第2話・悪役令嬢は奪われる
閉じた瞼を透かして陽の光の明るさを感じた。でも瞼がとても重く感じて、暫くぼうっとしながら目を閉じていた。
私は死んだのではないのだろうか。死んだにしては、自分の身体に生々しい感覚がある。あちこちがじんじんと痛んでいる。でも、寝具の中は暖かい。濡れて凍った衣服は、さっぱりとした寝着にとりかえられている。
(とりかえられて)
『俺のものになるならば助けてやろう』
私はぞっとして自分の身体を抱き締めた。あんな山の中に来るなんて、あれは猟師かなにかに違いない。気を失った私の服を脱がせて、まさか私を……?
「気が付いたか」
私が身動きした途端に、傍で男の声がした。あの男の声だ。私が眠っているのをずっと近くで見ていたのだ。王国の貴族令嬢の頂点にいた私にとって、寝室に知らない男がいるというだけでも相当な衝撃だったけれど、更にあの言葉とこの状況を繋ぎ合わせると……私は、死に損なった上に見知らぬ男に凌辱されてしまったのだろうか?! 運命は、私をただ凍らせて終わりにするだけでは飽き足りないとでもいうのだろうか。
「近寄らないで! 舌を噛んで死ぬわ!」
私はぱっと目を開けて、男を睨みつけて叫んだ――つもりだったけれど、身体が弱っているので大きな声は出ない。ただ、意志だけはしっかりと表せるよう、憎しみを込めて不埒な男を見据えた。
「死ぬ……何故? おまえは死にたかったのか?」
それは不思議な容貌の男だった。長い銀髪にアイスブルーの瞳。整った面は陶磁器のように血の気がない。想像したような山男ではなく、型は古臭いけれど立派な仕立ての衣装を纏った貴公子のようだった。部屋も、山小屋なんかではなく、私が生まれ育った館の私室に遜色しない立派な造りの部屋。男がいるのとは反対側の壁には立派な暖炉に火が熾され、寝具の中には湯たんぽが入っているのにもこの時気づいた。
「助けて連れて来たのは、迷惑だったのか……?」
アイスブルーの瞳に浮かんでいるのは、私の拒絶に対する戸惑いとか失望とか、そういったもののように思えた。けれど、あまり表情豊かな性質ではないらしく、考えはとても読みにくい。
(この男が、私を……)
見かけが想像と違っていたって、この声はあの、
『俺のものになるならば助けてやろう』
と言い放った傲慢な男の声に他ならない。私は唇を噛んだ。
「辱めを受ける位ならば、あのまま死んだほうが余程ましだったと言っているのです」
「辱め? なんのことだ」
「とぼけるつもりなの。お、おまえは、私に、自分のものになるなら助ける、と言ったではないの。そうして、私はおまえに助けられてここにいる。意識のない私の、い、衣服を脱……」
衣服を脱がせて弄んで自分のものにしたのだろう、とは余りに惨め過ぎて口に出せなかった。でも、どこかで、『それは誤解だ』という言葉が出ないものかと微かな期待も捨てきれないでいた。愛想はないが、相手は一応紳士のようには見える。紳士は眠っている令嬢の寝室に無断で立ち入ったりはしない筈ではあるけれど。
「そう言えば、その言葉はおまえを不快にさせてしまったようだったな。べつに、交換条件を出したつもりではなかった。おまえの誇りを傷つけてしまったならば、謝罪しよう」
男は驚くほどあっさりとあの言葉について謝った。私は拍子抜けして、暫し何と言っていいかわからずに相手の顔を見つめた。私の、考え過ぎだったの? だって、直前にオドマンが、情人になれ、という言葉と共にそう言ってきたから――。
「あの……本当に、私になにもしていないの?」
「なにも、とは? 俺はおまえを鎖から解き放ってここに連れて来た。それだけだが」
彼は本当に私が何を疑っているのかわからない様子だった。私は戸惑った。もしも本当にただ助けてくれただけなのならば、命の恩人に向かってさっきから随分と失礼な態度をとってしまった気がする。
「あの……私の思い違い、なんでしょうか。ごめんなさい。私はてっきり」
私は小声で言いかけた。でも、男の次の言葉は再び私に冷水を浴びせかけた。
「ただ、俺のものになって欲しいと伝えたかっただけだ。そして、言葉になどしなくても、おまえはもう俺のものだ。その為に助けに行ったのに、愚かな事を言ってしまった」
私は息を呑んだ。胸が苦しくなった。もう、俺のもの?
