雑な気持ちなんだ、いま」

「ナオさん」

 と、杉崎が菅野の肩を抱いた。

 ふたりは互いの肩に顔を埋めあって、声をおし殺して、泣く。

 体躯の差がおおきくて、ガタイのいい杉崎に顔を押しつける小柄な菅野は、傍から見るとまるで子どものようだったけれど、握りしめた拳の力強さは一介の軍人である。

 その彼らが、戦の終わりを想って泣いている。

 いま、この時。

 ようやくふたりの戦争が終結したのだ──とエマはおもった。


 閑話休題。

 その日の夕餉のことである。

 目を真っ赤に泣き腫らした杉崎と菅野は、しかし飯を前にするやだれよりも元気いっぱいに、今日も茶碗による乾杯をおこなった。情けない顔だと響にからかわれ、ふたりは恥ずかしそうに笑い合う。

 なにがあったのかとエマを見ると、彼女の目もまた赤い。

「どうしたの」

 と、私はこっそり尋ねた。

 すると彼女は眉を下げて「怒られるかもしれないけど」と前置きした。

「私は戦争、負けてよかったとおもってる」

「え?」

「もし勝ってたら、いまでも平和や自由を得るには、血を流して勝ち取るしかないとおもっていたかもしれないでしょ。あ、勘違いしないで。単純に降伏すればよかったって話じゃないの」

「……────」

 ふと、響の箸が止まった。

 じゃれつきながら飯を食っていた杉崎や菅野も、口をつぐんでエマを見る。私はくちびるをなめて彼女のことばの続きを待った。彼女は、瞳に涙を浮かべていた。

「これだけたたかって、人が死んで、それでも負けた。日本史上初めて敗北を知った。建国以来はじめて知ることが出来たのよ。戦のほんとの愚かさを。勝つことが勝利じゃない。本当の勝利は、振り上げたこぶしをおろしたときにこそ得られるものだってこと」

「…………」

 だから私たち負けてなんかないわ、とエマは手の甲で涙をぬぐった。


「いまはどの国よりも、平和の価値を知ってるもの。あなたたちが教えてくれたもの」


 ──その日のおかずは和風だしの煮物と甘鮭のはずだったのだけれど、妙にしょっぱくて、私は一口呑み込むにもずいぶんと時間をかけてしまったことを、いまも昨日のことのようにおぼえている。


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