第三幕 072話 クジャの荒肝



 サジュの町上空を黒い塊が通り過ぎていく。

 忌々しいそれを歯軋りしながら見送り、強く愛用の魔術杖を握りしめた。


 動けない。

 メメトハが動くことを、後ろで睨む者は許してはくれない。



「あれを……」


 随分と高い場所を飛ぶ。

 ここから――ヌカサジュのほとりから魔法を放っても届くまい。


 どうやってあれを落とすのか、考えても答えが見当たらない。

 ヌカサジュはサジュの町のすぐ北に位置する。黒い塊は湖から少し距離を離して飛んでいく。



『今度は近寄らぬか』


 ヌカサジュの主の声は、声を発しているという感じではない。

 体の表面を震わせて音を伝えているように思う。


「今度は?」

『先日はヌカサジュの上を飛び不快なものを落としていった』


 攻撃を仕掛けていったということか。


『ヌカサジュの命を無用に奪う慮外者め。もう一度ヌカサジュの上に来たのなら今度こそ私が砕くのだがな』


 湖主の力であれば、届く範囲にくればあれを落とすことも出来るのだろう。

 黒い塊の方も、それを理解しているのか近寄らない。



「……?」


 しかし、どういうことだろう。

 湖に攻撃を仕掛けていった?