「では……では……やはりおまえは私を……もう……」
「ああ、もう何も心配しなくていい。この館の中は安全だし、自由にして構わないから」
心配しなくていい、ですって? 男の言葉に一瞬凍りついたあと、私の内には怒りが燃え上がった。
「恥知らず!!」
感情を剥き出しに罵倒するなんて情けない、アンベール家の娘としてもっと堂々としていなくては、そう思うのに、一度涙が堰を切ったら、言葉も涙も止まらなくなった。
「けだもの! よくも、よくも私を! あのまま清い身でお父さまのところへ行きたかったのに、もうお父さまに顔向け出来ないわ! なにも出来ない行き場もない哀れなだけの娘と蔑んだのね。私の誇りは、命と引き換えにする程安くないんだから! 誇りを貫いて死にたかったのに、もう出来ない! おまえが、意識のないのをいいことに、むりやり……!!」
わあっと私は泣きながら罵り続けた。ずっと、ずっと――突然館に兵士が押しかけてお父さまを連れ去って、人々の冷たい目に晒されながら婚約破棄され、屈辱の裁判を受け、目の前でお父さまを殺され、裸足で雪の山に捨てられた時さえも、私は泣き叫んだりしなかったのに。
全てが終わってお父さまのところへ行けるのだと思ったのに、まだ現実の苦しみが続くのかと思ったら、耐えられなくなったのかも知れない。
「どうしたんだ、急に、何故そんなに怒る?」
「なにが、何故、なのよ! なんで私だけこんな目に! ひどい、ひどい。私は一度だって罪を認めたりしなかった。だってそれが私の誇りだもの! 王太子が、罪を認めぬなら指を火で炙ると脅した時だって私は屈しなかったわ! ジュリアンが笑いながら私の手首を掴んで炎に押し付けようとして、周囲が止めなければ私の手は焼け焦げて爛れていた筈だわ。それでも私は泣かなかった! 暴力に屈して誇りを折るなら死んだ方がいいと思ったのよ! なのにおまえは、私が何も思う事が出来ない間に……!」
「アリアンナ」
「気安く呼ばないで! それ以上近づいたらほんとうに舌を噛むんだから」
私は本気だった。これまで麻痺させてきた哀しみと苦しみを言葉にした事で今頃になって運命への恨みが爆発し、辱められたという思い込みが更に私を追い詰めて、どうしても誇りを貫いて死ぬことこそ私のすべきこと、と意地になって思い込んでしまったのかも知れなかった。
けれど、男は私の言葉に構わず、舌を噛む間もなく私の上に覆い被さり、私の腕を強く掴む。どうしてだか、掴まれたところが冷やっとした気がしたが、混乱していたのであまり意識は向かなかった。
「駄目だ、おまえを死なせはしない! ああ、本当だ、指先に火傷のあとが。王太子とはそんなに冷血な男なのか」
「そうよ。あの、噂の『冷血公爵』よりも冷血だわ。つい数週間前までは、私のような美しい妃を持てて幸せだと優しい声で語っていたのに、あれはぜんぶ偽りの姿だった。私が怯え苦しむのを笑って眺めていたのよ。ちやほやしてやるのはもううんざりしていた、おまえのそんな顔を見てみたかったのだ、と言ったのよ。私を苦しめる為に、私の愛するお父さまの首を私の目の前で刎ねさせたのよ! ばかな私は、そんな事が起きるまで何も知らずに、私は婚約者と相思相愛で世界でいちばん幸せなのだと信じていたのだわ。男なんてみんなけだものだわ。おまけに、そんな男に私は無理やり――!!」
「泣くな……いや、泣いていい。俺は絶対おまえを苦しませる事はしない。無理やり助けたのは悪かったが、一刻を争っていたから」
「なによ! 離してよ! 私が死ぬ勇気がないと思ってるの。私はいつだって覚悟があるわ!」
「覚悟があるのは知ってる。だからこそ、舌を噛ませたりしない。俺はおまえに幸せに生きて欲しいと思って助けたのだから」
