第27話・凍てた過去、溶けたいま

 数日間、風邪の看病をしながら、私はユーグさまにずっと寄り添ってたくさんの話をした。

 柔らかく笑って傍にいるユーグさまを見ていると、この十年間すべてが嘘だったような気さえした。子どもだったあの頃ははっきりとわからなかったけれど、私の心はずっとユーグさまのものだったのだ。強制的に記憶を封じられて、与えられた環境にふわふわと浮かんでいた私は、あなたは幸せな娘だと皆に言われるから、そうなんだと思っていただけだったように思う。

 当時、私の知らないところで私とジュリアン王子の婚約話が出ていたけれど、父はその話が具体的になる前に陛下にユーグさまとの婚約を願い出たいと考えていたそうだ。急死されたユーグさまのご両親から生前内々にそうした話があったそうで、ユーグさまも望んでおられたと。私の為にも最高の縁組だと父は理解していた。

 父が急いた理由はもうひとつあり、それは未成年だったユーグさまの後見人となっていたユーグさまの叔父夫妻が、娘のレジーヌとの婚約をユーグさまに迫っていたこと。

 陛下は信頼する第一の臣である父の一人娘を自分の後継の妃にと望んでおられたけれど、甥であるユーグさまの事も可愛がって、両親を亡くしたユーグさまのきちんとした後ろ盾を求めておられたので、陛下と父の間柄を考えれば、きっと受け入れられると思われた。

 けれども、話を進める前に、あの事件が起こってしまった。私が森の奥で狼藉者に襲われてユーグさまが瀕死の重傷を負った事件。

 まだ9歳だった私を、傷物にしようと言っていた男たち。父は、他に挙がっていた王太子妃候補の誰かの家の差し金だと考えたけれど証拠は何もなかった。そして、ユーグさまは、命にかかわる大量出血を氷結晶で止められたばかりの身体で、意識を取り戻してすぐに、父と呪術師に言ったそうだ。気を失っている私から、自分に関する全ての記憶を呪術で消して欲しいと……。


「自分の身体は元に戻らないと、悟っていたのかも知れない。俺は、もしきみが目覚めてそれを知ったら、きっかけはほんの遊びだったにも拘らず、きみがどれだけ自分を責めるかと……そればかり考えていた。それに、身体が元に戻らないならば、俺がきみといても幸せにしてあげることが出来ない、とも。思えば、身体が凍ってゆくというおぞましい感覚に自暴自棄になっていたのかも知れない。ジュリアン王子と結婚して王妃として幸せになる道がきみにあるのなら、俺のような微妙な立場の者よりジュリアン王子に任せた方がいいのではないかと考えて。その結果、これ程にきみを苦しめてしまう事になってしまい、本当に俺は愚かだった」

「愚かだなんて……。それで父は何一つ私に教えてくれなかったのね」

「そうだ。俺が強く願ったから。アンベール侯は9年間欠かさず半年に一度は俺を見舞ってくれた。俺はきみの様子を聞き、幸せに暮らしているのだなと思う事だけが慰めだった」

「苦しんでいたのはユーグさまじゃないの。私は……何も知らずに何も考えずに。呪術のせいと言ったって、ユーグさまの将来を台無しにしておきながらそのこと自体を忘れて平気でいたなんて、私は自分が恐ろしい……」

「きみは子どもだった。きみのせいじゃないよ。お願いだから自分を責めないでくれ。俺たちはいつどうなるとも知れぬ身だが、いま、あの湖畔のときに戻ってふたりでこうしているじゃないか。――愛しているという言葉は、シルヴァンでなく俺にも向けられていると、思っていいだろうか」


 ユーグさまの大きな掌が、私の頬に添えられた。掌は熱を帯びて温かい。スカイブルーの瞳は優しく私を見つめている。


「もちろん……ユーグさまこそ、こんな私でいいの? どうして私の為にそんなに? 身体を張って護ってくれて、その後も自分より私の事を気にかけて。ユーグさまがいなかったら、私は身も心もぼろぼろになって修道院で一生を送る事になっていたに違いないわ」

