第25話・目覚め

 私は、目を開けた。視界にぼんやり映った白い天井は見覚えのあるものだったので、暫くの間私はそれが、父と暮らしていた懐かしい館の自室のものであるかと思った。


(長くて怖い夢を見た……ユーグさまに会いたい……いえ、私の婚約者はジュリアンさまだった……)


 半覚醒のままそんな事を思い、すぐに現実が戻って来た。そうじゃない! 私は震えて目を見開いた。

 見えているのは、ラトゥーリエ邸で私に与えられていた寝室の天井だった。飛び起きようとしたけれど、身体中が痛んだ。痛い……けれども私は死んでいない。どうして。私はかれと一緒に永遠の眠りにつくことを選んだ筈なのに。

 私は強張った身体を無理に寝台から引き剥がすように起こした。私の心は恐怖に囚われていた。あの状況で、かれが助かった筈はない。でも私は手当てを受け、生きている。それはつまり……誰かが私をかれから強引に引き離して生に留め、かれだけを逝かせてしまったからなのでは……と思ったのだ。

 私はもう生きることなんか望んでなかった。かれの全ての血が冷たく凍り付いて命を奪う運命を避けられないのであれば、私の全ての血も共に凍らせて二度と離れないでいたい、それだけが私の願いだった。それなのに、かれ一人を冷たい氷の棺の中で孤独に死なせてしまったとしたら、もう私は正気を保っていられる自信がない。


 私はふらつきながら廊下へ転び出た。


「アリアンナ」


 窓際にリカルドが立っていて、私を見てほっとした様子だった。でも私は彼に食ってかかった。


「あなたなの、私をここに運んだのは!」

「そうだけど」

「酷い、酷いわ! 私はあのひとと一緒に凍ってしまいたかったのに! あのひと、どこなの。ひ、ひとりで凍らせてしまったの?! わたし、わたし、今からでもあのひとのところへいくわ。お願いだから一緒に死なせて!!」

「お、落ち着いて、アリアンナ」


 私に責め立てられたリカルドは最初訳がわからないという様子だったけれど、すぐに微笑を浮かべた。


「きみは勘違いしてるよ。大丈夫だから」

「なにが大丈夫なの!」

「ユーグは生きてる。凍ってない。どうしてだかわからないけど……」

「凍って、ない?」


 私がその言葉の意味を呑みこむのには少し時間を要した。絶望の中で、ただ一緒にという強い気持ちに目覚めてその事しか考えていなかったので、それ以外の希望などありはしないと思い込んでいた。だって、あんなに酷く呪いはかれを蝕んでいた。なくなる筈はない。でも、とにかく生きているの? リカルドがこんな事で私を騙す理由はない。すぐにわかることなのだし。


「あのひと、どこ」

「自分の部屋だよ。まだ眠って――」


 私はもつれる足を必死に動かしてかれの部屋へ向かった。兵士たちもレジーヌもイザベラも何もかも頭から飛んでいた。マリーが駆け寄って来て手を貸してくれたけれど、殆ど意識しなかった。

 かれの部屋は、いつも通りに冷えていた。でも勿論寒さなんて感じる暇もなく、私は寝台に横たわっているひとにすがりついた。


「シルヴァン!」


 ……私はほんの一瞬、騙されたかと思ってしまった。眠っているひとは、見慣れた銀の髪ではなかったのだ。艶やかな黒い髪、整った面差しの男性。

 けれど、戸惑いはすぐに消えた。男性は私の声に反応してゆっくりと目を開けた。スカイブルーの瞳が私を捉えた。


「アリアンナ?」


 これは私の愛する人だ、とわかる。

 涙が溢れた。見つめられる喜びが、様々な疑問や不安をいまは押し流した。


「シルヴァン――ユーグさま!!」

「アリアンナ。無事で……」


 かれは笑った。誰が見てもわかる、喜びの表情。淡雪のように、浮かんだような気がしたときにはもう見えなくなっていたシルヴァンの笑みではなく、むかしはよく見ていた、ユーグさまの笑顔。十年逢わない間におとなになった、これが、かれの本来のすがた――。


「どうして。氷結晶は……どうなったの? 髪が……」

「わからないが、いまは氷結晶の存在を感じない。一時的に封じられているのかも知れない」

「とにかく、死ななかったのね。私たち、生きてここに帰って来れた。ああ、ユーグさま!」


 私は恥じらいも何もかも忘れてかれに抱きつこうとしたけれど、かれは私をそっと止めた。


「まだ……どうなってるのかわからないから、触れないほうがいい」

「でも、ユーグさまは凍ってないわ。それに、一緒に凍るなら私はそれでも構わない」


 嬉し涙を零しながら私は言った。かれが、生きて笑っている。あすどうなろうと、いまこれ以上のよろこびは考えられない。

 指先に触れると、冷たい感じはした――その時は、それが、マリーがいつもの習慣で部屋を冷やしていたからなのだと気づかなかった。呪いは一時的に針を巻き戻しただけなのだろう、と思ったけれど、それでもいま生きて共にいられるという喜びが先の心配に勝った。付いて来ていたマリーとリカルドはそっと部屋を出て扉を閉めてくれた。


