第323話

 眼鏡が無いだけでシノメさんを見分けられなかった俺だったが、普段と違う愛らしい白のワンピースを着たその女性については忘れる訳なかった。

「あ、ラビーンさん!」

 俺たちの元へ駆けつけてきたのはアローズのクラブハウス『エルヴィレッジ』の主任シェフ、寮長、そしてザックコーチの奥様でもあるハーフ・ミノタウロスのラビーンさんだった。白い布が女性らしいボディラインを覆い、肩から提げた革鞄の紐は見事にパ……何かの真ん中を縦にスラッシュしていた。

「ギュウってしてアナタ!」

「ちょっと、お前……!」

 ラビンさんは勢いのまま、驚くザックコーチに飛びつき抱きつき熱い接吻の雨を降らせる。

「わーお!」

「ヒューヒューだよ!」

 2号車からは盛り上げ番長のツンカさん――これまたデイエルフの典型的なドリブラーだが、エオンさんと違って常に明るく積極的なので昨シーズン以前からサブには常にいた選手だ――が、1号車からは恋愛小説脳のユイノさんがそれぞれ歓声を上げ、その他の選手も嬌声や冷やかしの声で追従する。

「おいおい、何か忘れているんじゃないのか?」

 ザックコーチはそう言って窘めながら恋女房の身体を引き離し――あの魅力一杯のラビンさんに抱きつかれ理性を保つとは凄まじい精神力だ。やはり監督経験の長いミノタウロスは違うな――地面に降ろした。

「何だ? 何なのじゃ?」

 アカサオに目隠しされたジノリコーチが混乱して叫ぶ。ヨウジョには刺激が強いし、また鼻血でも出されたら大変だもんな。これはゴルルグ族の隠れたファインプレーだ。

「ラビンさんにね、物資を幾つか頼んでいたんです」

 俺はジノリコーチの疑問の一部を無視し一部に答えた。

「そうでした! モウ少しで忘れる所でしたわ。はい!」

 ラビンさんはそう言って鞄から小さな小包を取り出した。

「ムルトさん! 予備の眼鏡が来ましたよ?」

 俺は馬車の中で必死にこちらから目を背けていた会長に声をかける。先程の出来事、潔癖な彼女的には

「破廉恥ですわー!」

と言いたいシーンだったかもしれないが、ザックコーチとラビンさんはれっきとした夫婦だ。これくらいの睦み合いは自然な行為だろう。

「あ、ありがとうございます……」

 ムルトさんは馬車を降り、礼を言ってスポーツグラスを受け取る。実はこれこそが、俺がエルビレッジに連絡してわざわざ持ってきて貰ったものだ。

 選手の大半が遠征、残りも普及部の活動などで食堂も寮も暇だろうし、新婚さんが2週間も離ればなれで寂しいだろうし、とラビンさんに運搬を頼んだら二もなく引き受けてくれたのだ。

「あ、あとモウひとつ」

 そう言ってラビンさんは再度、鞄に手を突っ込み袋を出した。今度のはかなり大きい。

「何ですか、これ?」

「こちらは皆さんに、果物のパイです。車内ででモウ食べて下さい!」

 包みの隙間から綺麗に焼き上がったきつね色の生地が見えた。

「パイですか! ありがとうございます」

 そっか、パイが入ってたから鞄の紐があんなに食い込んでパイをスラッシュしてたんだ……って何を考えているの俺!?

「ありがとうございます。みんな、お礼は?」

 不埒な事を考えに納得している俺の代わりにナリンさんが選手たちへ声をかけた。

「ありがとう、ママ!」

「いろんな意味でごちそうさま!」

 なんやねんまだ食べてへんのにごちそうさま、って! いや分かるけどさ。

「すまんな。わざわざ」

「良いのよアナタ、一目でモウ、逢いたかったから……」

 名残惜しそうにそう言うと今度は慎み深く、ザックコーチとラビンさんは抱擁を交わした。その風景には流石に軽薄な声が上がったりはしない。 それを見ていると何だか自分が酷く冷酷な人間に思えてきた……。ふと見ると、ステフがやたらに目配せしてくる。それで俺は一つ、思いついた。

「そう言えばさあ、スワッグ?」

「ん!? なんだぴよ?」

 俺の急な大声に全員の目が集まる。

「何か足の調子が悪いとか言ってなかったっけ?」

「いやぜんぜん。俺のツインツインカムカムターボは絶好調だ……ぴいいい!?」

 答えるスワッグが急に悲鳴を上げた。誰にも気づかれぬ様、ステフがスワッグの尻を抓ったからである。

「いいや、悪い筈だよなあ?」

 今だけ、スワッグには走る正直者ではなく走れない不正直者になって貰わなければいけない。俺は再度、確認した。

「そ、そう言えば外反母趾の具合がちょっとぴよ……」

「治るまで2時間くらいかかるよな?」

「ぴっぴい……」

 スワッグはステフの手の捻りに操られるように答えた。

「そうか! ごめん、みんな! 乗り込んで貰って悪いけど、スワッグの足の調整が要るので出発は少し延期で! どっかぶらついてきて、2時間後にここに再集合。良い?」

「「はーい!」」

 俺が訊ね選手たちが答えると、ザックコーチとラビンさんは少し戸惑っていたが、やがて意図に気づいた。

「監督、良いのか?」

「何がです? あ、すみません! 俺はこの時間を利用してアーロン散策に勤しむので、ちょっと失礼!」

 俺はそう言って、既に四方八方へ散った選手たちを追う様にその場を去った。2時間早く着くより、少しでもザックコーチとラビンさんが逢瀬を重ねる時間があった方が良い。それにその程度の遅れ、スワッグと魔法の馬のツインカムターボ――って何なんだ?――が取り戻してくれるだろう。

「アーロン散策だってショーちゃん? じゃあ私がエスコートしてしんぜよー!」

 そう言って俺に腕を絡めてきたのはシャマーさんだ。

「いやあれは言葉のあやで……」

「分かってるって。近くのカフェでお喋りしよ?」

 シャマーさんはそのまま俺の手を引いてズンズンと進んでいく。その顔はいつものように何かをたくらんでそうな笑顔だが、特にそれ以上は何も言ってこない。

 その気遣いに感謝して、俺は素直に彼女に従う事にした。

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