 メメトハの頭に疑念が浮かぶ。


 あれが人間どもの使役する魔物だとすれば、サジュの町や清廊族を攻撃するのはわかる。

 今も、ルゥナたちが戦う戦場へと向かっていく。


 そうでなくて、なぜ湖を攻撃したのだろうか。

 空高くにあって狙いが不確かだったとしても、いくらなんでもヌカサジュまで外すなど有り得ない。


 ヌカサジュを狙っただとすれば……



「……伝説の魔物、か」


 あの巨体だ。空飛ぶあれも伝説の魔物だとして全く不思議はない。

 ロッザロンド大陸からカナンラダに渡り、湖に住むヌカサジュの主の気配を感じて攻撃を仕掛けた。

 縄張り意識の強い個体なのかもしれない。



『思い違いをしているようだが』


 メメトハの呟きに、否定の声が響く。


『あれは魔物では……生き物ではない。お前たちの言葉で言うのなら、船だ』

「船、じゃと?」


 改めて空を行く黒い塊を見た。


 風は西から東へ。それに乗って進む巨体は、確かに風を受けて進む船のような動き方をしている。

 形はメメトハの知る船とはまるで違う。クジャには帆船がないので書物で見知った限りだが。


 知識にないというのなら、そもそも空を飛ぶ船など知らない。

 だが伝説の魔物が見て生き物ではないと言うのだ。嘘だとは思えない。



『飛行船、と。姉神の知識の源泉にある』

「乗り物というのか。あれが」


 荷馬車や船と同じく、荷物や生き物を乗せて進む道具。

 あまりに巨大で、まして空を行くなど。考えたこともなかった。



「……だとしたら、ヌカサジュの主よ。妾たちと敵する理由はないではないか!」

『……』


 メメトハはこの魔物の名を知らない。教えてもらってもいない。

 ヌカサジュの主と呼ぶしかないが、今は否定されなかった。


「あれは人間どもの……人間どもが使う道具じゃ。湖に対する不敬な行いも人間どもがいなければ」

『元はそうでも、其方が湖の流れを堰き止めたことは変わらぬ。なかったことにはならぬ』

「そうじゃが……じゃが、その人間どもをこの地から消し去る為に妾たちは戦っておる。そこに寛恕を求めてはならんのか」


 命惜しさではない。

 口惜しいのは、この魔物が人間も清廊族も変わらぬ生き物と見做していること。

 清廊族はヌカサジュやカナンラダの大地、魔物たちと共に生きて来た。ずっと長いこと、何千年も。


 人間は違う。

 大地を無秩序に踏み荒らし、財貨を得る為に踏み入るべきではない他の生き物の領分を侵す。

 他者との共存を蔑ろに、己の繁栄のみを優先して。



「人間どもとの戦いが終われば、妾はこの身を湖に捧げよう。仲間が戦っておるのじゃ、どうか」


『思い違いをしておるようだが』


 先ほども、同じことを言われた。

 メメトハがこの上何を思い違いをしているというのか。

 苛立ちと共に魔物を見上げ、強く睨む。

 わからず屋め。




『あれを操っておるのは清廊族だ』



「……」


 言われたことの意味がわからなかった。



『二百も冬を越えたかわからぬが、私はかつてあれを見た。不相応な大言を吐く男であったが』

「なん……じゃ、と?」


 清廊族の寿命は長い。

 高齢であれば、冬を二百と五十を越える者もそれなりにいる。三百に届く者まで稀に。

 パニケヤたちはそこまでではないが、二百は越えているのではなかったか。


『この世界の神となるべく生まれた、などと。その時は少し懲らしめただけだが、殺しておくべきだった』


 だから、か。

 この湖を攻撃したのは、この強大な魔物がここにいることを知っていたから。

 疑問が解ける。点々とした疑念が、一つの糸で繋がっていく。



『ダァバ、と。そう名乗っていたか』


 ぷつんと。

 メメトハの中で糸が切れた。



「――‼」


 言葉にならない。

 言葉が出てこない。


 そうか、そうか。

 全ては……全ては、そういうことか。



『勝手は許さぬ。其方はヌカサジュの――』

「殺したければ今殺すがよい! 勝手にせよ!」


 メメトハはヌカサジュに背を向けて歩き出した。


「今度は後悔せぬよう殺すがよいわ!」

『……』


 メメトハは勝手にする。魔物は魔物で勝手にすればいい。



「ダァバと……ダァバとな。はっ」


 握り締めた魔術杖から冷気が溢れる。

 簡易詠唱の言葉も紡がずに魔法が溢れるのは、ただ力づくの無駄な消費だ。かつてアヴィもそんな愚かなことをしていた。


 魔法を使う際には、その現象と紡ぐ言葉が同じ方向を向いて初めて世界を作り出す。世界に染みついた物語をなぞることで。

 物語、逸話を言葉にして紡ぐことで魔法は発現する。他者に、世界に、現実として顕現させるもの。

 言葉も何もなしで、凍えるほどの怒りを他者に伝え知らせるなど本当にただの力づくで愚かなこと。


 溢れる怒りが制御できない。

 これだけ苦労して、多くの犠牲を払って。数知れぬ同胞の嘆きを聞いて。

 それら全ての悲痛の根源が今あの空にあり、また更なる災禍を振り撒いている。



「ダァバは、清廊族の……婆様の……」


 違う。

 そうだけれど違う。


「妾の怨敵じゃ! 妾の仇で、妾の苦しみの全てじゃ!」


 誰かの恨みではない。

 メメトハの苦しみも悲しみも嘆きも。全てそのダァバに端を発している。

 だから、他の誰でもない。メメトハの敵だ。



『其方らの事情は知らぬ。あれを落とすのは其方らの同胞の役目。其方は――』

「やかましいわ!」


 振り向き、怒鳴りつけた。


「わかっておるわ! 妾の命は貴様に預けた、わかっておるわ!」



 メメトハを人質にして、ニーレとユウラにはルゥナたちの下に向かってもらった。


 言ってある。ニーレには。

 無理なら退けと。

 メメトハの命一つと、仲間たちの命。優先するものを間違えるなと言ってある。


 それでも彼女らは、どれだけ無茶をしてでもあの黒い塊――飛行船を落とそうとするだろう。

 そういう性分だとわかっている。もちろん、やってくれるのではないかと期待もしていた。



「あれを片付けたら戻ってやるわ! その上で約定を守っただの守らんだの、どちらでも構わん! 殺したいといのであれば殺せ!」


 こんな魔物一匹にかかずらわっていられる場合ではない。


『そのようなこと』

「妾が逃げるというのであれば、その時は貴様の届く限りの清廊族を殺せば良い! クジャのメメトハが逃げた為とな!」


 再び背を向け、吐き棄てる。



「侮るでないわ、湖の魔物」


 自分だけが偉そうに、物事の道理をわかっているような風に。


「妾はクジャのメメトハ。命惜しさに約定を破るような育ち方はしておらんのじゃ!」


 駆け出した背中に、恐ろしい水の刃が襲って来たとしても。

 体が裂け、血肉一片になったとしても、やらなければならないことがある。出来た。


『……』


 奇妙なほどの静けさの後に、東から大きな爆裂音が響いてきた。



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