第92話 第5回十字軍(3) ~カイロ進撃~

 ジャン・ド・ブリエンヌはダミエッタをエルサレム王国の領土と考えた。


「ダミエッタはエルサレム王国の領土とすべきだ。現地の軍事力があってこそ維持できる」


 が、ペラギウスは教皇領とする意向を示した。

「何を言う。今回の十字軍は教皇の主導で行ったものだ。教皇領とするのが当然ではないか」


「海外にたいした軍事力を持たない教皇がどうやってダミエッタを維持するというのだ?」

「教皇の権威があれば可能だ。今回の勝利によりイスラム教徒どもは教皇にひれ伏すこととなるのだ」


 ──なんと不毛な机上の空論なのか。


 ペラギウスの主張にフリードリヒはあきれた。


 結局、怒ったジャンはアルメニアの王位争いに介入するためにイスラエルのアッコンに戻ってしまった。


 これによりペラギウス枢機卿が十字軍のリーダシップを握ったが、事実上、戦闘を指揮する力はない。それを認めたがらない彼は屁理屈へりくつをこねた。


「私が指揮すれば勝利は確実だ。だが万全を期すために神聖帝国皇帝の到着を待ってやっているのだ。皇帝の面子もあるだろうしな…」


 ──その根拠のない確信はどこから来るのだ?


 フリードリヒには全く理解ができないし、理解するつもりもない。一方で、正妻のヴィオランテの出産が間近となっていたフリードリヒは一刻も早くロートリンゲンに戻りたかった。