「俺は……王の甥として生まれ、優しく高潔な両親に育てられ、幸せな子ども時代を過ごした。世界は優しく、大抵の者は俺を好きでいてくれるし、俺も皆が好きだった。学問と武術に励み、次代の王の近しい者として国を支える柱になろうと努める事が、俺にとって喜びだった。だが、恵まれ過ぎた環境にいたせいで俺は何も見えてはいなかった。不幸も憎しみも、己とは遠いところにあり、俺はただそうしたものに囚われた人々を救う事が己の使命と思い込み――自分がそれに囚われるとは想像してもいなかった馬鹿者だった。しかし、現実には、なんらかの権力争いがあり、善人だった俺の両親は無惨に暗殺された」

「――」

「ただの事故死と発表されたが、そうではなかった。俺は夜中に胸騒ぎがして、両親の部屋の近くまで行った。何もなければ戻ろうと……思って行ったのだが、苦し気な呻き声が聞こえて……俺が見たのは、寝所で、嬲るように全身に傷をつけられた虫の息の両親のすがただった」

「ユーグさま」


 私は涙を零した。ご両親の死はただの事故死ではなかったのでは……とは感じていたけれど、そんなことが。


「ひと息に殺す事なく、口を塞がれて拷問を受けていたようだった。そんな……そんな酷い事が、善良な両親の身に起こるなんて? 両親が誰かに強い恨みをかっていたとは考えにくい。暗殺を命じた者は、きっとただ面白半分に苦しめる為にそんな事を考えついたに違いない。母は泣きながら、ユーグ、あなたが無事でよかった、と言った。そうして血まみれの手で俺の頬に触れて――苦しくてたまらない、もう生きてはいられないから、愛する我が子の手で逝きたい、とせがんだ……。致命傷を負ってはいたけど、死にきれずにいたんだ。誰かを呼ぼうとしたけれど、誰も来なかった。俺以外の館の者は皆、殺されていたんだ。母は、最期の力で俺の腕を掴んで、はやく楽にして、と言った。それで、俺は傍に落ちていたナイフで、母を……」

「もうやめて! ごめんなさい、ユーグさま! 私、私、なんにもわかってなかった癖に、偉そうなことを……!」


 涙を零しながらも、私の記憶の蓋がまたひとつ開いた。両親が亡くなってずっと、人が変わったみたいに沈み込んでいたユーグさまを慰めたいと思って口にした言葉――。


―――


 十年前。

 久しぶりに会ったユーグさまは口数も少なく、それまでの優しい笑顔もなかった。ご両親の不幸があってから、葬儀の後はもう誰にも会いたくなかったのだと言われた。親友のリカルドとさえ今は話したくないのだ、と。


『ユーグさま。私は絶対に、いつまでも、ユーグさまの一番の味方ですから』

『でも、きみだっていつかだれかの妻になるし、そうしたらその夫や家が一番になるよ。もしそれが僕の敵だったら、きみだって僕を嫌うようになるだろう』

『そんなこと……絶対ありません!』


 もし私が、3つくらいの幼女であったら、私はユーグさまと結婚する、と言ったかも知れない。或いは、ユーグさまのお妃にしてください、とか? でも流石に9歳の私はそんな事は恥ずかしくて言えなかった。代わりに私はこう言ったのだ。


『私は、ユーグさまが大事で、ユーグさまの幸せの為になんでもしたい。世界中がユーグさまを嫌いになったって、私はユーグさまを嫌いになったりしません。たとえ大人になって立場が変わったとしたって、私は変わりませんから……!!』

『アリアンナ、ありがとう。でも、僕のことなんか放っておいていいから。僕は罪びとなんだ。僕のことを知ったらきっときみだって僕を疎ましく思う』


 罪とは、苦しむ両親を手にかけたことだったのだ。でも勿論この時の私はなんのことかわからなかった。


『ユーグさまが罪びとな訳がないわ』

『きみは知らないだけだ。それに知られたくない』

『ユーグさまがもし何かの罪を犯したとしても、ユーグさまは泣いて血を流して苦しんでるわ。ユーグさまは許されるわ』

『ぼくが、泣いて……?』


 ユーグさまは驚いた顔で私を見た。


『アリアンナ。僕は泣いてない。泣けないんだ。どうしてか……悲しくて苦しいのに……死んで詫びたいとさえ思うのに、あれから、一滴の涙も出ない。僕は自分で思っていたよりずっと冷血な人間だったんだ。だから、親の葬儀でも涙も出ない』


 苦し気に顔を歪めた、ユーグさまのそんな表情を見るのは初めての事で、私は動揺したけれど面には出さなかったと思う。言葉を絞り出しながらも、ユーグさまの瞳は濡れてはいなかった。