本当に自分で噛み切れるものなのかわからなかったけれど、非力な女が男に抵抗して自害する手段だとは知っていた。私は歯をくいしばった。ところが……。
「あっ……」
男の顔が近づいて来た。
「噛むなら俺を噛めばいい。俺はおまえを傷つけたくない」
そう言うと、男は私の唇を自らのそれで塞いだのだ。
「んっ、いやっ!」
首を振って逃れようとしたけれど、押える力は強く、寝着一枚の私の上にのしかかったまま、男の舌は強引に唇を割って侵入して来る。それは、想像していたよりも冷たい感触だった。でも、頭の芯に感じたことのない熱が走る。
初めてのことに僅かの間ぼうっとなり、一瞬、どこかで知っていた誰かの影が心をよぎった。けれどすぐに怒りが心を支配して、私はそれを忘れた。だいたい、こんな特徴的な銀の髪を、もしも以前に知っていたならすぐに思い出す筈だ。
(ばかじゃないの。本当にこいつの舌を噛み切ってやる!)
口づけと呼べるのかどうかもわからない荒々しい仕打ちに、私はかっとなって男の舌を思い切り噛んだ。うっと男は呻いたけれど、それでも私を離そうとしない。私は足をばたつかせて振りほどこうとしたけれど、それでも身体を押さえつける腕は緩まない。その腕は驚くほどに冷たい。
(本当に生きているのだろうか。もしかして、死人なのでは)
でもその時、口の中に血の味が広がった。死人ならば血を流す事はないだろう……。
「んんっ!!」
初対面の得体の知れない男、私を力で捻じ伏せようとする憎い男に無理に唇を奪われ、涙が流れた。口腔の奥深くに侵入され、息が苦しい。とにかく押しのけようと手の届く範囲で覆い被さる身体を叩きまくっていたら、なんだか掌にべたっとしたものがついた。
(……血?)
唇ではなく、背中を叩いた私の手に、どうしてか血がついている。私が叩いたくらいでこんなに出血する訳がない。何故。この男は怪我をしているの? こんなに血を流してまで、なんで私を?
訳が分からなくなって、身体の力が抜けると、男はようやく私を離し、身を起こした。離れた事で、男の身体がひどく冷えていたことに改めて気づかされる。
「おまえ……おまえはいったいなんなの。本当に、人間なの?!」
私の問いに、男は少し寂し気な顔をしたけれど、
「ああ、人間だ」
と答えて口元の血を拭った。
「死ぬのは止めてくれるか?」
「止めるわ」
「良かっ……」
「止めて、おまえを殺すわ。力で私を抑えつけるけだもの。おまえを殺すことを生きる目的にするわ」
「……」
男はまた、何を考えているのかよくわからない表情で黙って私を見つめた。後になってからは、私は彼の乏しい表情の変化にもきちんと感情を読み取れるようになるのだが、初対面に等しいこの時には到底無理な事だった。
死ぬと言われても殺すと言われても、この男は何も感じない。私には死ぬ事も殺す事もどうせ出来ない、とたかを括っているのだろう、と私は思ったのだった。
「いいだろう」
と間を置いて彼は言った。
「おまえに生きる目的が出来るのなら、それでいい。俺はおまえになら、殺されてもかまわない」
「何を言ってるの。どうせ私には出来ないと思っているだけでしょう」
「そんなことはない。おまえが生きてくれるのが俺の望み。何故俺を殺したいのかはわからないが、それでおまえが死にたくなくなったのなら良かったと思う」
この時、彼の足元にぽたりと血が落ちたのに気づいた。彼は苦し気に息を吐いて傍のテーブルに手をついた。
部屋の扉がばたんと開き、女性の叫び声が響いた。
「ユーグ! なにをしてるの、こんなところで!」
赤毛の女性が男に駆け寄りながら私を睨むので、私も負けずに睨み返した。
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