 待たされて、イライラばかりが募るフリードリヒ。


 一方、アイユーブ朝のアル=カーミルもナイルデルタに位置する町マンスーラで対峙したまま防備を固めており、戦線は膠着こうちゃくした。


 皇帝自身は参加しなかったが、しばらくすると、神聖帝国はバイエルン公ルートヴィヒⅠ世指揮の元にかなりの兵を送って来た。

 また、ジャン・ド・ブリエンヌも戻ってきてため、十字軍は攻勢に出ることにする。


 ペラギウスは主張した。

「この上は一刻も早く進軍し、アル=カーミルの奴を叩くのだ」

「まだ、十分な食料などの補給品が整っていない」と諸侯は反論する。


「そのようなものは、必要に応じてナイル川を通じて補給を確保できるではないか」とペラギウス。


 ──バカな。ナイル川の覇権はけんは誰が握っていると思っている?ナイル川は敵の庭のようなものだぞ。


 フリードリヒを含め諸侯の誰もがそう思ったが、教皇の権威を笠に着たペラギウスに押し切られてしまった


    ◆


 フリードリヒは出撃前日の夜。久しぶりに予知夢を見た。


 デルタ地帯を進む十字軍が行く手を阻まれたうえ、ナイル川の堤防を切られ、泥濘でいねいの中で右往左往する姿が見える。


 ナイル川を知り尽くした者にしかできない見事な戦術だ。


 ──アル=カーミルか。まだ後を継いだばかりだというのにさすがだな。よほど優秀な副官でも付いているのか…


    ◆


 翌日。

 フリードリヒは予知夢のことを誰にも話さなかった。

 そのようなことを話しても諸侯の誰も信じないと思ったからだ。


 十字軍はマンスーラに向けて進撃を開始した。


 しばらくするとフリードリヒの様子がおかしい。

 青い顔をして腹を押さえている。


「痛タタタタタ。腹が痛い」


「貴公。大丈夫か?」

 バイエルン公ルードヴィヒⅠ世が心配して声をかけてきた。


「どうもナイル川の水が体に合わなかったようです。しばらく休めば治りますので、どうぞお先に。遅れるとペラギウスの奴がうるさいですよ」

「そうか…では、大事にな」


 バイエルン公はそのまま十字軍諸侯に付いていった。


 バイエルン公の姿が見えなくなると副官のレギーナがジト目でフリードリヒを見ながら言った。

「閣下。何なのです? その三文芝居は?」

「いや。なかなかの出来だったと思うが…。バイエルン公はだまされたぞ」


「それはバイエルン公が素直な気性のお方なだけです」

「とにかく、私は腹痛でしばらく動けない…ということにしておいてくれ」


「その心は?」

「間もなくアル=カーミルの奴がナイル川の堤防を切り、十字軍はデルタ地帯で孤立することになる」


「それを早く知らせなくて良いのですか?」

「根拠のない自信家のペラギウスはまず信じないだろう」


「では、同邦のバイエルン公だけでもお助けしてはいかがですか?」

「それもそうだな。良いことを指摘してくれた」


「閣下は思いやりがなさすぎです。特に男性に対して…」

「いや…面目めんぼくない」


 フリードリヒはミーシャを呼んだ。

「ミーシャ。バイエルン公へ大至急伝令だ。そうだな…『敵の伏兵を発見したから大至急応援に来て欲しい』と伝えてくれ」

「伏兵なんてどこにいるにゃ?」


「いいから早く行け!」

「わかったにゃ」

 ミーシャは空飛ぶサンダルのタラリアで飛翔ひしょうすると、あっという間に見えなくなった。


    ◆


 バイエルン公の一行が川の浅瀬を渡り、デルタ地帯へ入った直後、ミーシャはバイエルン公に追いついた。

「バイエルン公。大公閣下から伝言にゃ。『敵の伏兵を発見したから大至急応援に来て欲しい』だにゃ」


 素直なバイエルン公はそれを信じた。

「何っ! それは一大事だ。『直ぐ駆け付ける』と伝えてくれ」

「わかったにゃ」


「全軍反転だ。ロートリンゲン公の救援に向かう」

「おーっ!」

 バイエルン軍は命令に反応し、次々と戻って行く。


「おまえはこのことをペラギウス殿に伝えてくれ」

「了解しました」


 しかし、これを聞いてもペラギウスは信じなかった。

「臆病者は勝手にさせておけ」


 ──おおかた。怖気づいて逃げたのだろう。意気地のないことだ…


    ◆


 十字軍がマンスーラ手前のナイル川デルタ地帯に達したとき、背の高い草むらに潜んでいたアイユーブ朝軍が矢の雨を射かけて来る。これにより十字軍は進撃を阻まれた。


 おりしも雨季のナイル川は氾濫期に入り、水かさが増していた。


 諸侯の誰かが叫んだ。

「これで退路を絶たれたら危険だぞ!」


 それを聞いたペラギウスは色を失くした。

「全軍、全速力で撤退だ」


「荷駄はどうしますか?」

「そんなものは置いていけ」


「しかし、敵の手に渡る可能性がありますが…」

「では、焼却してしまえ」


 それを見たアル=カーミルはナイルの堤防を切らせると、ナイル川の水が怒涛のように押し寄せ、あっという間に十字軍は泥沼の中で孤立することになった。


 荷駄を早々と焼却したため食糧もない。これでは戦いにならない。十字軍は途方に暮れた。


    ◆


 フリードリヒのもとにたどり着いたバイエルン公はフリードリヒをただしていた。

「伏兵などいないではないか?」

「いますよ。ただし、あちらにね」


 確かに十字軍の行く手に伏兵があらわれ矢の雨を降らせている。


「あれは助けにいかなくていいのか?」

「その前に面白いものが見られますよ」


「面白いもの…?」


 ナイルの堤防が切られ、水が怒涛どとうのように押し寄せると、あっという間に十字軍は泥沼の中で孤立した。


「こ、これは…。貴公はわかっておったのか?」

「アル=カーミルならやりかねないと思っていました」


「なぜそのことをペラギウス殿に伝えなかったのだ」

「言ったところで臆病者扱いされて信じなかったでしょう」


「確かに。それはそうかもしれぬな」


「しかし、味方は助けねばなるまい。どうする?」

「あの濁流を渡るためには船が絶対に必要です。しかし、土地勘のない我々では調達に何日かかるかわかりません。その間に体力が尽きて何人も死んでしまうでしょう。

 ここは降伏してアイユーブ朝軍に助けてもらうのが一番の早道ですね」


「しかし、それでは騎士の名誉というものが…」

「要するに名誉をとって死ぬか、不名誉をとって生きるかです。私ならこの程度の不名誉には甘んじて生きる方をとりますがね…」

「それもそうだな…」


    ◆


 結局、ロートリンゲンとバイエルン以外の十字軍はアイユーブ朝軍に降伏し、捕虜となったが、高額の賠償金を請求されたうえ、ダミエッタを返却する条件で解放された。


 ペラギウスとジャン・ド・ブリエンヌが失敗の責任者として非難された。


 が、フリードリヒⅡ世も自ら行かなかったことで大きな非難を受け、第6回十字軍を起こすことにつながっていくこととなる。


    ◆


 十字軍から帰還して一段落した頃、バイエルン公から使者がやってきた。

 ロートリンゲンとの婚姻によりよしみを通じたいということだ。


 バイエルン公には娘がいなかったので、弟の娘のカーリンを嫁にということだった。

 バイエルン公はヴィッテルスバッハ家の人間なので、ベアトリスの遠縁ということになる。


 また、オーストリア公の息子とマルティナの結婚のことも進めなければならない。


 バイエルンもオーストリアも帝国の東寄りの公国だ。

 嫁たちは良い顔をしないだろうが、今まで帝国東部の公国とは縁が薄かったので良い機会かもしれない。


 そろそろ東にも目を向ける必要があるな。あのこともあるし…

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