 でも、私は言った。ユーグさまの黒髪にそっと触れながら。


『私にはわかります。いま、ユーグさまの心は小さい子のように涙を流して、血が流れてるわ。ユーグさまはきっと、ご両親が亡くなった悲しみで心が凍ってしまったのね。小さい子でなくたって、どうしようもなく悲しい時はあるわ。でもユーグさまは、泣いたりしたらご両親が心配なさると思ってらっしゃるのね。……私はどうしてあげればいいのかわからない。でも、ユーグさまの涙が止まるまで、傍にいますから』

『アリアンナ……きみには見えるの? 僕は、泣いてる? 泣いても、いいのだろうか?』

『もちろんいいわ。大丈夫よ、ユーグさま。ご両親がいなくなっても、陛下もユーグさまを心配なさっているし、私も父も、他にもたくさんの人がユーグさまを心配しているわ。だから、独りだと思わないで。ご自分が泣いているのにも気づけない時には、私が気付いてあげますから』


 いつの間にか、ユーグさまの悲しみが私にも伝染したのか、私が先に涙を零していた。


『アリアンナ。僕の代わりに泣いてくれてるの?』

『ユーグさま。ユーグさまも泣いてるわ。ほら……』


 私はユーグさまの涙を指で掬って見せた。私たちは向かい合って泣いていたのだった。


『僕は、涙を流せるんだな……』

『たくさん泣いたら、苦しい気持ちもきっと外へ出るわ』

『きみが、一緒にいてくれるからか』


 年上の男の子が泣いているところを見たのなんて初めてだった。ユーグさまの涙は、あとからあとから零れた。


『ありがとう……』

『お礼を言われるような事は何もしてません。ごめんなさい、私が先に泣くなんて』

『泣かせてしまってごめん、と僕は謝るべきだったかな』


 そう言って、ユーグさまは泣きながら微かに笑った。両親の死以来、凍ったような表情しか見せなかったユーグさまが、初めて心を緩めたように思えた。


―――


「私はなんの事情も知らなかったのに、随分生意気な事を言った気がします……」


 私は項垂れた。愛する両親を、楽にしてあげる為に手にかけなければならなかった14歳の公子。その苦しみがどれ程のものか――目の前で父の首を落とされた私より苦しかったかも知れない。泣いたらいいなんて安易に言っていい事じゃなかった。


「いいんだ、アリアンナ。あの時俺にはきみが母に見えたんだ。優しかった、明るかった母に。あの時まで俺は、死に際の母の貌が目に焼き付いて、それまでの母の顔を思い出せなくなっていた。早く死なせてと言った血に濡れた貌が、焼き付いて、母は俺を恨んではいないか、不要に苦しませはしなかったか、そんな思いに囚われ、世界が見えなくなっていた――」

「ユーグさま。なのに私は、ユーグさまがどれだけ苦しいか、わかってなくて」


 涙を落した私の頬を、ユーグさまの掌が優しく包んだ。


「もう、あの頃の俺じゃない。きみと話したあの日までは、温かだった世界は突然、苦しく冷たい世界に変わり、もう世界の何も信じられないと思っていた。でも、きみの温かさが、涙が、俺の心の氷を溶かしてくれた。言葉じゃないんだ。俺を救いたいというきみの想いが、伝わって来たから……」

「ユーグさま、私も、私も王宮から兵士が父を捕らえに来たあの日に、突然世界が変わりました。もう、誰も信じられないと、世界は私の敵なのだと――その気持ちのまま、死ぬところだった。それを救って下さったのはユーグさま。シルヴァンでいても、ユーグさまは温かかった――」


 私はあの日の事を思い出して震えた。でも、ユーグさまは優しく私を抱き寄せて。


「きみが、俺の世界の全てだ。二度も救って溶かしてくれてありがとう。アリアンナ、愛している、愛しているよ。もう絶対にこの気持ちを忘れはしない」

「あなたが私の世界の全てです、ユーグさま。ユーグさまの温かい腕にこうして抱かれて――どんなに幸せな気持ちか言い尽せない。愛しています、私のたったひとりの大事なひと。もう、死んでも忘れたりしない――」


 強く抱きしめられて、唇が重なった。凍らされなくたって、私たちはもう二度と離れはしない。


「ずっと、こうしていて――」

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