「ユーグさまなのね。私、ずっと思い出せなくて……ごめんなさい」


 私は枕元に座ってそっと黒髪に触れた。


「シルヴァンはいなくなった――少なくともいまは。だけど、俺のなかにいる。全部覚えている」

「ええ……シルヴァンだった時も、ユーグさまはいらしたもの。同じなんだわ」

「同じ? だけど、全然違うだろう? 不愛想でひとの気持ちがわからなくなっていた。おまえ――きみを傷つけるような事を言ったかも知れない。物言いもおかしくて……たとえば、最初に、おま……きみを雪山で見つけた時――」


『俺のものになるなら助けてやろう』


 庇護しようと言いたかっただけらしいのに、その言葉のせいで私はかれを邪な人と誤解し、殺そうとさえしたのだった。女の誇りを奪われたと思い込んでいたあの時の自分が滑稽にすら思えて、私は笑ってしまう。

 ……先の見えない絶望はいまも消えた訳じゃない。いつか、今のことも笑い飛ばせるようになればと願うけれど、流石に無理だろうと思う。でも、いま私は笑えている。ユーグさまが笑っているから。


「最初はわからなかったけれど、すぐにユーグさまの元々の優しさはそこにあるのだとわかるようになりました。……ユーグさまを思い出すのには随分時間がかかってしまったけれど」

「それは俺ときみの父上が、きみの記憶を奪っていたせいなんだから気にしないで欲しい。ジュリアン王子があんな人間だとは思いもせず、きみを託そうとしていた事がいまは恐ろしい」

「私は、ユーグさまのことをすっかり忘れて、忘れた事さえ忘れてしまっていたことが恐ろしいわ。もう、二度とあんなことしないでください……」

「すまない。俺のことやあの事件のことは全て忘れた方がきみの為だと思っていた。だが、いまこうやってきみと向き合っていると、手放そうとしていたものの大きさに驚くばかりだ……」


 私だって、こんな事がなければユーグさまの思い出を全て手放したままだった。レジーヌの言葉が記憶の封印を解くきっかけになったのは皮肉なことだけれど、はっきりと言われたおかげで私はようやく何もかもを思い出す事が出来たのだ。


「ユーグさま。口調が……」


 おまえと乱暴に呼ばれる事にも慣れていたけれど、ユーグさまは昔のように柔らかい話し方をしようとしているようだった。私の指摘にユーグさまは苦笑して、


「シルヴァンの口調は、見張りの男のものがうつってしまったものなんだ。徐々に……」


 そう言いかけてかれは口をつぐむ。『徐々に直す』と言いかけたけれど、いまの状態――感情豊かなユーグさまに戻った状態がほんとうに続くのか、わからないのだと思ったみたいだった。

 私にもわからない。これは神さまが下さったほんの僅かの奇跡の時間なのかも知れない。それとももしかしたら、ほんとうは私たちは共に凍てついて、氷のなかで一緒に夢を見ているのかも知れない。

 私は敢えてそのことには触れず、


「見張り?」


 と聞き返した。


「もうきみに隠し事はしないが、いまはそんな事は話したくないな。折角こうしていられるのだから」


 そう言ってかれはゆっくり起き上がろうとしたけれど、


「……っ」


 軽く呻いてまた仰向けになってしまう。


「身体が辛いのでしょう? 無理しないで。私はずっとここにいますから」

「辛いというか、ずっと感覚が鈍っていたから身体を動かし辛い、のかな。だが、あまり長く傍に居ない方がいい。身体が冷えてしまう」

「そんなのどうでもいいわ! 私はユーグさまと離れたくありません}


 引き離されて目覚めたとき、どれだけ絶望したか。いつ元に戻ってしまうかもわからないユーグさまの傍を離れたり出来ない。


「しかし」

「一緒に凍ろうと思ったのよ。寒いくらい何でもない」

「……わかった。だけど、すまない……なにか、凄く眠気が襲ってきて……きみを見ていたいのだが……」

「まだ身体の状態が安定していないんだわ。どうぞ、お眠りになって。私、傍にいますから」

「ありがとう。だけど、ちょっとリカルドを呼んでくれないか。あとの事を話しておかないと」

「私を外国へやるというお話だったらお断りです」

「……まあ、それ以前に、いまの状況を把握しないといけないから」


 それで私はリカルドを呼んだ。

 私たちが意識を失っている間に、氷結晶の状態を知る為、彼はあの呪術師にもう一度依頼を出したのだと言う。呪術師は近隣の村に出かけていたけれど、明日には戻るとのこと。明日には、この状況がどういうことなのか、ある程度はわかるだろう。


「いまや僕らは皆、公然と、王家に対する反逆者だ」


 とリカルドは、内容にそぐわない軽い口調で言う。頭の傷に巻かれた包帯は乾いている。助けてくれたのに酷い事を言ってしまってごめんなさいと私は謝った。


「きみたちは僕の目の前で抱き合って氷の塊になったように見えた。引き離そうにも離すなんて誰にも出来なかったと思う。僕はただ見てるしかなかった。けど、何もかもが凍りつくかと思ったとき、氷の中から光が放たれて、気が付いたら氷は溶けて二人が倒れてた。だから僕は、残されていた馬車にきみたちを乗せてここに運んだんだ」

「そうだったの……」


 そう言われれば、凍り付いたと思った時に、なんだか温かさを感じた気もする。それが、光だったのだろうか。


「兵士たちは王都からの派遣兵のようだったけど、ユーグが兵士を凍らせるさまを見て悪魔だと恐れていたから、もし指揮官が我に返ってすぐにここを抑えようとしても、悪魔には敵わないとか言って動かない可能性が高いんじゃないかな。現にいま、この付近に兵士が寄せてくる気配はない。王都から新たな沙汰があるまで様子を窺うつもりではないか、と思う」

「今にでも襲ってくる心配はあまりしなくていいのね」

「うん、多分。もし、いま無防備な状態で襲撃されたら、使用人は逃がして館に火をつけて死のう、というのが僕の提案だけど、まあきっとそうはならないよ。もしそうなったら、邪魔者がいて申し訳ないけど、出来れば僕も王都で刑死するよりはここで死にたいから、一緒に死なせて欲しいな」

「あなたったら、どうしてそう自分のいのちのことを軽く言うの。あなたは逃げて欲しいわ」

「神経すり減らして逃げ回るなんて嫌だよ。それより、ユーグ、眠ったみたいだよ。とりあえずきみが無事で、安心したのかな」

「まあ……」


 眠気があると言っていたけれど、本当にユーグさまは眠ってしまっていた。目が覚める時、このままでいてくれるだろうか。かれがかれであるならばどんな姿でも口調でも構わないけれど、シルヴァンでいればいつか凍ってしまう。


「むかしのままのユーグさまの髪と瞳だわ。最初からこの姿だったら、もっと早く思い出せていたかも知れない」

「そうだね……このままでいてくれるといいんだが。さあ、きみも部屋に戻って休んだ方がいいよ。一度は氷に包まれたんだから、身体を温めて休んでいないと駄目だとバロー先生が言っていた」

「とんでもない。離れている間に何もかも元に戻ってしまったらって考えると恐ろしくて離れられない。私、ここについているわ。隣の部屋にマリーに居て貰えば、かれは病人のようなものだし、問題はないでしょう」

「問題はないけど風邪をひくよ」

「凍ってしまっていいと思ったのに、今さら風邪の心配なんかしないわよ」

「まあ、気持ちはわかるよ。じゃあ、僕は下の客間にいるから」


 リカルドが出て行くと、私は肩掛けを二重に巻いてユーグさまの枕元に再び座った。前にもこんな事があったけれど、いまは色々なことがあり過ぎて、何をどう考えたらいいのかわからない。でも、呪いがどうなったって、もう私たちは離れる事はない。王都で拷問を受けて首を刎ねられることはもうない。捕まりそうになった時は、二人で過ごしたこの館でいのちを絶てばいい。ユーグさまとふたりなら、そんなに恐ろしくはないような気がする。

 眠っているユーグさまの顔を眺め、忘れていた大切な記憶を掘り返して辿っているうちに、いつの間にか私はユーグさまの腕に頬を寄せて眠ってしまっていた。


―――


「……アリアンナ。アリアンナ」


 ユーグさまの声で私は眠りから覚めた。夜が過ぎて朝陽がカーテンの隙間から入り込んでいた。私はぱっと起き上がってユーグさまを見た。


「ああ! ユーグさま」


 思わず喜びの声を洩らす。ユーグさまの髪は本来の黒髪のままだ。銀の妖精シルヴァンに戻っていない。それに、なんだか触れていた腕も温かみがある気がする。


「ほんとうに……きっともう大丈夫だわ。ユーグさま、なんともないように見えるもの。ねえユーグさま、調子はどうですか」


 でも。寝台の上で起き上がったユーグさまの表情は、なぜかうかなげに見えた。


「ど……どうなさったの」

「隠してもしかたがない。昨日よりも身体がおかしい気がする」

「そんな。だって、昨日よりお顔の色もいいわ」

「そうか? なんだか冷たさを感じる。やはり、元に戻ったのは一時的なことだったのかも知れない。身体が重いようだ」

「ユーグさま……」


 目覚めた時の嬉しさが一転して、私はユーグさまの言葉に動揺した。そんな私をユーグさまは悲し気に見つめて、


「落胆させてすまない。調子がいいふりをして、結局ぬか喜びになってもいけないから……。でもアリアンナ、もしまたシルヴァンに戻ってしまっても、きっと今のこの感情は忘れない。きみが何より愛しい。傍にいてくれてありがとう」


 と言うのだった。

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